宇宙神道 正神崇敬会の書籍の内容紹介 「霊能開発の旅路」 笹本宗園著 第一部 その4

「霊能開発の旅路」
目次    
第一部 その1    
第一部 その2    
第一部 その3    
第一部 その5    
第二章 

「霊能開発の旅路」笹本宗園著 第一部 その4

第一部 霊能開発の旅路 (その4)
Ⅱ少年期、青年期の思い出(2)
松原皎月(こうげつ)師のこと

この写真の主は弭間師の師匠ということでしたが、青年であることに戸惑っていました。私の顔立といささか似ているとは思いましたが、唐突なことでしたので、少なからず私は慌てました。その様な私の状況を見ながら弭間師は静かに写真の師匠のことについて話してくれました。
 この方は松原皎月という当時霊能力日本一といわれた大変な霊能者でありましたが、若干二十九歳(数え年)で他界された由で、キリストの再来と言われた人物だとのことでした。ミソギ教の系譜に属する人で、姫路にある洗心教の創立者であられたとのことでした。十一歳頃から弟子に教えを始められ、二十代の若さで多くの霊能者を養成されて、全国に多くの支部を開設された、大変な人物であられた由でした。
 弭間師はこの松原師匠の下で師範代を務めておられたとの由でしたが、師匠が二十九歳で他界された時は弭間師は四十七歳だったとのことでした。

弭間俊教師の略歴

弭間師は明治二十三年十二月十四日、山形県の鶴岡に出生されました。本名は政直。地元の小学校から、旧制中学は東北学院へ進みました。これはミッションスクールであり、毎日、お祈りと讃美歌の中で学習されました。
 医師になることを志望しておられた由でありますが、東北学院卒業の頃、兄を亡くした衝撃から人生観が変わり、一念発起して僧侶になる決心をされて、大正大学に進まれました。卒業後は芝の増上寺で修業されて僧侶となられました。俊教の名はこの僧名であった由です。以来師は浄土宗僧侶として寺の住職生活を送っていました。
 その後、現世の人々の精神的、肉体的悩みを救済する問題について思案の揚句、三十代の後半に寺をでて松原皎月師の教えを乞い、神道路線の上で厳しい霊道修業を行ない、松原師の師範代を務める程の霊術家になられた由でした。俊教の名は僧侶名ですが、神主名としても用いられたとのことでした。
 弭間師はその後福島に帰られて、先心教福島道場主として多くの人々の救済に当たられていました。
 昭和十五年、当時の内外情勢により、宗教上の統制が敷かれたため道場を閉鎖するに至り、以後上京して車輛統制会に入りました。以来八年間は人々の救済はストップされました。
 戦後、昭和二十三年から宗教活動を再開され、昭和二十七年に宗教法人「霊道洗心教」を樹立されて、広く地域の人々を救済されたのでした。多くの救霊救済の実績を残された希有の霊術家は、昭和四十六年五月四日、召されて神界へ還御されたのであります。

ご神縁

後年、弭間師と私の因縁について神界にお伺い申しあげましたところ、師のお家に導かれたのは私の守護神、竜神界の皇臣様のご神慮によるものでありました。霊感の鋭い弭間師は、余人の察知し得ぬ竜神界の高級神霊をキャッチされ、松原師匠の守護神も竜神界の皇臣様であられたことから、私と松原師匠との間に大変共通したイメージを強く感じられたのでありましょう。顔立ちも似ているようでありますが、弭間師は更に奥の奥を感受されたものと思います。
 弭間師の守護神様は、竜神界、稲荷神界、山神界にわたっており、弭間師は強力な神力を顕現なされた由でありますが、この卓抜した霊能者に引きあわせ、若き日に何ごとかを学ばしめんとして、私の守護神様は私をそこへ導かれて、弭間師と邂逅の結縁をなされた由でありました。有難い事です。
 現在の私の守護神界が、竜神界、稲荷神界、山神界に及んでいることを自覚するようになって、あの頃弭間師におめにかからせて頂いたご神慮の意味が、今少しずつ判りかけて参りました。三神界の神々のご神縁があらわれたのでした。
 高い守護神様のご神慮は一人の人間の歩みの中で、大変長期にわたって布石なされるものであると思います。

弭間俊教(はずましゅんきょう)師の思い出

弭間俊教師は私が接した霊能者の中で最も卓抜したお方であったと思っております。現代マスコミの舞台に色々な霊能者と称する人、称される人がタレント的に登場しておりますが、弭間師はこれらの人達とは全く異質なお方であったと考えます。同師は正神界の全神界にわたっての加護が厚く、守護神も大変多く付き添っておられました。類型的には審神者型の霊能者でしたが、霊媒能力も非常に高度な方であり、感受力は鋭敏でした。
 私が初対面のとき、眼の前で左手に半紙をつまんで、右手に鋭利な刀をもち、半紙をたてにして刀で素早く細切りにされました。半紙はカミソリの刃で切られたように鮮やかな切口でした。このあと、弭間師はこの刀の刃を左腕にあて、力を入れて右手で刀をしごきました。私はこの情景をみながらハラハラしていました。しかし、私の危惧に反して腕は切れず、浅い筋あとがついた程度でした。私は恐る恐る、「大変難しいことでしょうね」と申しますと、弭間師は、「いや、これは精神統一ができると容易にできるようになります」と申されました。
 さらに、同師が若い頃に修業した霊術、危険術の様々な写真を見せて頂きました。両腕に百本の針を通し、水入りのバケツ二個を両腕の針につるし、さらに素足で刀の刃の上に立つという恐ろしい写真もありました。私はここで、いわゆる霊術、危険術なるものについて、初めてその実態を詳しく解説して頂いたのです。
 その時のお話であったと思いますが、弭間師が戦時中に自宅で神仕えしておられた頃、特高の刑事が伝え聞いた噂によって調べに来たとき、神床の榊たての中に水音があり、刑事が怪しんで榊を抜いてみたが何もないので考えこんでいました、と言って、屈託なく笑っておられました。噂とは、同師が人々を驚かすために榊たてに「ドジョウ」をしのばせているとのことであった由、竜神様のラップをご存知なかったのでありましょう。
 滝行のことについては、滝に打たれても正神との感合はムダであるとのご意見でした。霊能開発は”洗心の修業”をしながら、時期を待つことが大切であるとのことでした。
 弭間師は怒りを知らぬ人のようでした。金銭欲のない人で、何時も物にこだわってはいけないとさとされていました。現世的には無欲そのものでした。名誉、地位、権力とは全く無縁の人であったと思います。
 救霊の仕事となると大変な熱心さで、傷ついている霊魂達も弭間師のことをよくご存知のようでした。多摩墓地を歩いていると、未浄化な霊達が足にかじりついてきて助けを求めるので大変だよ、と申しておられました。(この話の真実性がこの頃私にも体験的に判るようになりました)
 初めて訪れた家の玄関先で、近日中に死者があること、不慮の死を遂げた人があること等の予感がことごとく適中するといった鋭敏な霊感者でした。
 弭間師はまた招霊の名手でした。特別に専門の霊媒を必要とせず、多くの不特定の人の求めに応じて、近親者の霊(先祖霊、身内霊)を招霊され、速やかに成仏に導かれておられました。誠に鮮やかな救霊でした。竜神界、火竜神界のご守護が大変強かったと思います。私はこのような場面をみて、初めての体験として非常な感銘を受けたものです。
 今日の私が、全くおなじようなことを、格別の指導も得ることなしにおのずから出来るようになった背景には、このような現象体験を若き日に味わわしめて下さった守護神様のご深慮があり、深く感謝するものです。
 弭間師は、時々お目にかかると何気なしに「ゆうべ高尾山のカラス天狗がやって来ましてね……」などと屈託なく話されるのでした。神霊界といつも交流されていた同師の日常の心境が偲ばれます。
 中年から気合術、催眠術、危険術、招霊、浄霊、入神、などの霊術を学んで体得された弭間師は、救霊を通して多くの人を助けられた、文字通り霊術界における文武両道の師範だったと思います。私は直接実技指導を受けたことはありませんでしたが、接している中から多くのものを学びとらせて頂いたと思います。若き日によき師にめぐり会えたことは大変に有難いことです。

神道学習のことども

熊崎健翁師の信名の教えによって神道の内容の一端に触れた私は、天理教の修養科において神道なるものの一面に接してみて、神道の教えの中には何かしらもっと深いものがあるような気がして、神道の範疇にある様々な教えを追求してみたのです。
 十代でキリスト教に接して十年間、一神教の神観に培(つちか)われてきたことから、複数の神観、多神の神は一見したところでは幼稚なもの、原始的なものと感じたこともありました。一神論の神観が文明人、文明国の宗教であるかのように考えられているからです。
 神道の神観は根本は一神に発するものの、複数神、多数神に展開しています。八百萬(やおよろず)の神々がおわしますわけで、眷族霊段階ではシャーマニズムの名残りが濃厚です。この面を強調しますと後進的な宗教であるかのように錯覚する向きもあります。
 しかしながら、神道の神観を克明に学習してゆくうちに、私は日本神道の神の御名の中に秘められている言葉の能(はた)らきを知り、神名そのもののうちに大きな神力が作動していることを理解するに従い、今まで自分が抱いていた、やや思い上がったような形式的神観がガラガラと音をたてて崩れてゆくのを感じたのです。
 私は当時、教派神道の主要なものとして、天理教との関連で時代的にも地域的にも近似性をもつ、黒住教、金光教、大本教に感心を持ちました。また、友清歓真師の天行居にも興味をもって学ばせて頂きました。
 教派神道の学習の中での最大の疑問は、天理教、大本教の中に、日本神道の親神と称えまつる天照大神の御事がでてこないことでした。現在の認識では当然と思えることですが、学習の途上では素朴にして重大な疑問でした。
 しかしながら、天理、金光、大本の教えが、天地創造段階における親神、国常立大神の神界からの主導的な教えであることを理解するに至ったとき、神代七代の神々が主役としておはたらき下さる教団である、これらの教派の存在意義が理解できたのでした。
 只今の神界は天照大神の統治の御代でありますが、この統治時代において、地上界、幽界があまありにも曇りと穢れに満ちているため、創造期の御代の神々が助成のために祓い清めに再現なされたという、神界の秘儀がよくのみ込めたのです。
 このような、一連の神界演出の「神芝居」の全体像を知らずして、個々の教団のセクト主義にのみ走るようなことがあるとすれば、地上の教団のあり方はご神意に反することにもなりかねないのです。
 教派神道は誕生の頃は清新ハツラツとして刷新の気に充ちて、神道の生命を生々と蘇らせてくれました。それは教義論や教理論ではなく、生々とした救いの力でした。一時的には復活した神道がそこに存在したのです。しかし現在では、その生々した光が薄もやの中にかき消されつつあるのではないかと思います。
 教派神道を起こされた取次人の方々、黒住宗忠師や、金光大人様、中山ミキ様、出口なお様などの方々は、神界にお伺い申しあげてみますと、誠に偉大な人達であります。ほとんど皇臣神(すめのおみがみ)のご守護を頂いている方々です。しかしながら、二代目様以後になりますと、皇臣神のご守護は持続されておりません。教団の組織は大きくなり、信者さんはふえても、救いの力は著しく減少していると申しても誤りではないと思います。余程の努力をしないと神力を頂くことは難しくなります。
 神道は神と人とが直接に結びつく教えであり、生々とはたらく神と、生々とした人間が共に生きる道だと思います。厖大な教義、教典をいかに頭でマスターしても、それだけで神道の神を理解することは出来ないと思います。それは教派神道だけではなく、神社神道の神仕えについても言えることでありましょう。神界では、人間界における絶えざる刷新を求め、神人の脇働を切に期待されて居給うと思うのであります。心すべきことであります。

瞑想、精神統一の行

昭和三十一年の夏のことと思いますが、私は、住まいの一室で瞑想による精神統一を行なったことがありました。このような瞑想を五回ほど行なった記憶があります。かねてより、独りでの瞑想、精神統一は難しいし、また危険であるということを聞いていましたので、正座して統一をむすび、方式に添っての統一はいたしたことがありませんでした。
 しかし、この時は何となく瞑想による精神統一をしたくなり、机上に灯明をつけて正座し、統一印をむすんで瞑想に入りました。この時も指導者があったわけでもなく、特別なガイドブックがあったわけでもありませんでした。全く自然な気持ちで座ってみたわけです。眼は半眼に開けていました。
 統一に入って五分位たちますと、体に充実感がでてきて目ばたきができました。そして眼の中にまばゆい程の光が輝きはじめました。幾分体が動く感じがしました。大きな霊動ではありませんでした。そうしているうちに、私の口から自然に”神来り給う”という言葉がでて参りました。連続してでて参りました。背筋がすっと伸びた感じで、座っているという感じがありませんでした。眼の中の光は益々大きくなりました。すると私の頭から全身に一瞬水で洗われたような清涼感が走り、歓喜の念がこみあげて来ました。この歓喜の感じは暫らく続いて消えてゆきました。このあとは実にすがすがしい清明な気分になり、瞑想を修了したのであります。
 この数回の体験の後は、改めてこのような形の瞑想を行なったことはありませんでした。私は後日この時の体験がいかなるものであったかについて、神界にお尋ね申しあげたのですが、これに対するお答えは、私の守護神様、大国主神界の九十九万歳の臣神、四柱の方々によるご指導によるものであったことが判りました。
 私の口よりでた”神来り給う”という言葉は、私に対するお示しとして、この守護神様方が言わしめたものであったとの由であります。神憑りの事実を教え示して下されたものでありました。この時にお憑り下された神はこの四柱の方々であられたのでした。
 当時の私は生活もままならぬ状態でしたが、精神面では比較的に冷静で、物質的な面には縁がありませんでしたから、かえって守護神様に近い心境にあったのでしょう。そのために精神統一にふさわしい条件下にあって、守護神様のご指導が頂けたのではないかと思っています。この体験があってから、私自身の霊感が急に強くなったように思います。その後、運命の相談ごとでおいでになる方が大分増えて参りました。若輩の許へ地方政界の方々や実業界の方々もよくおみえになりました。
 さらに後日のお伺いによれば、神憑り下された大国主神界の九十九万歳の四柱の神々は私の五十代前世(五十回前の人生のこと)からご守護下されておいでになられる由でありますから、私の魂の癖も百も二百もご存知でありましょう。
 なお、私の審神者能力について臣神レベルでみて100点とのお示しでありました。ただし未だ未開発の部分が大きいとの由であります。さきの弭間師の審神者能力は100点で、師の場合は50歳にして100%の審神者能力を開発されたとの神示であります。驚くべきお方であります。
 正神界の霊能者と言われる者は厳密に申しますと、3%との由であります。これは誠に大変なことで、霊能にかかわる者は常に慎重を要し、自戒自省が求められる所以です。このゆえに、霊能開初に当たっては慎重さの上にも慎重さを加えてするべきだと思います。
 世上、九十九万歳の邪神は最高の魔力を発揮しておりますが、このレベルのものをお祓いできる霊能者は極めて稀であります。お祓いしようとして取憑かれてしまう霊能者は沢山おります。取憑かれると邪神界に引きずり込まれますから、浄化力はなくなります。取憑かれていることに気付く霊能者も少なくないというのが現実ですから、同行の皆様の留意を喚起しておきたいと思います。
 私の精神統一行は、はからずも大国主神界の九十九万歳の四柱の臣様によって守られているため、邪霊の憑依をうけることなしに済んだ次第でありました。有難いことでした。

身延山詣りの話

私は昭和32年のはじめ、高橋さんという大学の先輩の引きもあって、短期間でしたが、ある商事会社へ入りました。この会社は洋服の布地や既成服を販売する会社でした。
 先輩の指導や助言もあって、入社後間もなく仕事を速やかに覚え、販売実績も順調にあげることができました。またたく間に東京支店でナンバーワンになりました。販売の仕事に適性があったのでしょうか。
 この実績がきっかけになって、私は大阪支社から急遽上京された常務に呼ばれてお賞めにあずかったあと、会社の幹部候補として精神面の修業を積んでほしいと言われました。一般論かと思っていますと、続くお話は大変具体的なことでした。その話と申しますのは、この会社の重役さん方が信仰している「霊法会」という立派な宗教団体があるので、この会の主催する身延山詣りに参加しないか、という誘いでした。
 当時は教派神道の勉強を中心に宗教の追究をしていた折でもあり、色々な方面の書物を比較的広く見ていた時期でした。法華経に関するものとしては田中智学氏の著書を読んで、その内容と理論に感銘していた時でもあったので、この宗教に入るか否かは別として、身延山へお詣りすることは良いことだろうと思いました。
 私の幼時、祖母は日蓮様の法華講に入っていて、”日蓮サン”と親しみをもってお呼びしていたこともあり、また日蓮様は大変な偉丈夫で、大変親孝行であられたという祖母の話が頭に残っていたこともあって、身延山詣りは日蓮上人の本陣にお伺いすることだから、何かをつかめるかも知れないという期待もありました。
 その後2~3日して、本社から社長が上京されました。大阪出身の商売人という噂でしたから、さぞかしたくましい人だと思っていましたが、お目にかかると大変やさしい物わかりの良い方でした。
社長は私を呼ばれて、開口一番、「仕事三分、心づくり七分でやってくれ給え」との仰せでした。商売気を微塵も感じさせないような心くばりでした。
 それから一ヶ月位あとのこと、私は霊法会の身延山団体参拝の一行に加わって、白装束に杖をもって登山することになりました。その時の心境に矛盾するものはなかったかと問われたならば、「オマンダラの中には天照大神とご神名が書いてありますよ!」と答えたにちがいありません。この頃の知識の中で、”法華神道”についてもいささかの知識をもっていたようです。

身延山への登山参拝のこと

霊法会の身延山への団体参拝の一行に加わることになった私は、交付された白装束一式、タスキ、ジュズなどを家に持ち帰り、家内に事の次第を話しました。家内はちょっとビックリした表情でしたが、今度のことは比較的に自由な話であり半ば社命的要素もあったので妥協してくれたようでした。
 いよいよ団参の当日、社長以下総勢十人の者は会社で白装束に着替えました。頭には白鉢巻を締め、白装束着衣上下、手甲、キャハン、白足袋、ワラジ履き、首にズタ袋をかけ、ジュズを垂らす、手に金剛杖、すげ笠といったいでたちです。会社の中に忽然と行者集団が誕生した風景は誠にユーモラスでした。社長は大日如来様のような温顔でニコニコされており、常務は仁王のような顔にテレたような笑いを浮かべていました。衣裳を替えただけで、利益社会の人間が非利益社会の人間に変貌して見えました。
 着替えが終了し、一行は徒歩で東京駅へ向かいました。東京駅から中央線に乗り、身延線にのり替えて、身延に向かいました。形が心を規制するということもあってか、車中の私達は日常の会社勤務の時といささか違った雰囲気がありました。お互いに余分な話はせず、無口になりがちでした。無言の行をしている感じでした。後日の神示では、この時間に住吉神界の竜神様方がお導き下されていたとの由でした。
 身延に着いてから暫く休憩し、他からやって参られた多勢のグループに合流しました。かなり大きな団参になったのです。ここで初めて霊法会の先達(教祖)さんを拝見いたしました。この先達さんは、法華経の練達した行者さんらしい屈強な感じの五十代ともおぼしき男性で、身体はよく太って引き締まった体躯の持ち主でした。精神的にも練磨された強靭な人物だとの印象をうけました。お話をはじめると大衆的な雰囲気があり、同時に大変強烈なカリスマ的パワーを感じさせるものがありました。
 やがて一行は長い行列をつくって身延山を登りました。久し振りの登山でしたから大変に疲れました。6月の暑い陽ざしが照りつけて少し登っただけでも身体中から汗が流れました。中腹を過ぎる頃には足に疲労が強くではじめて来ました。辛いと思うと一層辛くなるので余事を考えず黙々と登りました。先達さんは一行の者に時折掛声をかけながら志気を鼓舞していました。
 途中、道幅が広くなった場所があり、ここで休憩に入りました。先達さんは「さあ、ここで少し休憩しよう」と呼びかけ、また、「ジュースでも飲もうや」と言われて、自身も手持のジュースをビンごと傾けておられました。大変飾り気のない気さくな人でした。少し休んだあと、先達さんは傍の大きな石の上に上って、一行の者をまわりに集め、「法話」をされました。田中智学氏の考え方をとりあげて、法華経の実践者の立場から若干批判をされていた話が記憶に残っています
 私達はそれからまたひとしきり山路をたどり、重い足を引きずりながら、ようやく山頂にたどりつきました。そして、幾つかのグループに分れて、それぞれの房(ぼう)(宿舎)に入りました。ここで一息つくことができてホッとしました。しかし、遊びの登山ではありませんので、休憩のあと房の中でこの会の集会が行なわれました。
 私達のグループはおよそ三十人位の人数でしたが、このグループの長である男子の教師によって集会が進行されました。会衆一同は正面に向かって座り、上座には会衆の方を向いて女性の霊媒が座りました。教師は上座で霊媒の方を向き、私達とは横向きになるように座っていました。そして、教師が合掌して「南無妙法蓮華経」と唱えていますと、瞑目していた霊媒に霊が憑(かか)って来ました。
 憑って来た霊は人霊で、無縁の未浄化霊のようでした。私は会衆の一番後ろにいましたので、よく聞きとれない部分がありましたが、「○○○がたべたいヨー」とか、「水が飲みたいヨー」などと聞こえました。その霊媒に現われている霊の形相や発声に恐怖を覚えて、ガタガタ震えている人も多数おりました。
 私が咄嗟に”水!”と申しますと、隣りに座っていた青年が弾かれたようにピョンと立上り、台所の方へとトコトコと走ってゆきました。リーダーの教師がこれを制して、懸命に唱題を続けましたところ、この幽界霊は少しずつ鎮静してゆきました。この会は”仏おろし”を一つの特長としているようです。
 団参の別の教師の話では、仏おろしをしているといつも狸がでて来て困るとのことでした。大変真剣に話していたことが、深刻でもあり滑稽でもありました。実践宗教の第一線にいる教師の苦悩を聞いて、私は大変複雑な気持ちに駆られたのです。
 幽界霊の招霊のあと、集会は次の段に進みました。それはこの会の精華ともいうべき、ハイライトの部分でした。件の女性の霊媒の口を通して、先達の声で、先達の説教がなされたのです。勿論、この房の席には先達はおりませんから、腹話術ではありません。この席におられない先達の太い力強い声が、妙齢の女性の霊媒の口をついてでて参るのですから、この演出は圧巻でした。信者さん方には正にこの一事だけでも恐懼感激おくあたわざるもののようでした。私もこの時点では神変不可思議なことと感心いたしました。
 このあと、霊友会の創立者であった久保角太郎師の霊が出現されて、会衆一同に挨拶をされました。何時も七面山にとどまっているので訪れてほしいとのことでした。この霊法会は、私が頂いたご神示によりますと、霊友会の系統の中では正神系の会派であり、浄化力のある集団であるとの由でありましたから、久保角太郎師の霊は大きな期待をよせられておられたと思います。
 翌日私共は寺院に参拝しました。清涼な風が峰をわたり大変すがすがしい気持ちでした。お山の僧侶から日蓮上人の一代記を拝聴しました。思親の人(親孝行な人)であったという点に思いを新たにした次第でした。千葉出身であった私の母が、辛い苦しい時に、「南無妙法蓮華経」と一心に唱えていたことを思いだして、日蓮上人の糸とどこかで結びついているのではないかという感じを受けた次第です。
 下山の足取は軽く、下り道の景観は見事でした。私はこの団参に参加したことでまた一つの勉強をさせて頂いたのです。後日この一連の事について神界にお伺いしてみますと、これらは悉く私の守護神様の中、住吉神界の方々のお導きによるものであったことが判りました。
 身延山の神霊界は住吉神界であり、九十九万歳の臣神が鎮護されておられますが、あの男性的な感じの強い日蓮上人のご守護が、住吉神界の女神様であったということはいささか意外でもありました。
 しかし、海の多い千葉に生まれ育った上人が、海の神、住吉神界の神々のご守護を頂いていることは、当然のことであろうと納得したのであります。身延山詣りは大変楽しい思い出の一つです。

伊勢神宮への参拝

幼少の頃から伊勢の大神宮に対する畏敬の念を持ち続けながら、参拝の機会が容易に得られませんでした。私が中学生の頃は修学旅行もままならぬ時期で修学旅行による伊勢詣りも出来ませんでした。
 私に伊勢詣りの待望の機会がめぐってきましたのは、昭和30年2月、田中久雄先生の衆院選挙の最中のことでした。東京から三重県にでかけて現地をあちらこちら走り廻っていたところ、田中先生から声がかかり、「お伊勢様の特別参拝バッジを拝借できましたから、忙しい折ですがすぐにお参りして来なさい」と申されました。猫の手も借りたいような多忙の毎日でしたが、奥様からも、「またとない機会ですから、是非いらっしゃって下さい」とのこと、私は恐縮しながらも降ってわいたチャンスに欣喜しました。私は選挙の祈願をこめてのお伊勢詣りの趣旨を申しあげて、田中先生ご夫妻のご意向を頂戴したのです。
 多忙の折でしたのに同行者を一人つけてくださいました。当地の地理に暗い私には大変有難いことでした。その日はめずらしく風もなく、快晴にめぐまれて大変よい日でした。走り廻っている人々には申し訳ないと思いましたが、こちらも一役と思い津市から伊勢へ向かいました。
 途中の案内は同行の方に一切お委せして、私は専ら車窓からみえる風景を眺めていました。関西へ参ったのは初めてでしたから、伊勢詣りの途中の景観は大変めずらしいものとして目に映りました。憧憬の聖地へ向かっているのだという感懐も胸をときめかせていました。
 案内されるままに内宮に着きました。杉木立の中に簡素で厳粛な風格を示されたご神屋、萱葺きの屋根、千木高くそびえ、棟にはかつお木を並べ、堀立の柱を用い、誠に清楚なるものと感じました。御垣は瑞垣、内玉垣、外玉垣、板垣とめぐらされていました。私は特別参拝の恩典に浴して玉垣の奥深く案内されて参拝を許されました。
 先導下された穪宜様のあとをついて、垣内の辺と角を几帳面に歩くような形で歩を運び、御神前に進み参拝を許されたのでした。大変有難いことでした。
 外宮参拝については記憶が判然とせず誠に申し訳ないことです。ご神前で参拝いたしたことは確かなことですが、具体的なことが浮かんでこないのです。およそ三十年も前のことですから、お許し願いたいと思います。
 この度の伊勢大神宮の参拝のことについて、改めて神様にお伺い申し上げましたところ、この機会をおつくり下されたお方は、天照神界の火竜神女神様であられたとのことです。伊勢大神宮参拝バッジのご守護に当たられておられた九十九万歳の火竜神様、五柱の方々が、私の当時の火竜神界守護神様、四十九万歳の火竜神様、四柱の方々をうながされて参拝に導かれたとのことでありました。今日の私は火竜神界九十九万歳のお方の億単位の厚いご守護をいただいておりますが、このお伊勢詣りは私の人生にとって大事な転期になったと思います。伊勢の火竜様にもご挨拶が叶った日でありました。
 ただ、人間の愚かさというべきか、火竜様に導かれて大神宮へお詣りしながらも、本当にご守護の意味がわかるまでには、それからまた二十年もの月日を要しました。神は教えて下されても人の悟りは誠に遅々たるものです。
 今日、私は神霊の穢されたものを浄化祈願してゆく過程のことでありますが、出現したイナリ神の臣、眷族霊が、伊勢に参りたいと申すことがあります。あのすがすがしい聖地で修業したいと願うのは、人間のみではないと思うのであります。伊勢大神宮のご存在の意味が、年々に大きく、重く感じられるこの頃です。

竹内満朋師の降霊実験会参加

私は昭和33年頃、父の関係もあって食品会社のM社に入社しました。ここでおよそ十年間勤めさせて頂くこととなりました。この期間は神業とは無縁な環境でしたから、家庭内でのお祀りに終始いたしておりました。
 この頃の思い出として残っているのは、物理霊媒として有名な竹内満朋先生の降霊実験会に参加させて頂いた時のことです。このことについて述べてみましょう。
 この降霊実験会に出席することになったキッカケは、当時銀座で診療所を開いておられた渡会浩先生のご紹介によるものでした。
 渡会先生はローヤルゼリーの研究家として有名であられ、東洋医学に対するご造詣も深く、更に、心霊研究についてもスウェーデンボルグの『天界と地獄』を翻訳されるなど、玄人の域にあった方でした。医師でありながら、当時はめずらしいお方の一人でした。
 会話の中でたまたま竹内満朋先生のことが話題になりました。その会場も銀座のすぐ近くの新富町で、降霊実験会が開催されているので出席なされては如何というものでした。そして、当の竹内満朋先生も現在は弁護士を開業されておりますが「元はM社のご出身であると伺っておりますから、あなたの先輩ということになりますね」と申されました。
 私は渡会先生のお勧めに従い、予定の日に新富町の三徳釜本舗さんへお訪ねしました。当時はここで竹内先生の降霊実験会が行なわれていました。
 会場へ定刻よりやや前に着いて待たせて頂きました。暫くしますと、元気ハツラツとした中年の紳士が参られました。三徳釜の奥様が、「先生、ご苦労様です」と申されました。このお方が竹内満朋先生でした。私はここで竹内先生に挨拶を申し上げ、自己紹介をいたしました。
 竹内先生は以前にM製菓の宣伝部に在勤されて、キャラメル箱の意匠を考案されたなどのお話がありました。大変くつろいだ雰囲気でお話下さいました。また、心霊能力開発の頃のお話では、精神統一行に励んでいたところ忽然と能力がでてきたとの由でした。元々からの素質も素晴らしかったのでしょう。
 さて、いよいよ待望の降霊実験会に入るための準備に着手しました。私は企業の後輩に当たるという理由で当日の助手になり、竹内先生に目かくしをしたり、両手両足を縛り、身体を椅子にくくりつけたりする作業をしました。この作業は入念に厳格に行ないました。そして最後にコップの入っている水を全部口に含ませたのです。目は見えず、手足は動かず、身体も動かせず、口も利けない状態でした。
 この状態で部屋をやや暗くし、審神者(さにわ)であられる小田秀人先生から祓いの詞の奏上がなされました。これが終わりますと、間もなく空中から声が聞こえて参りました。”皆さん、こんにちは”と非常に明るい陽気な声でした。
 この声の主は竹内先生の指導霊で、インドの六千年も前の仙人のようなお方であるとのことでした。お話が始まりましたが、その内容は聖書の教説に大変似ており、キリストの直弟子のどなたかが出現されたのではないかとさえ思ったほどです。大変格調の高い教えでした。
 このあと、物理的現象が現われました。蓄音機の音楽にあわせて、夜光塗料をぬった人形が浮遊して空中でダンスを踊ったり、大きくとびはねていました。また、メガホンが飛び交い、ぶつかりあい、大変賑かな状態が暫く続きました。たいそう見事なものでした。
 更に、このあとで竹内先生の下腹の所に仏像が出現するとのことで、先生が統一をしておりますと、かすかながら仏姿がでて参りました。
 このような一連の現象があり、終了までにおよそ一時間程かかりました。実験会が終わり、照明をつけました。私は助手の仕事にかかりました。口に含ませた水をコップに戻しましたが、水量は元と同じでした。口に含んでいたために白濁していました。次いで目かくしをはずし、身体を椅子から解きました。更に手足の縛りを解き、元通りにしました。
 この実験会は大成功でした。小田先生から、今日の参会者は協力の念がつよいので大変成果がよかったとの講評がありました。私も竹内先生の霊能に大変感服したのでした。
 この際に私を神界でお導き下さったのは、私の守護神様のうち、伏見神界の九十九万歳、五柱の臣神様であられたとの由であります。稲荷神界の訓導でありました。

社内易者評判記

M社に勤務していたおよそ十年間は、当時のご時勢が産業の躍進時代に入っていたこともあって、大変忙しく、休日も返上するような状態が続きました。子供の顔を見るのは、たまの日曜日位でした。
 このような明け暮れの中でも、朝夕の神祀り、先祖祀りは比較的忠実に行なっていました。また、趣味の域を遥かに超えていたと自負しうる「運命学」の研究と実践は、寸暇をさいて継続していました。会社の仕事の性格上、交際、接待なども少なからずありましたが、大部分はご免被って、時間を惜しんで運命学の研鑽に励みました。このために、会社づとめには欠かせぬマージャン、将棋、碁といった技能も身につかぬままでした。この面では有能な人材ではなかったようです。
 しかし、日常の仕事の面では、人一倍頑張って良い成績をあげていたこともあり、上司の思し召しは比較的良好だったと思います。
 さて、ここで述べたいのは、当時の仕事云々のことではなく、私の超趣味であった(プロの領域に入っていたと私自身には思われる)運命学、易占のことです。私は入社早々、営業の仕事にまわされた時から、仕事の面に易占や姓名学の手法を活用してみました。このことが意外に効力を発揮して、得意先の開拓や人間関係の円滑化に役立ったのです。
 また、会社の管理職になってからは、人事の上で易占、姓名学など運命学の手法を応用してみますと、社員の人間性や能力査定の上に大変役立つものがありました。勿論、これらの手法は側面的なものとして行なったもので、合理的な考え方や処理を軽視したわけではありません。余り凝りすぎても判断の健全性を失うおそれがあります。
 運命学を実践的にたしなんでおりますと、自ら霊感がでてくるようです。この背景には易占の神、神仙界の神霊のお働きがあるわけですが、一事に熱中していますと、その能力は益々強く顕現してくるものです。以前のこと、ある易占家が私に向かい、「易者はプロにならぬと駄目。所詮アマチュアではものにならぬ」といわれたことがありましたが、このことも真理の一面を突いた言葉だったと思います。運命学の書は多く、それを読む人もまた多いのですが、誠のプロフェッショナルは意外に少ないように感じられます。
 当時、私の場合には、神仙界の九十九万歳の臣神五柱の方々が研究実践の指導に当たられておられた由でありました。(現時点では、易神、五百万歳の皇臣(スメノオミ)神がご指導下されておられる由です)
 このような神仙界のご守護もあってか、私の易占技法は急速に上達して社内でも評判になりました。会社の仕事の邪魔にならないようにと心掛けていましたが、来訪者はひきも切らずいう状態になりました。
 この面で、皆さんに貢献度の最も高かったものは命名の依頼でした。会社の先輩、同僚、後輩など、パパさん年齢の階層が多かったこともあり、毎月二、三件位ずつ申し込みがありました。多い時は数件に達しました。
 時には重役さん方が”健康運”についてご相談下さることもありました。こういう時は誠に奇妙な感じでしたが、脱社員の意識で率直に運命コンサルタントの所見を申しあげたものです。
 更には、社員の家族の方々の運命相談、得意先の方々の相談なども、少なからずでて参りました。意図的に拡大する考えはありませんでしたが、評判が評判を呼んで、社内易者は大変人気を博する結果となりました。直属上司も私の社内易者の効用について次第に認識を深めてくれるようになりました。
 この時期の十年間は私の運命学研鑽の時であり、易神、神仙界の神々と共に修業に励んだ期間でした。それは高きご守護神様よりみれば、現実界と至近距離にある「ミコ神達」との交流の期間であったと思います。それは今日の私の置かれた立場、つまり、五次元界の神力を頂いて救霊の道に励む立場に至る、前奏曲の如き段階だったと思います。
 いと高き五次元界の神々の分野と、三次元界のことを易占する神仙界とは次元を異にしています。しかしそのことを真に体得し、納得するにはかなりの期間がかかるもののようです。

浮霊した青年社員顛末記

私がM社に勤めていた時、切羽つまった想いをしたことが何回かありましたが、その中の苦しい思い出の一つについて述べてみたいと思います。
 現在の私であればもう少し別の対応策、解決法があったかと思われるのですが、当時の私はまだ慿霊の分析や対策が充分できなかったため、以下に述べるような結果に終ったのでした。
 それは私の部下であった18歳のSという青年の話です。担当は運転手で私の所管していた営業所に新しく配属されてきました。この青年は気弱そうな童顔の持ち主でした。眼に力がなく、対話していると何時もうつむいてしまい、声もか細い女性的なタイプでした。
 私はこの青年が到着した時から妙な予感がして、大事を惹き起こさねばよいが、と案じていました。しかし、会社の人事であれば、当時としては異議を上申することもかなわず、ただ注意をしながら働いてもらっていました。
 それは、昭和36年か7年の3月31日、土曜日のことだったと思いますが、S青年が私の所へきて、「明日の日曜日に単車でドライヴしたいので、会社の単車を貸してほしい」と言いました。私はその申し出を断わりました。その時、S青年の態度は異常なぐらい押しがつよく、日頃のおとなしい性格とは著しく違っていました。どうしても貸してくれ、貸すことはできぬ、と押し問答が続きました。その時、私の脳裡に、「S青年をやめさせ、帰宅させよう」とのヒラメキがありました。
 当日は土曜日の夕刻のことであり、本社の担当者はすでに帰社して不在でした。社員の解雇のことは上司に相談し了解をとるべき事項であることは承知していましたが、私は一刻も猶予ならぬことと受けとめ、本社には事後了解を求めることを決意して、S青年に帰宅(退社)のことを話しました。S青年は興奮もせず、私の申し出を平然と承諾しました。それは苦役から解放される者のような喜々とした印象でした。
 私は即時、東京の下町にある彼の両親の住所に電話し、事の次第を説明して、S青年のお引き取りを申し出ました。両親は素直に了解してくれました。私は年長社員を付き添わせて、車でS青年を自宅まで送り届けさせたのです。
 さて、翌日4月1日、私は営業所で日曜出勤して一日の仕事を終え、残務を片付けていますと、五時すぎに机上の電話が鳴りました。とりあげてみると、銀座の交番からのものでした。それはS青年が交通事故を起こして、銀座のK病院に運びこまれたことの知らせでした。そして、S君がM社の社員の身分証明書を持っていたので知らせたが、M社の社員であるか、ときかれました。私は昨日退社してことを返答しました。S青年の住所、電話を尋ねられて答えました。
 私はすぐさま二名の社員を連れて、驚きと悲しみと叱責の入り混じった複雑な気持ちを押さえながら、K病院へ急ぎました。病院の受付を経て入院している病室へ案内されました。S君は人事不省のまま、荒々しく大きな呼吸をしておりました。昨日の夕方送りだしたばかりのS君が、あまりにも変わり果てた姿で苦しんでいる様子を見て、私共三名の者は呆然とたたずんでしまいました。こうして、彼の両親が駆けつけるまでの一時間余り、私達は彼の喘ぐ姿に胸をしめつけられる思いで、ただ見守っていました。
 S青年はその日の夜、12時前に息を引き取りました。頭部を路面で強打したためにひどい内出血を起こし、医療の施しようもない状態であった由。逝く生命は誠にはかないものです。
 私は翌日、つまり月曜日の午前九時前に営業所より本社へ電話連絡し、S君の退社のこと、死亡のことを報告しました。即刻本社に出頭するように、との指示があり、タクシーで走りました。本社に伺いますと、上司は私のとった措置を了解し、S君の葬儀やあとの処理は充分丁重に行なうようにとの指示がありました。私は指示通り実行しました。
 それから二十余年たった今日、あの瞬時の悪夢を思い浮かべながら神界にお伺いをたてました。S青年を駆りたてるように死へダイビングさせたエネルギーは一体何であったのでしょうか?と。
 神界よりのお示しは、S青年自身のあずかり知らぬ、彼の五代前の先祖が穢し痛めつけたところの、稲荷神界の臣神、眷族達の憑依、浮霊によるもの、とのお答えでありました。それは不敬な先祖のまいた因縁が噴出した現象であったのであります。噫々。
 そして、私の脳裡にまたヒラメクところによりますと、あの時の私の力量の範囲において、私の守護神様、大国主神界九十九万歳五柱の竜神様が警告下されたものと判りました。私の霊格がより高かりせば、このようなことにならざりしものを、今更のように想いかえして悔いる次第であります。

白山神社のご神縁

昭和44年の秋のこと、懇意であった某医大のA先生と一緒に、私は加賀の白山神社へ参拝いたしました。A先生は大変信仰深いお方で、折に触れてこの白山神社へお詣りをしているとのことでした。
 私は元来神社詣りが好きでしたから、白山神社参拝のお話があった時、積極的に同行を希望したのです。白山神社の鳥居をくぐり社務所の受付へ参りますと、神主様がA教授の顔をごらんになられ、機先を制するように、「先生、よくお越し下さいました」とお声をかけて下さいました。そして、社務所の応接室でお茶を頂戴いたしました。
 そのあと拝殿にご案内頂いて祈願のお取次を頂いたのでした。太鼓を打って頂いた記憶があります。この時は他に参拝者もなく、大変静かな参拝日和でした。
 以来、私は白山神社の神々を熱心に拝すること、十五年になりました。朝な夕な、白山神社の神を呼び、崇敬申し上げております。
 白山神社の神が菊理姫神界の神々であることは周知のことであります。神々は本来は光でありますが、この神界の神々の象徴的なお姿はどのようなものであろうかと思い、いささか不躾にお伺い申しあげましたところ、ようやくのお示しは、「天女の如きもの」とのご沙汰でありました。
 白山神社の神は北斗七星の神界の神と申されます。これは物理的な星そのもののことではなく、この守護神の意味であると思います。
 菊理姫大神は、私のお伺いによれば天津神であられ、イザナミノ大神のご分霊とも申されます。星神界の女神様で、神界しめくくりの御役、物事のけじめをたてるご神徳をお持ちと伺っております。
 白山神社には菊理姫神界の皇臣、一億歳の神が神域を守護されておいでになられる由であります。その下にある皇臣、臣神、眷族神は極めて多いと拝察いたします。私の家の神床にも菊理姫神界の神々が二億体余お越し下されている由で、恐れ多いことであります。
 白山神社へ私を誘い、ご案内下さったのは、人間サイドから見ればA教授でしたが、神様の側からはどなた様がご案内下されたかについてお尋ね申しあげましたところ、それは、既に伊勢の天照神界よりお越し下されて、私の守護神とおなり下されておられた、火竜神界女神、九十九万歳の五柱の臣神様のご案内によるものでありました。何と、天照神界の神々のお導きによるものでありました。
 私はこの白山神社へのお詣りが偶然にように思っていましたが、神界では意欲的にお働き下され、積極的にお導きになっておられたとのことでありました。それは、私の眼を神界に向けしめ、神慮を悟らしめ、神の使命を果さしめるための一つの大きなステップであったとも考えられるのであります。
 私は朝夕に白山の宮を想いながら、高らかに”白山神社の神々の御名”をお唱え申しあげております。菊理姫神界の神々も私と共にご唱和下されていると思います。

日枝神社のご神縁

私は昭和44年の春から日枝神社の神々とご神縁を得ました。仕事場の関係から、毎日朝夕、日枝神社にお詣りすることになりました。といっても神仕え専門になったということではありません。神社前を通るのでお詣りすることになったのです。それは丸七年以上続きました。日曜日以外は毎日のことでした。
 神社詣りを七年間、拝殿にぬかづいて実行することは一般的には少々辛いと思いますが、当時の私にはそれが日課の一部になっていて、神社の前へゆくと足が自然に鳥居の中へ運ばれてゆき、参拝すると何とも言えないすがすがしい気持ちになりました。
 日枝神社のご祭神は大山咋神ほか三柱の神とされていますが、私は神界にお伺い申しあげましたところによれば、日枝神社の神界は大変厖大なもので、竜神界(素盞鳴神界)では、大国主神界、住吉神界の神々、火竜神界では、天照神界、月読神界の神々、山神界では佐田彦神界、少那彦名神界、木能花咲爺姫神界の神々、稲荷神界では、佐田彦神界、天宇受売神界の神々であります。このように広範囲の神々が日枝神社の奥の神界におわします。いうなれば、星神界の神々を別として、他の神界の神々が悉くお揃いになられて居給うのであります。かしこきことであります。
 神社詣りの七年間、私はこのことについて詳しいことを何も知らぬまま、表向きの祭神についての理解の範囲で参拝していったのですが、後日の神示によって以上のことを知るに及び、只々恐懼感激いたした次第であります。
 日枝とは、「火枝」であり、「陽枝」であります。つまり、火・陽に象徴される天照大神の下にお仕えする幹枝の大神達がおわしますところであります。正に天地四大神界の磁場ともいうべきお働きの場であり、神力の機能をお示しになっておられます。
 神界のお示しによれば、日枝神界の最前面には大国主神界の神々がお働き下されておられる由でありますが、私が七年間宮詣りしたことのご指導は、私の守護神様のうち、大国主神界の神々の主導によるものでありました。ご守護の神々は私の意識の次元ではよく判らぬ状態でありましても、神霊界の次元で八神界の神々と日々交流せしめて下されたのでありました。
 今日の私は、竜神界、稲荷神界、山神界、火竜神界の神々から大変深いご神縁を頂いておりますが、このような有難いご加護を頂いていることの重要な部分として、かつての七年間にわたる日枝神社参拝は、大きな「行」になっていたのではなかろうかと考えるのであります。

お問合せ ご相談者ご依頼の皆様の個別のご事情には審神者の会長笹本宗道が真摯に対応させていただきます。