宇宙神道 正神崇敬会の書籍の内容紹介 「霊能開発の旅路」 笹本宗園著 第一部 その1

「霊能開発の旅路」
目次     
第一部 その2     
第一部 その3     
第一部 その4     
第一部 その5     
第二章

「霊能開発の旅路」笹本宗園著 第一部 その1

まえがき

本書は、財団法人日本心霊科学協会の機関誌、「心霊研究」に掲載された記事を一冊に集録したものです。
第一部「霊能開発の旅路」は、昭和58年9月号から昭和60年1月号まで掲載のもので、第二部「霊障解消の事例」は、昭和56年11月から昭和58年2月号にかけて、「霊障解消の体験的事例研究」として発表したものです。
これらの連載終了後、資料として保存したいので単行本にまとめて欲しいというご要望もあり、その他の人々にもいささかの参考になればと考え刊行しました。
第一部「霊能開発の旅路」は、私自身の幼少時から現在に至るまでの神霊とのかかわりを思い出として振り返ってみたものです。一個の人間の体験記録として、神霊、心霊を求める方々の参考の一端になりましたら幸いです。
第二部「霊障解消の事例」は、現在から考えてみて霊術修行上最も苦しかった時期の事例です。神様が私に対し最も大きな試練をお与え下さった頃のものです。この段階を乗り切ることによって、私は更に大きな神霊のご加護を頂いたのです。このような意味で、この事例を本書の第二部として集録することは経過的にもふさわしいものと考えています。
神霊に関する出版物は数多くありますが、事例をふまえた地道なものは誠に少ないのが実情です。真摯に神霊・心霊を探究する方々の一助になり得ますなら無上の喜びです。
本書の刊行に当たりご協力を賜わりました、株式会社エイト社代表取締役・助安由吉氏に感謝いたします。

昭和60年 立春   笹本宗園

第一部 霊能開発の旅路

はじめに 
今年の2月半ば頃、梅原氏から丁重な書面を頂き、私の霊的能力開発前後の事情を詳しく書いてみてほしいとのご要望をたまわりました。色々と思案しましたが、一つには、最近とみに「救霊」の仕事が多忙を極めており、原稿を書く時間も中々とりにくくなっている事情と、二つには、この答案が余りにも身近かのことでありすぎて、客観的に分析したり、論理的に叙述することが大変困難であったために、いたずらに思いめぐらして時間を経過したことをお許し頂きたいと存じます。
率直に申しまして、己れについて語り、自分のことについて述べることは困難さと共に聊(いささ)かの恥らいがあるものです。特に霊的な分野では、語りすぎれば嬌慢になり、舌足らずでは何のことかさっぱり判らないことも多くあります。
法律家は誠に巧いことを言われるもので、「必要かつ充分に」という論理の物指(ものさし)をもっておられますが、霊能のことを語るにはこの物指ではやや固きに失して、精妙な霊的世界のことを充分に伝え得ないのではないかとも思われます。
更にまた、語りの段に入りましても、私の霊能は、或る日突然に天啓を受けて開発されたという様なドラマティックなものではなく、人生の歩みの中で自然に、平凡な日常生活の中からしみ出るように現われてきたものであることを申しあげておかねばなりません。
私が過ぎ来たりし人生を振り返ってみて、霊能開発という言葉で表現する特別な修行をしたことはありません。そのために滝行をしたとか、その目的のために山に入ったという様なことはないのです。断食行をしたとか、座禅瞑想を特に行じたということもない、ごく当たり前の生活の中から霊能への道をたどって来たのです。
何か秘訣はなかったか?もしこのように問う方があれば、唯一だけありましたと答えることができます。それは格別に変わった方法ではありません。私だけがやっている方法、私だけが行ってきた方法というものでもありません。皆さん方が、恐らくは毎日行なっている方法だと思います。
それは何か?当然すぎる程に当然の方法、朝夕の神棚参拝と先祖様への挨拶。これだけです。これだけのことを1年365日、毎日必ず行なうのです。そして、3年、5年、10年、20年、30年と、着実に確実に実行するのです。私が行なってきた霊能開発の方法としては、これ以外の策があったとは考えられません。
ただ、人にはそれぞれの固有の因縁があります。また、守護神の因縁というものも色々と違っています。霊能開発と言っても高いものは一時的な鍛錬や訓練で生ずるものではありません。高い霊能は人間の側からではなく、神の側からの働きかけによって与えられる面が大きいと思います。日々神への感謝の祈りを捧げておりましたら、必要な人には神の側から霊的能力を授けて下さると思います。
世間的には、霊能力を得たいと切に望んでいる人も少なくないと思います。そのために聊(いささ)か精神的にも肉体的にも無理な訓練を行なっている人々を見掛けますが、この様なことは余り芳しいことではないと思います。無理に求めたものは、その殆どが「邪神界」につながった霊能力になってしまうからです。
さて、ここでは私の主張を申し述べることが主題ではなく、平凡な生活者にすぎない一人の人間に、月並な生活の中から霊能というものが発現されてきた一連のメカニズムを、回顧的に眺めていたいと思います。
同学の皆さんの中に、霊能開発という問題に対処するに当たって、聊(いささ)かなりとも参考になればと考えています。

Ⅰ 幼少の頃の思い出(1)

改めて私の幼少の頃の神仏とのかかわりあいを思いかえしてみますと、断片的ではありますが現在も記憶に残っている幾つかの事柄があります。これを思い出すままに述べてみましょう。

守護の神はいまし給う

今でも忘れ得ないことは、特別な宗教信仰を持っていたということもありませんが、素朴な伝統的信仰の雰囲気を持っていたと思われる祖母の影響です。また祖母は私が幼少の頃から、絶えず口癖に、「この子は庚申様の日の生まれだから庚申様に神縁がある。ご守護の神様は庚申様だから心配がない」などと申していました。「心配がない」という点は大いにはずれている様に思案をしていますが、これは私自身の不徳に因(よ)るもので、ご神縁とご守護の面については全く正確でした。
当時、庚申様とは何のことか判らないながら、毎月毎月庚申様のあつまり(講)に熱心に出かけてゆく祖母の様子や、庚申様とは大変有難い神様ですという祖母の説明に、それなりの理解と有難味を感じていた様でした。
庚申日とは干支の「かのえさる」に当たる日のことで、この日は金気が旺盛になり天地の万物を浄めて変革する日とされ、不浄を忌むとされています。この日は前非を悔い改めて善に向かう日でもあります。前生の非を悔い改めて、いや前世の非を悔い改めるために生まれて来たものの様です。
また、祖母は何処で誰に伺ったのか判りませんが、「この子は金比羅様のご守護が厚い。金比羅様がついて守っていて下さる」とも申しておりました。私が、「金比羅様ってどんな神様?」とたずねますと、「海の神様だよ。航海の神様だよ。有難い神様だよ」と繰り返し繰り返し説明してくれました。私の記憶の中にこの事柄が鮮明に残っています。
現在では守護神、守護霊のことが一般の人々の間でも注目され関心を呼んでおりますが、私共が幼少の頃はこの様な仕方で守護神、守護霊のことが取沙汰されていた様でした。
私は幼少の頃、祖母から庚申様がついていて下さるとか、金比羅様が守護していて下さるとか聞かされる都度、何かフンワリとした暖か味を肌に感じました。また内から自然に湧いてくる何とも言えない喜びの感覚がありました。
 後年、私が聊(いささ)か神事にたづさわる様なことになってから、これらの事柄の真偽についてサニワいたし、ご神示を頂いてみますと、素朴な祖母の申していた内容は神霊界の真実であるということが判り、改めて驚き入った次第です。
庚申の日とはスサノオ神界の大物主大神のお働きの日であり、事代主大神(えびす様)も共にお働きの浄化の日であります。正神界の竜神様が大活躍の日です。
また、金比羅様とはいうまでもなく、スサノオ神界の大物主大神様のことであります。大和国の三輪山にお鎮まりの神で、精霊界の統禦をなされていらっしゃる竜神様であります。私が全くあづかり知らぬうちに、スサノオ神界の神が、祖母を通して私に神理を伝えていたのだと、今更に思いかえしています。

島の記憶

私は生まれてから間もなく、両親と祖父母が一時的にうまくゆかなかったことから、父母につれられて伊豆七島の三宅島に渡り、小学校へ入る直前までこの島で過ごしました。伊豆下田からの距離は遠くはありませんが、海路をへだてた離島で暮らすことの中に、竜神界とのご神縁があったと思われます。
島での事柄は小学校入学前のことですが、子供心にも記憶は生々しいものです。私の住んでいた借家の前に2メートル位の道路がありました。それを横断すると前は雑木林になっていました。その林の中をつきぬけると村の鎮守様がありました。お宮の裏手へと出られるのです。
この鎮守の宮と雑木林は、私達数名の子供仲間の恰好の遊び場でした。私はおよそ5年間、ここを主たる遊び場所として育ったのです。気付かないうちに宮の眷族霊と一緒に楽しんでいたのかも知れません。当時の仲間は年長のN君、M君、S君、S君の叔父に当たるもS君より年下のO君と私、以上5人が常連でありました。上記の3名の方は小学校へ行っていたために、その間はO君と二人遊びが多かったと思います。この頃のことは今でも時折思いだします。
宮の境内には杉の大木が生い茂り、拝殿の横に神楽殿がありました。村祭りの際には巫子さんが美しい衣裳をつけて手に鈴をもち、音曲にあわせて舞う姿をみて、子供心に神界の姿を垣間見た様な感触を肌で感じたこともありました。この鮮やかな印象は30才すぎまでいきいきと記憶の中に残っていました。今にして思えば、住吉神界の竜神女神様の舞姿であります。
島の家の近くには2つの大きな池がありました。池の名は忘れましたが一つの池は水辺が平になっており、ボーイスカウトの人達がキャンプを張ることがあると聞いていました。もう一つの池は池の周囲が切り立った岩壁でスリバチ状に落ちこんでいました。私は前者の池には度々仲間と一緒にでかけ、フナ、コイなどの釣りをしました。私はこの頃から池を見るとその内に神霊がいらっしゃるという感覚がありました。
私はこの島の池を訪れる度に、何か恐れ多い感じになり、言葉では表せない畏敬の念に馳せられるのです。周辺が切り立った池には「耳のあるウナギ」が住んでいるという神秘的な話を聞かされた記憶があります。後日思案している中に「耳のあるウナギ=竜神」の姿が浮かんで参りました。
また七五三のお祝いの折に(7才か5才か不明)家から少し離れた宮へお参りに連れてゆかれた記憶があります。神社の記憶は一向になく、ただ”御供(ごく)”と呼ばれて、アジサイの葉い白飯を盛ったものを食べさせて頂いた記憶があります。この時の感覚は子供心に奇妙な霊的感触をもたらしました。以後、私はアジサイの葉をみますと神事との連想を惹き起こす様になり、神への畏敬をひしひしと感じます。今でもこの感覚が不思議でなりません。私にとってアジサイは単に植物であるというだけでなく、今でも神霊的感覚で映るのです。
私が3才の時、妹のよし子が生まれましたが1年もしないで他界しました。私は妹を火葬場へつれてゆくことに反対して泣きわめき、周囲の人々を手こずらせたことを覚えています。近所のおばさんが私を背負って家の外にでて、妹を送りだす席からはずされたのでした。私はこの人の髪の毛を懸命にかきむしったことを思いだします。
もの心がつきはじめた頃、可愛いい妹をつれ去ってゆかれるという想い、この断腸の思いは子供も大人も変わりはないと思います。妹の死のショックは成長してからもずっと念頭を去りませんでした。妹よし子への切ない想いが消え去ったのは、私が50才になり、私の供養と浄化祈願により、神界のお許しによって、よし子が霊界に入れたという確認がとれた時でした。47年ぶりにほっとした気持ちでした。

母の手あて法(浄霊法)

私は幼少の頃から健康にめぐまれていませんでした。しかし、あまり医師にはかからなかった様に思います。小学校へ入ってからは全く逆に医師と親戚づきあい出来る位に通院しました。
幼時の病気は母が添寝しながら唱題をして手で痛みの個所をなでていると治ったのです。しばらく黙想すると在りし日の母の唱題と痛い部分をなでてくれる面影を浮かばせてくれます。唱題は「ナミアミダブツ」であることもあり、「ナムミョウホウレンゲキョウ」であることもありました。宗派にこだわりのないものでした。その音韻はやさしく、あたたかく、時にはもの悲しいひびきがありました。この唱題を聴きながらなでて貰っていると次第に苦痛がやわらいでゆく感覚がありました。
多分この体験から、唱えごとを神仏に向かって一心不乱に念唱し、手でなでていると病いや痛みの大きな部分が治るという観念が自然に生じたと思います。腺病質、慿霊体質の重い状態にあった私には薬や注射よりも母の手あて法がはるかに効果があったと思います。現在、病難に苦しみ医師に見放された人々に、日々対面治療を行なっている私にとって、母が用いていた手法の正しさを日々思い知らされています。
小学校へ入学のため私は、入学の直前に父母と別になり、祖父母への許へ帰されました。”くにの学校”へ入れるために祖父母の方から迎えの人が突然に現われたのでした。急な出来事のために私は懐かしいN君、M君、S君、O君と別れの挨拶すら出来ませんでした。
ともあれ、私の手あて法、手かざし法の原初的な学習は、母の念唱と手あてによるものだったと思います。これも竜神界のお導きの賜物であったと思います。

庚申講の和讃のひびき

私が幼少の頃、私の田舎では宗教信仰の講が幾つか結成されておりました。さきに触れた庚申講や念仏講はその最も盛んなものでした。前者は真言宗系統のものであり、後者は浄土宗系統のものであったと思います。その他にも法華教行者が巡回して来る講もありました。
講の構成は村を大区分した大字の下の小区分「條(じょう)」を単位とするか、更に末端の微区分「什(じゅう)」を単位としていました。時には二つの「什」にまたがる場合もあったようです。私の生地では村の大字の下に六つの條と、一つの條の中に二から三の什が存在していました。
余談になりますが、私の田舎の風土記を見ますと、歴史上では宇治の平等院で戦死したとされている源義平が実際には伊豆の地に逃れて参られ、当地にて死去されたとされています。村の庄屋の子孫の家には今でも義平殿の遺品とされるものが数々残されています。このような流れによるものとして私の村の区画は京都風(?)に整理されています。
さて、庚申講はこのような「條」に属する約三十軒の家を単位として、お婆さんと主婦を対象に組織されていました。講は庚申の日に行なわれますので二ヶ月に一回の割合で開催されていたと思います。講舎(会場)は各家が順番制で行われていました。講宿になると前宿から二つの木箱が引き継がれます。
一つの木箱には帝釈天様の掛軸が入っていて、他の木箱には鐘と木槌が数個ずつ入っていました。帝釈天様の掛軸は講の日以外には開けることが禁じられていて、子供が開けて見ることは許されませんでした。
講日には講宿の負担が軽くなるように各家から米一合ずつ寄進がされ、他の経費は講宿もちでご馳走がつくられました。料理係は講宿のまわり数軒の主婦が奉仕する習わしでした。そして出来上がったご馳走を帝釈天様にお供えし、大人や子供に振る舞って、帝釈天様に鐘を叩きながら和讃をお唱えするのです。部落の先達の老婆達が最前列に並んで座り和讃を先導しました。比較的若い主婦達は後列に並んで唱和していました。
幼かった私には、この和讃にひびきが全身に沁み通る感じで、魂がその音韻の中に引きこまれてゆくような大きな感動を受けました。毎回のように庚申の日には講宿へ行って、お婆さんやお母さん達が唱和する和讃を聴くのが大変な喜びでした。和讃を聞いていると神仏の慈悲、神仏に対する畏敬の念が胸に迫ってきて、子供心に感極まって無性に涙が流れるのです。一緒の仲間達に泣き顔を見られるのが恥ずかしく顔をそむけながら懸命に和讃に聴き入っていました。
今は忘れてしまいましたが、子供の頃は和讃の文句を数多く憶えていて祖母を驚かせたこともありました。一人で度々和讃を口ずさんでいました。母も和讃が好きで洗濯をしながら歌っていたのをよく見たものです。
後年、青年期に一時キリスト教に入り讃美歌に心酔したことがありましたが、幼時に感動した和讃のひびきはキリスト教の讃美歌のひびきと同一のものだったと思います。それは竜神界の高い波動として、今もなお私の心の中にひびき渡っています。

海神様をめぐる罪と罰

私の生家は海辺にあります。渚から徒歩で5分位の所にあって、すぐ眼の前に海が広がって見えるのです。私が使っていた部屋から窓を開けると松原越しに波打つ様が手にとるように一望できて素晴らしい眺めでした。空が晴れて風の静かな日には白砂青松と碧い海が溶けあって絵のような美しさでした。風波の荒い日には一転して怒濤の海鳴りが地ひびきとなって終日轟音をたてていました。
小学校に上がってからは、5月の声をきくと天気の良い日には帰宅後に海へでかける機会が多かったと思います。目的は海の獲物をとることです。魚・カニ・エビ・タコ・貝類をとる楽しみは学校の勉強よりもはるかに素晴らしい思いでした。時には天草などの海草を獲ることもありましたが、海草は小学校も高学年になってからのことでした。
6月、梅雨前の炎暑の時期には小学校から家までの間を駆け足で戻り、カパンを縁側から家の中へ投げ入れて、あとは海猟の小道具を小脇にかかえて一目散に海辺へ駆けてゆくのが常でした。夏休みのうちは天候と海の状態さえよければほとんど毎日海へでかけました。海の荒れている日は砂浜で遊び、雨の日にも海辺の小屋でよく遊んだものでした。
このような時期、小学校の2年生か3年生の頃のことでしたが、夏休みの或る日に海から家へ帰りますと、自分の大事な部分(性器)が全体的に大きく腫れ上がっていることに気付きました。痛みはなかったのですが、水ぶくれのフウセンの様に膨らんで気味がわるく、排尿にも不便を感じました。海水による皮膚の反応ではないかと思いました。
私は幼少の頃から皮膚が丈夫な方ではなく、虫さされや樹液や薬品に弱かったので、その時も間もなく治るであろうと思っていました。一種のカブレと思っていたのです。しかしその後2日、3日と経っても一向に治らないため、耐えかねてこの事実を祖母と母に打ち明けました。祖母も母も大変驚いて私を医師のところと祈禱師のところへ連れてゆきました。
医師の方の診断や治療に関する記憶は残っておりませんが、祈禱師のお婆さんの方のことはよく覚えています。お婆さんの診断は、私が海辺の岩の上で小用を足した際に(大抵何時でもやっていた憶えがある)、岩の水たまり休んで居られた海神竜神様にオシッコをかけてしまったため、その罪に対する科を受けたものであるというのです。私はこの宣告を受けたとき大変申し訳ない気がしました。
このように説明した老婆の祈禱師は海神様にお詫びのための祈禱をしてくれました。祈禱の主神がどの神様であったかは皆目問題意識がありませんでしたが、間口三尺位の清楚な神床で、神々しい感じを受けました。この祈禱師の家は地味で小さな造りの家でした。しかしよく整頓されていたという記憶があります。
その後、大事な部分の腫れがどうなったか?祈禱をうけてから次第に腫れが引きはじめ、アレヨアレヨという間にしぼんでしまったのです。私は嬉しさと不思議さで複雑な気持ちでしたが、祖母や母はこの経過を至極自然なことと理解している様子でした。神様にお願いすれば治して頂ける場合もあるという信条には、今でも頭が下がる思いです。
その後私は、家の外での排尿の場合は必ず事前に「ごめんなさい」と声をかけ、その辺においでになっていらっしゃる神様に予(あらかじ)めお詫びを申しあげることにしています、このことは私の習慣になり、現在でも忠実に実行しています。
海神様を放尿によって穢せし罪→その償いとしての罰→お詫びの祈禱→神の許し→治癒。このような図式は偶然か無智な人の発想か単純な人々の論理ともみえますが、少なくとも私の周辺に起こった事実の説明としては至極妥当なもののように思われました。
現在の私は主客立場をかえて、神と人との仲介、取次の役目を負っていますが、この辺の考え方や神に対する不敬、罪、罰、ゆるし、治療に関する解釈論は、当時も今も大きく変わっていないように思えるのです。いうなれば、神、祈禱、祈禱師に対する認識や信頼は、私の場合にはこの奇しき体験によってその芽生えが形成されていたといってもよいでしょう。

路傍の地蔵様

小学校の頃、夏休みが終わる頃になると毎年のように海水を耳に入れるか、風邪をひくかして中耳炎を惹き起こしました。従って9月からの授業が始まる頃のなると町の耳鼻咽喉科へ通うのが常でした。その頃には同じ様な仲間が何人かおりました。
町の耳鼻咽喉科の医院まではおよそ4キロの道のりで徒歩で40分位かかりました。今とは違って道路の工合が悪く砂ぼこりが立つ道を、学校を早引けして連日通院しました。この道はバスも通っていましたが1時間に1台位の割合で、町まで10分位かかりましたので、大抵は歩きました。
私の場合、耳の治療に1ヶ月位かかるのが常でした。年によっては10月中旬の村祭りの頃まで治らないこともありました。秋の冷えこみがくるとカゼを引きやすく、そのために中耳炎の回復がおくれました。耳鼻咽喉科の先生とはいつも親戚のように親しい関係でした。
さて、ここで話を本筋に戻しましょう。私が中耳炎の治療に通う途中に一つの地蔵様が祀られておりました。当時私の村と下田町の間には3つトンネルがありました。私の村の方から下田町に向ってゆくと3つ目のトンネルの手前右側にこの地蔵様が安置されておりました。屋根付きの小さな建物の中に赤い前掛を首にかけて、右手には杖を持ち、左手には玉を持っていた記憶があります。
私は通院の途中、この地蔵様の前を通るとき何となくお参りしたい感じに駆られました。しかし子供が一人で地蔵様の前で手をあわせている恰好を見られることが恥かしい気もして最初のうちは歩きながら地蔵様の方に少しばかり顔を向けて軽い会釈をしていました。地蔵様の前には当時の一厘玉、五厘玉、一円玉などの硬貨が転がっていましたので、その前にしゃがんで合掌していると通行人から賽銭泥棒と間違えられはしないかという危惧もあったのかも知れません。地蔵様に参拝するにも当初はなかなか勇気が必要でした。
しかし何回目の通行の時からか定かではありませんが、次第に地蔵慣れして参りました。そして大胆に地蔵様の前へしゃがみ込んで、必ず礼拝をするようになりました。乏しい小使いを節約して賽銭をあげる習慣も身についてきました。そうなると往来の人の視線も気にならなくなり、地蔵様と自分との関係だけを意識してお祈り出来るようになりました。私はこの地蔵様を”トンネル口の地蔵様”と呼び、子供心に大変親しみを感じていたのです。
当時、子供心を何がそのように動かしていったのか、何故にそのような信心をもったのかは知る由もありません。ただ自分の内からの衝動として自然にそうなっていったとしか申しあげられません。しかし後年になって、この当時のことをご神前でお伺い申し上げますと、これは私の守護の竜神様がお導きなされたことで、地蔵の中にいまし給うた39万才の住吉神界の臣神様、29万才の住吉神界の臣神様とのお引き合わせであったことが判明しました。
この二柱の竜神女神様は、以後私の守護神に加わって下されたとのことです。人間の方が知らぬうちにも神界の妙なるお導きがたえずなされているものです。

まじないのお爺さん

小学校4年生頃のことでした。夏休みも終わりに近づいた或る日の夜、突然に激しい耳痛におそわれました。この年もまた例年のように中耳炎にかかってしまったのです。痛みはどこも辛いものですが、中耳炎の炎症が進行している時は大変なものです。耳の芯から頭部へかけてズキンズキンと激痛が走ります。心臓の鼓動が、即、耐え難い痛みとなって頭の中をつき抜けます。その夜も一秒一秒と刻みゆく痛みと闘いながら、まんじりともせず朝を迎えました。
翌朝、起床した母にこの事実を訴えますと、「あとでにいやのお爺さんの処へ連れていってあげよう。もう少し我慢していなさい」と言われました。にいや(新家)とは屋号のことです。この家が小学校の近くにあることはよく知っていました。その家のお爺さんも見掛けたことはありました。しかし話をしたことはありませんでした。遠目に見て70歳以上の感じで、色白の上品なご隠居様といった方でした。
しかし、今自分が耐えられない程の痛みで苦しんでいるというのに、何のために母はこのお爺さんの所へ連れてゆこうというのか、全く見当がつきません。「お医者様の所へ」というのではなく、やさしそうだけれども、ただのお爺さんの所へ連れていって何ができるのだろうかと、心中に反撥を感じていました。しかし、母の方は平常と変わりなく、にいやのお爺さんという人に一目おいている様に思われます。
母は皆に食事をさせて早々にあと片づけをすませると、刻々の痛みに泣きべそをかいている私を叱咤激励しながら家をでました。「男の子は泣くもんじゃない!」母の言葉を何度も聞きながら、にいやのお爺さんのところへ急ぎました。
わずか10分足らずの道のりですが、やっとの思いでにいやへたどり着きました。母は私の手をひいて玄関口に立って戸の外から声をかけました。「にいやのお爺さん、お早うございます。早々お願いがあって参りました。浜条のたけ(母の名)です」と。すると、中から咳ばらいをしながら白髪白肌のお爺さんが戸をあけて現われました。母はお爺さんの側へ寄り私の状態を早口で説明しました。お爺さんは笑顔で「さあ中へお入んなさい」と私達を招じ入れ、奥の立派な部屋へ案内してくれました。ここで暫く待たされました。
暫くして、フスマを開けて入って来たお爺さんの手には墨をすり終えた硯箱がのっていました。そして私の側へ静かに坐られ私と対座しました。「痛いのは取れるよ、静かにしているんだよ」と声をかけながら、墨をふくませた毛筆をとりあげました。そして何か不明の唱えごとを口の中で唱えられました。そして毛筆で私の耳のまわりをぬりはじめたのです。どのようにぬったかは判りませんが、墨をつけた部分は意外に冷たく感じられ、氷をのせられているように思いました。
間もなくお爺さんの処置が終わり私達は辞去しました。痛みは確かに軽くなっていました。その証拠には墨でぬられた耳を手で押さえないでもよい位になっていたからです。そして帰宅後安静にしておりますと、ズキンズキンという鼓動が響かないようになり、やがて痛みは著しくひいてゆきました。その時の中耳炎の激しい痛みと炎症は、にいやのお爺さんのまじないによって数日で治ってしまいました。
このような実際の体験によって、医師が行なう医療の道とは別に、神霊が関与する治療の道も本当にあるということを知ったのでした。

山の神祀りのご神縁

私の郷里では、私共が幼少の頃には子供達による「山の神祀り」という行事が盛んに行われていました。この行事は昭和20年までは実行されていた様に思いますが、太平洋戦争の終結とその後の思想の変動期に逢いこの伝統的行事は失われてしまったと思います。
「山の神祀り」は子供達の組織で行なわれていました。厳密に申しますと、部落「條」を単位とする15才未満の男子が山の神の氏子達で、女子は除かれていました。15才以上の者は別の「若衆」の組織に入ることになりますので、山の神の氏子から抜けることになっていました。
山の神のご祭神がどなたであるかという問題については、当時は大人も子供もあまり問題意識がなかったようです。ただ伝統のままに忠実に承継されていたと言ってよいでしょう。私は後年に至って山の神祀りのご祭神がどなた様であろうかと折に触れて思うことがありましたが、つきつめないままに時を過ごしておりました。最近このことについて神界にお伺い申しあげました処、スクナヒコナ大神であられる旨のお示しを頂いて大変驚き恐れ入った次第でした。
スクナヒコナ大神とはどういうお方かと申しますと、多くの人がご存知のように、大国主大神を助けて地上の国づくりをなされた大神様であります。医薬の道を教え給うた主神であり、宗教の道を教えなされた神でもあり、手かざしによる治病もこの神様が教え給うたものであります。背丈は小さい神様であると申されますが知慧充満の神と申されます。
山の神の主神は部落から山道をわけ登ること一キロ位の奥山に鎮座ましましていらっしゃいました。荷車がようやく通れる位の山道を九百メートルほど上がり、更に右手へ人がようやく通れる位の小径を百メートルほど登った所に祠がありました。
草木が茂るとこの小径は覆われて人は通れなくなります。従って山の神祀りの直前には小学校へ上がっている子供達が総出でこの小径の掃除をするのが慣行になっていました。めいめいに、ナタ・カマ・クワなどを持って山の参道づくりをするのです。笹竹や木の枝や草蔓を切りすすみ、祠の前に着く頃には子供達の手や顔は傷だらけになります。しかしご神前までたどり着いた喜びは子供心にも大変なものでした。祠の前には小さな広場があり、ここが奉納相撲の土俵になるのです。
山の神のお祭りの前夜には順番制で宿泊の宿(やど)が設けられます。子供達は小学校へ上がるとこの宿に合宿することになります。合宿の際には米五合と夜具を持って宿に参集します。そして子供達同士で楽しい前夜祭を行なうのです。
山の神の祭りは毎年2月中旬頃の日曜日だったと思います。立春の直後の日曜日ということになっていたと思います。季節は冬ですから朝は南国といえども大変な寒さですが、祭りの当日は暗いうちに起きて山の神様に参詣するのです。宿の子供を先頭に隊列を組んで山路を登り、山の神様に献饌を捧げて済ませ、ご神酒を戴いてから奉納相撲をするのです。霜柱の立っている土俵で素足で相撲を取るのですから、足が凍てついて感覚がなくなりますが、神様がご覧下さっていらっしゃると思うと子供なりに使命感の様なものが湧きだして、皆一生懸命に相撲に努めます。
参詣がすんだあとは宿に帰り朝食をとります。その後は海辺の白浜にでかけて終日お祭りの楽しい遊びに打ち興じます。子供達の計画に従って様々なゲームが行われます。幼児達も年寄り(おじいさんに限る)につれられて来ます。宿の近所の奉仕のお母さん方が炊き出しをして下さった「クチナシ」のおにぎり、「塩入り」のおにぎり、「醤油いり」のおにぎりなどが幾つかのおひつに一杯運ばれて来ます。子供達は遊んでは食べ、また遊んでは食べて飽満の一日を過ごすのです。年に一回の山の神様のお祭りは、神様と子供達の出会いの日、和楽の日でした。
私は幼な心に山の神様の印象が強烈でしたが、先述のようにご祭神がスクナヒコナ大神でいらっしゃることを知り恐懼感激いたしました。お伺いによりこの山祠には九十九万才の臣神(おみがみ)を筆頭に、九万八千体の神々眷族が鎮まっていらっしゃること、これらの神々が私の人生にもご守護を下されていたことも知りました。現在もわが家の神床におわしまして、神癒のご加護を給わっている由であります。ご神縁は何処にあるか判らぬものであります。日々の神仏とのおつきあいを大切にせねばならないと思います。

村の法華講の家

私の生家の部落に法華講の家がありました。この家の宗旨は曹洞宗であったと思いますが、家の宗旨とは別に一家で法華経の信仰をし、近所の人を集めて講を開いていました。2ヶ月か3ケ月毎に講が催されたと思います。
講の日には四十代とも思われる頑丈そうな中年女性の行者さんが参られます。南無妙法蓮華経と染め抜いたタスキをかけて見え、大声をだしてお経をあげられました。腹の底からでる力強い低音で、この家の障子がビリビリと震動する程の迫力がありました。本場の行者さんとはこういうものかと子供心にも大変驚き入った記憶があります。
講には主として近所のおばあさんが参集します。例の如く私の祖母も毎回参加していました。祖母はこの講のことを”サナダサン”と呼んでいました。私は最初この意味が何のことかさっぱり判りませんでしたが、”サナダサン”というのは”真田様”ということで、豊臣家の武将であった真田幸村のことであることが判りました。
法華講と真田幸村とがどういう関係にあるのか、どうして真田幸村がでてくるのか解せませんでしたが、何でもこの講の最中に、日蓮上人のお姿を祭壇の上に掲げてお題目を唱えていると、この講家のおばあさんに真田幸村の霊が何時ものり移ってでてくるというのです。この霊現象をとらえてか、祖母はこの講のことを”サナダサン”と呼び続けていました。他のおばあさん達がどのように呼んでいたかは全然わかりません。
私は祖母から徐々にこの様な話の筋を聞くに及んで大変興味を覚えました。”霊がのり移る”というのはどういうことなのか、死んでしまっている人がどうして生きている人にのり移ることができるものなのか、遠い歴史上の人物である真田幸村がどういう縁でこのおばあさんの所へくるのか、本当のことか否か、判らないことばかりでしたが、それ故に関心は一層高まるばかりでした。
法華経の行者さんは大抵は夕方に講家を訪れて夕刻から読経を始めることが多かったのですが、時には午後の陽が高いうちに始めることもありました。夕刻からの開始では雨戸を閉めてしまうので外からのぞくことができませんが、昼の講であれば猫の出入りする障子の破れからでものぞくことができます。私はこのことを思いついて昼の講が行われるのを待つことにしました。
幾莫かの期間があってから待望の昼間の講が開かれました。祖母の所へ連絡があるのですぐ判るのです。私は学校(小学校五年生頃)から帰ると講家へでかけました。講が始まる前のひととき、座敷の方ではおばあさん達が参拝者を待ちながら話をしていました。行者さんの声は普通の会話の時でもひときわ高く、少しハスキーな声でした。
程なくして、「さあ、そろそろ始めましょう」という行者さんの掛声でおばあさん達は正面に向かって座り直し威儀を正しました。幸にも私はこれらの情景をよく見ることができる縁側の障子穴にとりつくことができました。
儀式が始まります。行者さんの読経がはじまりました。何人かのおばあさんが経本を開いて唱和しましたが声量がちがうので、まるで行者さんの独唱の様でした。やがてウチワ太鼓がドンドコ、ドンドンドコドコと題目に合わせて打ち鳴らされました。すると講家のおばあさんの正座姿が立膝の姿に変わり、両腕を前へ突き出して手をにぎり、馬上の武者が手綱をひく様な形でリズムをとり、体を上下に動かすのです。時々前のめりになったり、後ろへそり返ったり、時には”ハッ”、”オッ”と発声しておりました。それが真田様、私はまんじりともせずにこの情景を見つづけました。
私が見た真田様は横顔しか見えませんでしたが、目はつむったままで、悲壮な面持ちでした。動作の勇ましさとは違った感触を覚えました。未浄化の感じでした。それはまた、講家のおばあさんの温和な顔とも大変懸け離れたものでした。
講が終わって帰って来た祖母に向かい、私は「サナダサン見て来たヨ」と言い、一瞬ブルブル身震いをしました。私はサナダサンの暗い感じ、勇まし気な中に淋し気なものを秘め、淋し気なものに負けまいとして、懸命に勇まし気に振る舞うそぶりにたまらないものを感じました。この憑依現象を見た私は、その後は祖母に一度もサナダサンのことを口にしたことがありません。

上棟式の投げ餅

新築家屋の上棟式にお祝いの投げ餅を行なう習慣は、昔は全国的な習わしであったと思います。私たちが子供の頃は投げ餅を拾いにゆくことが大変な楽しみの一つでした。村内で新築工事が始まると、子供達は上棟式が何時頃になるかということに関心をもちました。それが投げ餅を拾いにゆく日になるからです。新築家の子供が小学校に上がっていればすぐに聞いて、情報はたちまち知れ渡ってしまいます。
小学校四年生頃のことと記憶していますが、私の家と二キロ位離れた所にあるT部落のHさんの家の新築工事が始まったとの話が広がりました。Hさんは私より二級上の六年生で元気のよい快活な人でした。Hさんの新築家は当時ではめずらしい瓦葺の二階建ての家でしたから、建築中から大変な関心がよせられました。子供達の間では上棟式の投げ餅もさぞかし沢山あるだろうとの秘かな期待も抱かれていたと思います。
上棟式の日がやって来ました。村人達は定刻前にHさんの家に集まってきました。Hさんの家は周囲の空地だけでも五百坪を越える位の広さがありましたが、その広場も次々と集まってくる人々で埋められてゆきました。T部落の人達は大人も子供もほとんど集っていたと思われます。村内の家々はほとんど親戚になりますので大振舞の時は沢山の人々が寄ります。当日は村内の一割以上の人が参集した様に思います。
やがて新屋の棟に設けた桟敷の上にカマスに入れた餅が一杯運びあげられ、投げ役の人々も上がります。棟梁の掛声を合図に待ちこがれる群衆に向って紅白の餅が雨あられの様に撒かれます。私は群衆の中に入って押しまわされるのを避けて庭の隅の方に居りました。(以前に辛い目に逢った事がある)大人も子供も初めは高い姿勢で、飛んでくる餅をキャッチボールの様に手で受けとめていましたが、次第に地面をはい廻る様にして餅を拾っていました。
餅は前面の庭に集中してこぼれる様に投げられましたが、広場全体にはゆき届きませんでした。私の居た場所にはあまり飛んできませんでした。しかし人垣が一杯のために他にも移動することも出来ず、暫くは全体の様子を見ながら、時折、弾かれた餅が流れ弾の様に飛んでくるの待っていました。幾つかの餅がたて続けに飛んできました。周囲の人と一緒に地面に伏せました。目の前に落ちた一個の白餅を無我夢中でつかみました。とびつく様に押さえてつかんだため土で大分汚れていました。たった一個の拾いものでしたが、ようやく拾えたことでほっとしました。
餅投げは終わり、人々は引潮の様に散ってゆきました。私は一個の餅を着物のフトコロに入れて、落さない様に左手でしっかり押さえて、早駆けして帰途につきました。晩秋の日は暮れやすく、一キロ位帰って来た頃は周囲が薄暗くなっていました。
小学校のあたりまで来た時、私はこの一つの餅のことがフト気になりました。この一つの餅を家に持ち帰ったとして、家族は祖母、父、母、自分、妹三人。一つの餅ではみんなにあげられない。
ではどうしたらよいか?瞬間、「おじいさんにあげていこう!」という考えが頭の中をかすめました。おじいさんとは私の祖父のことです。初孫であり、自分の名前の一字をつけたこともあって祖父は私を最大限に可愛がってくれました。幼時に暫く別居していたため、物心ついてからの生活で祖父との交流は丸一年位ですが、私にとっては最も大事な人です。「そうしよう!」ともう一度心の中で叫んで、私はこの一個の餅の処置を決断したのです。
墓地は小学校の裏手に続く山の反対側にあります。祖父は私が小学校二年生の初め頃に他界し、今はそこに眠っているのです。小学校の校門を入り校庭を抜けて裏手へでる、そこから山へ登る、この道は片側が背丈の高い桜や雑木が茂っていて夕暮には気味わるい淋しい場所です。夕方子供が一人で通ることは普通にはあり得ないことと思われます。私も少々淋しい感じがしましたが、この餅を祖父にあげるんだと心に決めてしまうと、この想いが強く心の中を支配して、すっかり暮れてしまった山路も恐怖の思いも小さなものになってしまい、ひたすらに祖父の墓へ急いだのです。
息せき切って山を登り、頂きを越えて少し下りますと、夕暮の空に墓石の影が黒く浮き出て林立していました。勝手を知った墓地の中へ入り祖父が眠る墓石の前にたどりつきました。あたりはシーンとして物音一つない静寂の世界でした。
私はフトコロから餅を取りだして墓石の前に供えました。闇の中に聊(いささ)か汚れてはいても白い餅の輪郭が淡く浮きでて見えました。私は、「おじいさん、お餅だよ」と言って合掌しました。わけもなく涙がでて止まりませんでした。
暫くして我にかえり、南側の斜面の道を下り帰途につきました。墓地の道を歩いているという淋しさの感じは全然なく、ただ頭と顔が熱くほてって夜気の冷たさがほほに心地よく感じました。
上棟式の餅拾いから手ぶらで帰ってきた私を迎えた祖母と母は、私の心を気落ちさせまいとして慰めのことばをかけてくれました。「餅拾いはまだ何度もあるよ、この次に拾えるさ」と。
私は黙って聞いていました。私が祖母と母に対してこの一件を話したのはそれから一ヶ月位あとのことでした。祖母が泣いて喜んでくれたことを想い出します。

川辺の畑に建てられた供養碑

私が小学校低学年の頃と思われますが、近くの川辺の畑の中に突如として立派な石碑が建立されました。石製二段積のきれいな碑が、こともあろうに畑の真中に造られたことから、子供心にも一体どうしたことであろうか、と大変不思議に感じ怪訝に思いました。
この畑は子供達の遊びの回遊圏内にありましたので、時折その周辺を通ることがあります。時には飼兎の餌草を採りにこのあたりまででかけることもあります。何時も麦や芋や大根やキュウリなどが植えてあった畑の中に、墓地にも滅多に見掛けないような見栄えのする石碑が建てられたのですから、びっくりするのも当然のことです。
この畑が先輩のAさんの家の所有であることは判っていました。何度もAさんの父や祖母が畑仕事をしているのを見掛けたからです。Aさんの家ではなぜ畑の中にこのようなものを建てたのだろうか、それは外見上お墓のようなものであることは子供目にみてもハッキリと判りました。墓ならば墓地があるのに、どうして畑作の邪魔になる畑の中に造ったのだろうか。何か深い理由があるに違いないと思いました。そこで私は祖母に理由を尋ねました。
私から質問された祖母は最初は説明するのをためらっている様でしたが、私が執拗に尋ねましたので、ようやく次のような説明をしてくれました。それによれば、この碑の場所で一人の武士が戦死して、倒れたまま浮かばれない状態でいるということでした。このためにAさんの家で供養のため石碑を建ててあげたものだとのことでした。
その契機となった事実としてはAさんのお母さんが関係しているとのことでした。Aさんのお母さんは大変気立てのよい人でした。この家に嫁して四人の子供を産んで育てている途中で、不運にも健康を害してしまいました。胸を患っていたのです。Aさんの家では医療と併行して或る行者に診てもらいましたところ、このお母さんに畑の中で戦死した武士の霊が憑依していたことが判り、胸の病の根本原因がこの武士の霊障であると判明したので、慰霊供養の方法として石碑を建てたものであるとのことでした。これで石碑建立の意味が理解できました。
Aさんのお母さんは石碑建立の頃は未だ自宅療養中で、見た目には元気そうにしていました。家のまわりを散歩したり、陽なたぼっこをしたりしていました。私にも何時も気易く声をかけてくれたりしました。しかしそれから1~2年位たった頃かと思いますが、Aさんのお母さんは入院して間もなく他界されました。
Aさんの家では、立派な石碑を建てて憑依している武士の慰霊を行なったのですが、結果的には当面の目的であったお母さんの健康回復を実現することができませんでした。外見上では効果がなかったということになります。Aさんの家族の方々がどの様な感じでこの結果を受けとめたかについては一切わかりませんが、当時の短絡な子供の頭では割り切れないものを感じていました。
この事実は私がその後、霊的研究をすすめてゆく上で一つの問題として残っていました。後日、このことが気になり、機会をみてこの件の霊査を行なってみますと、次のことが判りました。
件(くだん)の武士は豊臣家の武士でありましたが、大阪で敗れたあと海路で伊豆の地にたどりつき、この部落に5年位居住していました。たまたま伊豆の東海岸の稲取の豪族が攻めて来たので、合戦して戦死したものであることが判りました。刀で胸部を切られて苦悶していた由でした。この状態でAさんのお母さんに憑依したのでした。<未浄化・重上>の状態です。
石碑供養により武士霊はかなり浄化されて、<未浄化・中上>の状態になっていたのでしたが、それ以上の浄化はできなかった由でした。このときAさんのお母さんの霊障はかなり進行しており肉体の内部は既に著しく破壊されていて、生命力が弱くなり、復元力を失なっていたとのことでした。
私は幼き日に見た川辺の畑の中に建てられた供養碑のことを思い浮かべ、「心霊治療と供養の問題」について、色々な問題提起と示唆を与えてくれたことを想いかえしています。この石碑は私の心霊能力開発と心霊研究の一里塚でもあったのです。

日課の第一は先祖様の給仕係

ご先祖様を大切にしなければならないということを、身をもって教え込んでくれたのは祖母でした。祖母は特定の宗教宗派にこだわりなく、純粋に先祖様を大切にすることを仕込んでくれました。この端緒は私を非常に可愛がってくれた祖父の死が契機になったと思います。
祖父は私が小学校二年生になったばかりの四月の下旬、心臓マヒで急逝しました。当日まで元気に働いていて、夕方は好きな晩酌もして、定まった時刻に就寝し、夜半に「用便へゆく」と、隣りに寝ている祖母に声をかけたまま他界したのです。祖母が不審に思ってゆすって見ましたが、既にこと切れていたとのことでした。磊落(れいらく)な祖父らしい死でした。
愛着の深かった祖父の死は幼い私にとって大きな衝撃でした。つい二ヶ月程前に、学芸会で桃太郎のおじいさん役をもらった私の演技が嬉しいといって、会場一杯に聞こえる様な大声で笑いこけた祖父の姿が私のまぶたに焼きついて離れませんでした。
 祖母も祖父の死で大分落胆した様でした。よく仏壇の前に坐って祖父に話しかけていることがありました。私が、「死んだおじいさんに聞こえるの?」と聞きますと、「死んでも霊魂というものがあって、おじいさんはちゃんと聞いているよ」と確信あり気に答えてくれました。
それから後は、仏壇に鎮まっておられる先祖様方、おじいさんに対する給仕供養は私の第一の日課になりました。祖母の指導によって起床、洗面のあと、すぐに仏前にぬかづいて給仕の挨拶をいたします。そして仏前に伏せてある飯器、茶器をお下げして台所へゆき、母が用意しているオヒツから飯器にご飯を盛り、茶器に一番茶を注いで仏前にお供えするのです。
給仕の次はお灯明をあげ、線香をあげます。あと、鐘をチーン、チーンと二回鳴らし、合掌して先祖様、おじいさんの霊を拝み慰霊するのです。また、仏前には生花を供えました。庭先の畑には季節によって、ダリヤ、百日草、菊などが沢山植えてありましたので、交互に切花をあげていました。生花のない冬の季節には、アクシバと称する自然生のサカキをあげていました。
果物や菓子などのお供えは、祖母や母が時折買ってきたものや、山で獲れた果物を供えました。他所からの頂きものは必ずお供えすることに習慣づけられていました。生きている人々よりも先祖様のことを優先させることが、私の子供の頃の掟でした。
こうして、先祖様の供養の給仕係となってから、このような課業は大変長期にわたって続いています。仕事の都合で若干ブランクができることもありますが、すぐに復元して続いています。ただ以前と様相が少しく違ってきましたのは、先祖様が全員成仏なされてしまったために食事を欲する者がなくなりましたので、朝の食事供養は省略していることです。朝は水と生花をあげ、お灯明をあげ、線香をあげて、鐘をチーン、チーンと叩いてからご挨拶と唱題をします。
後年、人霊浄化のお力を竜神界からお許し頂いて、比較的早い時期に先祖の浄化をいたしましたが、口を切って家内から出現した先祖様方は、私の幼少の頃からのことをを悉(ことごと)く知っておられました。供養のことについて、大変喜んでくれておりました。そして私があずかり知らぬ何代も前の先祖様方が、大変親密な感情をもって見守っていて下さったことに驚きかつ感激した次第です。
私の場合はこのようにして祖母の躾によって先祖供養のことを教えられ、自然に習慣として身についてきました。人生で最も大切なことを、抵抗なく修得できたことは大変な利益だったと思います。神界にお伺いしてみますと、幼少の頃は一千歳代の若い竜神眷族が一緒に先祖供養を先導して下されていたこと、今は非常に高い竜神様がご指導下されている由であります。供養には必ず竜神様が関与なさいます。

トイレの中で仏典を読む

私共が子供の頃は読書欲をみたしてくれる様な本があまりありませんでしたし、あっても中々手に入れることが難しかったと思います。記憶にあるのは講談社の絵本や『少年クラブ』位です。欲しいと思っても簡単に買ってもらうこともできず、本屋の店頭をうらめし気に見流して通ったことも再三ありました。
家にある本といえば父の書庫にあるものだけで、特殊な専門書ばかりでした。その中でただ一冊、漢字にフリガナのついている本がありました。それは『仏教聖典』という名のやや厚味のある小型本でした。
この本は書きだしの節々の始めに、”釈尊曰(しゃくそんのたまわ)く”と書かれていました。お釈迦様の物語り、説法、布教のことが書かれていました。私は他に読むべき本がなかったので、この本を繰り返し繰り返し読みました。繰り返し読んでいますと次第に面白くなり楽しくなってきました。お釈迦様という方が遠い外国人ではなくて、親しいお師匠さんの様に思えてきました。説法の内容も何となく判る様に思えてきました。
『仏教聖典』の読書は主としてトイレの中でしました。幼い頃から胃腸が弱く、排泄力も弱かった私はトイレに居るのに一時間もかかりました。痔疾もありましたので、体調を保つためにはどうしても長便所になってしまいました。仏典を読むには大変好適な時間でした。腰をすえて落ちついた学習ができました。
このような勉強もあってか、私の物の考え方は少年の頃から宗教的な色彩が濃くなっていた様に思います。罪穢、救済、懺悔、解脱、無常、地獄、極楽、涅槃などの専門的な概念語が子供心にも何となく理解できる様な気持ちになっていました。寺や仏像に対しても何となく親しみを感ずることができたと思っています。
この頃父が『浄土』という宗教誌を購読していました。家の宗旨は曹洞宗ですから自分の修行のために読んでいたものと思います。この宗教誌を読むことも楽しみでした。中村弁康という先生の人生相談指導が印象的であった記憶があります。また、この頃の知識によって法然上人の人格と思想をそれとなく認識させて頂いた様に思います。これらのことは小学校五~六年生の頃、トイレ学習で学ばせてもらったところが大でした。
私は現在、神仏の他力のお力を最も尊く最も強大なものと考えており、自力というものは強大な他力の中の限定された自力と考える哲学をもっていますが、このような考え方は少年の頃の、法然上人のパーソナリティとその哲学の影響と考えています。

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