宇宙神道 正神崇敬会の書籍の内容紹介 「霊障からの救い」笹本宗園著 第三章

「霊障からの救い」
目次
第一章
第二章
第四章
第五章
第六章

「霊障からの救い」笹本宗園著 第三章

第三章 因縁消滅霊障解消の方法
祈禱法は基本である

因縁の消滅・霊障の解消は霊的処置でありますから、それによって肉体的健康が回復されたとしても、それは第二義的のことであって、根本となる第一義的な問題は霊的な段階の救いであります。
霊的な救いというものはすべて高級神霊のお力によってなされるものでありますから、救いをお願いする対象は高級神であります。低い霊でもある程度の治療能力をもつ者もあるようですが、それはほんの一部の限られたもので、真の力はありません。

さて、高級神霊に救いをお願いするには、それなりの形があります。このお願いの方法が祈禱法ということになります。祈禱法は、昔から色々のものがありますので簡単に説明しましょう

第一には神道の法式があります。神にお願いする際には神をお迎えする神床か、神壇を設けねばなりません。祈禱には神が常にお鎮まり下さっておられる神床に対しておこなう場合と、祈禱の種類によって法式を異にすることがあります。後者の場合は神壇を特別に設けますが、その法式は大体は一緒ですが多少の違いがあります。

祈禱には息災祈禱、調伏祈禱、増益祈禱などの色々なものがあり、神壇に祈禱の内容によってそれぞれ専門の神様(主神)をお招きします。神様にはそれぞれお役目があって御神徳が違いますから、何でも同じ神様にお願いすればよいというものではありません。霊能者の中にすら、何もかも一柱の神にお願いする者もある位ですから一般の人々には無理もないことですが、祈願ごとは内容によってその事項を所管される主管神に対してなされねばなりません。

例えば現界のことは佐田彦大神(猿田彦大神)はじめ、稲荷大神に祈ることが正しいことであり、幽界のことは大国主大神にお願いすることが正しく、精霊の制禦は大物主大神に祈ることが正しいことであります。

病気の場合には、宇宙の統治神である天照大神をはじめ、素盞鳴(すさのお)大神、佐田彦(さだひこ)大神、少那彦名(すくなひこな)大神、大己貴(おおなむじ)大神に祈願することが正しいことですし、祓いの時には、瀬織津姫(せおりつひめ)大神、速開都姫(はやあきつひめ)大神、速佐須良姫(はやさすらひめ)大神、神直日(かみなおひ)大神、大直日(おおなおひ)大神に祈ることが正しいのです。専門の主神にお願い申し上げますとその霊験は誠に顕著なものです。
祈禱の際には、霊能者の代理祈禱して貰うこともありますが、代禱をお願いする時は、お金を払うのだから叶えてもらいたい、いや叶えてもらって当然だという様な気持ではいけません。対象は神様であり、祈禱者は取次人でありますから、願の採否を決定なさるのは神様のご裁量によるものです。

ただ、取次の代禱者の霊格によって、はたらいて下さる守護神様の霊格に隔差がありますから、神界のお力添に差がでてくることはあります。それ故、代禱お願いの際は、よき祈禱者、人格、霊格の高い方を選ぶことが大切であります。うす暗い場所で、ローソクの灯でみえる様な場所で祈禱しているようなものは、邪神のはたらきによる場合が少なくないので注意せねばなりません。

第二には仏教の法式があります。密教による祈禱が代表的なものです。密教には伝教大師による天台密教と弘法大師による真言密教があり、役(えん)の小角(おづぬ)(役の行者)もおこないましたが、密教を組織的に完成させたのは弘法大師とされています。

密教の祈禱も壇を設けて諸尊をお招きします。大法の時には、大壇、息災修法の時は円壇、増益修法の時は方壇、敬愛修法の時は蓮華(れんげ)壇、降伏の時は三角壇、鉱召(こうしょう)の時は半月壇という様に、色々な場合によって壇の造り方が違います。
これらの方法は専門の僧侶にお願いする場合のことでありますから、自分で祈願する場合は、この様な設備をすることは難しいので、その観念でおこなうとよいでしょう。

祈禱法は因縁消滅、霊障解消の基本的なものであり、また伝統的であるとともにオーソドックスな法式でありますから第一に重視しなければなりません。
霊障のある人々の家々では、日々主神と諸尊に対してわが霊障の因縁を救い給えと、誠心誠意祈ることが大切であります。それとともに己の想念向上を図(はか)ることが必要です。

浄霊法は効果的である

浄霊法とは手あて法または手かざし法のことであります。この手あて法は釈迦やキリストもこの方法で病人を癒されたといい、古代ギリシャやローマ時代にもこのような文献があります。また中世のヨーロッパ諸国では、国王が患者に手あてをして治病したということです。
近代になると、メスメリズムで有名なドイツのドクトル、メスメルによって動物磁気説が唱えられ、手をあてて治病する方法が発見されました。また、霊智医学の権威者であるH・Pブラヴアツキー夫人も、手あて療法が効果的であることを述べています。

我が国では古来から少名彦名(すくなひこな)神法といわれる手かざしの療法が教えられています。これは鎮魂して霊気の放射を念じ、後頭部に力を集中すること数分、掌に感覚があった頃に病人の患部に手をかざし霊気を放射して治療をおこなう方法です。この方法は神道家、修験者、祈禱師によって引継がれて来ました。
明治末期から大正、昭和にかけて手あて法、手かざし法をおこなった有名な人々としては、西村大観氏、松本道別氏、大山霊泉氏などがあげられます。昭和に入っては世界救世教の岡田茂吉氏、大本光の道の宝観主光氏、真光教団の岡田光玉氏などの人々があります。また、女性では古谷登世子、福田くらなどの方々が有名であります。
天理教の「おさづけ」も浄霊法の一種であると考えられますし、大本教の出口王仁三郎も手あて法を用いて病人を救われたといわれます。また、金光教祖も手に息をふきかけて病者にかざして病を癒したといわれています。
右は、浄霊法にかかわった人々の顔ぶれを概観したものですが、こうみてくると、浄霊法をおこなった人々は皆何らかの形で神仏にかかわりの深かった人々であることがわかります。

事実、神仏に合掌祈念して手をかざすときは手や足の先から強いオーラがでて、病人を治病するパワーがでて参ります。これを、前記メスメルは医師であったことから、動物磁気と考えたわけですが、私の日常体験とそれに伴う様々な霊現象からみれば、このオーラこそは神よりの賜物であり、神的霊気そのものであると思います。
この手かざし、手あてによる浄霊法は、諸々の教祖達がいう様に、人間の誰かが創ったものではなく、誰か特別な人が発見したというものでもなく、自分だけが神授されたというものでもありません。それは、人間が創られたとき、神がそのような能力を予めプランされ、總ての人間に等しく付与されていたものであると思います。能力は練磨次第で強化されます。

この浄霊法は幾多の先達たちの実証にも明らかですが、私の日常実践の中でも大変効果のあるもので、浄めの力はすばらしいものがあり、日々体験しています。
この力は、生きている人間の浄めだけではなく、死せる憑依霊、生霊までも浄める力をもっています。地獄の底にいる苦しみ悩める霊、幽体の痛みに呻吟している霊達を救けだすことができます。こうして生きている人の関係の浄化とともに、死せる霊の浄化をともにはかることができるのです。

新興宗教界が好んでとり入れている浄霊法のレベルは、ソフトなもので未だ初心者的な段階にあると思いますが、それでもかなりの浄霊力を持っていると思います。霊障解消のひとつとして大切な方法であるといえます。

説得法は補助的効果がある

因縁消滅、霊障解消のために、憑依霊や因縁霊を説得によって浄化をすすめることができるものです。生きている人間は目に見えますから、相手をみて話しかけることができ、話しかけた反応も読みとれて説得効果も判断できますが、霊は霊視能力者ならば視ることができても、一般には目に見えない存在ですから説得の対象がボケて、空に向って話しているような感じになります。

しかしながら、霊の実在は疑の余地のないもので厳然と四次限的に存在していますから、話しかければ聞いているものです。霊障を起こしている不浄化な霊に向って、早く悟りを開いて霊界にゆくよう説得を続けていれば徐々ながら向上してゆくものです。
具体的にこの方法をおこなうには、仏壇、祖霊舎に向って、供養と併せておこなうとよいでしょう。また、精神統一のあとなどに軽くおこなうと効果があると思います。

神官や僧侶や霊能者など、法力のある人や人格の高い人によって説得をおこなって頂くと、効果は一層顕著なものがあると思います。これは、それらの人々の背後にいる守護神の力による指導や救済力によるところが大きいからであります。
私は、この方法を霊査した時や、浄霊の過程で併せ用いておりますが、補助的効力としては誠に効果のあることを幾多経験しております。守護神のお力によるものです。

家族に霊障のつよい者がいる場合、その因縁霊が誰であるかを霊能者に調べてもらい、何霊の仕業であるかが判明したならば、日々供養とともに説得法をなさるとよいでしょう。ただ、この方法は単独で用いることによって決定的な力があると考えるのは若干無理もあるようです。話せば判るともいいますが、話して判る程度のものは強い因縁霊の中には少ないでしょうから、説得法は他法と併用することが適切であると思われます。

統一法は自他の霊格を高める

統一法とは精神統一法のことです。静かなところ(部屋、神前など)で静座して、瞑目し、呼吸を静かに整え、高級神霊に波長をあわせるように努めながら、精神を鎮める行法のことであります。

統一法をおこなうには身体を清潔にして、着衣も洗濯されたサッパリしたものをつけて、静かに心を落ち着けて坐ることです。そして、高い想念をもって無我の想いで坐することです。この時、手は合掌するもよく、統一印をむすぶもよく、軽く膝の上で組むもよいでしょう。背中はよく伸ばすことです。
統一の中心は精神であり、心であり、意識でありますから、常に善念をもち、よい想念を持続することです。悪い想念をもって統一しておりますと、低級霊に憑依されることがありますから危険なことです。

統一法をおこなうとき、初心者が単独でやることは香しくありません。むやみに自己流でやりますと前記のように邪霊に犯されて大変な目にあうことがあります。統一法をおこなうには、例えば、財団法人日本心霊科学協会とか、有力な審神者(さにわ)のいる場所で、組織的集団的におこなうことが大切です。
さもないと、邪霊のオモチャになって一生取り返しのつかないようなことになりかねません。精神統一が良いからといって不用意におこない、辛い憂目をみた人は少なくありません。

統一の際に想念を浄め、高級神霊を思念しながら無心におこなう時は高級神霊の助けが得られます。そして自分の霊格・人格が高められてゆきます。それとともに、自分に憑依している諸々の因縁霊、憑依霊も一緒に浄められ、高められてゆきます。こうして、憑依している霊達は徐々に悟りを開いてゆき、それに伴って霊障が次第に軽減されてゆきます。

統一法は、ある段階に達した人々にとっては、自主的におこなっても大きな成果をみることができます。釈尊の坐禅瞑想、神道や仏教の行者などはこの修法によって悟道に至った人が多くおります。

しかし、油断すると低いものにやられてしまいますから、ある程度の段階に達しない人々は精霊界を制禦する神力をお持ちになっておられる、大物主大神に守護を祈念してかからねばなりません。

統一法は神道でいう鎮魂法でありますから、慎重に万全を期しておこなうべきで、軽々しくおこなうべきものではありません。しかしこれを正しくおこなえば自霊を高めるとともに、憑依霊の霊格を高める非常によい方法であります。

供養霊は慰霊、励霊法である

供養法とは、先祖霊、因縁のある人霊を慰め励ますことであります。これは専門の僧侶、神職などに供養して頂く場合と、各自の家庭でおこなう場合とがありますが、ここでは後者の場合について述べます。

昔は祖先の祀りが各家庭でやかましくおこなわれたものですが、最近は核家族化して年寄りと若夫婦が別々に住むことが多くなったこともあって、家庭での先祖祀りが著しく疎略にされています。
私どもにお見えになる若い方々に伺ってみても、仏壇のない世帯が非常に多く、お話しても、「まだ死んだ者がいませんから」などと返事がくる状態で、祖霊に対する祀りの認識がまったくといってよいほど不足しています。

霊的にみれば、祖霊や家の因縁のある霊魂達はことごとく子孫の所へきております。浮かばれている霊も、浮かばれていない霊も、みんな子孫の家庭にきているのです。仏壇や祖霊舎がなくてもきているわけです。きて下さっていることが判れば、仏壇を設け、位牌をつくって祀りたくなるのが人情です。それが祖霊や家族の霊達に対する礼儀であり、霊的に向上して頂くための大切な方法でもあります。
招霊した場合に、先祖霊があらわれて位牌をつくって祀ってほしいと訴える場合が屢々あります。他界した霊達は、位牌をつくって祀ってもらうことが大変嬉しいことであり、そのことを切に願いつづけているものなのです。

位牌をつくって先祖祀りをするのは長男や家を継ぐ者ばかりではありません。次男も、三男も、その姓を名乗る者はすべてその姓氏の先祖を祀らねばなりません。先祖は皆先祖であり、長男や後継者だけの先祖ではないからです。同様に、先祖にとっては長男や後継者だけが子孫ではなく、皆同じように子孫としてのつながりがあるからです。このことは霊術によって調べてみると本当によく判ることです。
位牌をつくってあげたならば(仏具屋へ注文すればよい)、毎日の供養をすることです。毎日の供養とは朝夕のおつかえをすることです。具体的には、御飯(おかずも添える)の給仕をし、水、茶、線香、花などをお供えすることです。これは毎朝おこなうことがよく、夕方は礼拝、挨拶することでよいでしょう。この程度のことは常時、最低限のこととしておこなわねばなりません。

大抵の家で春秋二回の墓参りをしておりますが、祖霊が喜ばれることは間違いありません。家人のくるのを待ちわびている霊達も少なくないでしょう。しかし、霊的にみれば、墓参りよりも家で祀って頂くことの方が遥かに嬉しいことなのです。
あの世へいった先祖達や家族の霊達の中で浮かばれている霊の方が少なく、浮かばれざる霊の方がずっと多いものです。これらの霊の慰霊、励霊をしなければ、霊の向上ははかれず、それによってもたらされている霊障を軽減することはできません。

位牌を祀っても線香一本もあげない様な家も屢々みかけます。そういう人に限って、「何回忌の供養はちゃんとお寺でやりました」などといわれます。それも必要なことであります。しかし、日常、毎日の供養が子孫としての先祖に対する本当の供養なのです。私の所では、浄霊法と先祖供養で因縁切りを果たした人々が沢山おります。位牌には先祖の霊が確かに入っておりますから、充分の供養をつとめて下さい。これは、もっとも身近かにできる霊障解消の大事な方法なのです。

念唱法は祈禱法、統一法、供養法になる

ここでいう念唱法とは、祈りつつ唱えごとをする修法のことです。祈る対象は神仏であります。高級神仏霊に対して祈るのです。唱えごとは、ご神名をお唱え申しあげること、祝詞(のりと)を奏上すること、仏教ではお題目をあげること、読経をすることです。

高い想念をもって、先祖供養、因縁霊供養、自分の意識向上の心で神霊に向かい仏に向かって一心不乱に念唱法を続けるときは、神仏の高い世界に波動が伝わり、自己の想念が次第に向上してそのこと自体が祈禱法になります。祈禱とは専門家には代禱、代願して頂くばかりではありません。自分自身で熱誠をこめ、神仏に向かって祈念し念唱することが、即ち、祈禱になるのです。そのことは高級神霊界から大きな加護をうけることになります。

神仏に向かっての念唱は、精神統一という面でも効果的なものです。熱中して念唱するときは意識が次第に深い統一状態に導かれるものです。ご神名であれ、お題目であれ、繰り返し繰り返し念唱しておりますと、念唱はリズム化されて意識から遠ざかり、口では発声していても一向に気にかかることなく、意識は肉体感覚から離れてゆきます。そして、高度に集中された意識になってきます。これは漫然とした統一状態ではなくして、神仏という高い神霊に焦点をあわせながら、ぐんぐんと突き進んでゆくつよさをもっていますから、邪霊や低級霊が入りこむ隙が少なくなります。そして、自分の想念が浄化されるとともに憑依霊も浄化されてゆくのです。念唱法にはこのような統一法の効果もでてきます。

さらに亦、念唱法は直ちに供養法になります。神仏に向かって一心に念唱法をおこなうときは、浮かばれた先祖霊も浮かばれていない憑依霊も一緒になって、神仏に向かい祈っているものです。そして、神仏から功徳を頂き、自から悟りを深め、慰めと励ましをうけて向上してゆきます。

ご神名を念唱することは直ちに神徳を頂くことになり、仏教のお題目を唱えることも仏から仏徳を頂くことになります。南無阿弥陀仏と唱えれば、阿弥陀仏のお徳が、南無釈迦牟尼仏と称えれば釈迦牟尼仏のお徳が頂け、南無妙法蓮華経と称えれば法華経の功徳が、南無大師遍照金綱と唱えれば弘法大師のお徳が頂けるわけです。念唱法は、霊障解消の大変すばらしい方法の一つであります。

除霊法は一時的効果がつよい

除霊法とは、低級な邪霊が憑いた場合に霊能者を通して、高級神霊のお力で除去してもらう方法です。強い力で払いのけて頂くというやり方です。

邪霊はどこにでも沢山いるものです。バイ菌のようにうようよいるといってもよいでしょう。人間の想念が低下すると、それ相応の邪霊がまわりに寄ってきて、心の波長が合うとすぐに憑依します。特に、憑霊体質の人は憑かれやすいためにたえず警戒していなければなりません。そうかといって、余り注意しすぎると意識過剰となって却ってよくない結果を招くこともありますから、対応や調節が困難です。

さきに注意した初心者の精神統一の時などには、低想念でいると邪霊がねらってきますから充分注意しなければなりません。しかし憑依の動機が浅い場合には一時憑依ですぐ離れてゆくこともあります。しかし、居心地がよいと仲々離れず、次第に憑依を強めてゆくことがありますから、このような場合は除霊をして貰うことが対症法としてはよいことです。こうして霊障を起こされぬうちに処置するか、霊障を起こしはじめたなるべく早い時期に処置することが大切です。自覚症状でおかしいと思ったなら、霊能者の門を叩くことが転ばぬ先の杖となります。

因縁があって憑いた邪霊は、除霊によっても容易に離れないことがあります。憑かれる方にも相応の因縁があるわけですから、霊の方を邪であるからといって、一方的にキメつけるわけにもゆきません。しかし、憑かれていたのでは生身の人間の方が困りますから、何とか処置しなければならないでしょう。こういう場合は除霊法では限界ということになります。この場合は、他の手法、例えば浄霊法によるか、他法を併用せねばなりません。

除霊法は一時的処置としてはよいものですが、恒久的な処置ではありませんから、それだけですべて良しと思ったらいけません。これは術者の方も取って貰うひとも大いに考えねばならないことです。

除霊前に苦しんでいたAさんから除霊したとして、追放された霊はゆく所がなければ再びAさんに戻ってくることもあります。また、戻ってこないにしても、次のBさんに憑く可能性があります。こういうことは少なからずあるものです。これでは霊的な面のプラスは何もないことになります。

霊能者ならびに、その方の守護神が高級で能力が強い場合には、除霊でありましても再び戻ってくることはほとんどありませんが、霊格の低い霊能者、守護神の場合はすぐ戻ってきます。高級神霊の場合は相手を納得させてだしますが、低くなると力ずくでやるために一時的効果に終わりやすいのです。霊能者に除霊しましたといわれて、門をでたらすぐに憑かれていたという笑話は随所にあります。

除霊してもらうとき、除霊してもらったとき、大切なことは自分の心をよい方に切りかえて、想念を向上させる心掛が大切なのです。同じ想念でいれば、折角除霊してもらってもまた別の似たレベルのものが憑依しますから、この点にくれぐれも留意して下さい。

緊急の際には、除霊法は一時的に効果があるものです。くり返しますが、この手法を長期的なもの、最終的な措置と考えることは大きな誤りを犯すことになります。

禁厭神符法は妙力をもっている

禁厭(きんえん)とはマジナイのことであります。神符とは御守、神札、御守護などといいます。これには一般の人や信者に授与するものと、加持祈禱を依頼した者に授与する特別のものとがあります。神符のことを呪符とか霊符とか呼ぶこともあります。

さて、現代人の中には、このようなマジナイや神符は迷信ではないかと思う人も少なくないと思いますが、どうしてそんなものではありません。これらには大変大きな霊力がこもっているものです。

禁厭法は祈禱の一種で、祈禱の簡略化されたものと思われます。これには病気や災難をさける法、鳥獣昆虫の災害を払う法など、色々と個別に分かれて数多くの秘法があります。これらの禁厭法は神代の頃、大已貴命が少名彦名命とともに、当時の人々を救わんがために示されたものとされています。つまり、遠く神代の昔からおこなわれてきたものです。

時代を経て、支那の道教の仙術や仏教の呪法が入ってきたこともあって、これらが融合されて現在の禁厭法が完成されたものといえます。
神符も神代の昔、天照大神が伊邪那岐大神より賜わった顕飾玉を倉棚(くらたな)の神として奉仕したことに、神棚や神符の起源があるということです。これも純神道的なものに、そのご伝来した道教の仙術や仏教の秘法が加わって、現在の星祭りや呪符などができ上がったといわれます。

また、昭和に入ってから、大霊媒と称された本吉嶺山翁の守護神であられた天空霊神様が、本吉翁を通して素盞鳴神界から伝授された禁厭神符の秘法があります。宇佐美景堂氏が中心になって熱心に普及されておりますが、この秘法の霊力も亦大変なものであります。

最近に至り、禁厭法、神符法を軽卒に取り扱う風潮が起こり、素人にわきまえもなく乱用されるような出版物を見かけますが、これは大変怖しいことであり慎まねばならないことです。神聖なものを興味本位に扱う結果は大きな霊障を惹き起こすことになりかねません。コックリさんを興味本位にすすめることとともに、大変罪深いことであります。
禁厭神符は施術、調製にあたっては神前において正しい法によっておこない、神符は大切に取り扱うべきです。こうしてなされますと神の霊力がはたらかれますから、その禁厭神符には不思議な妙力が生ずるのです。

私の経験からしても、禁厭神符法によって少なからぬ人々の救済を取り次がせて頂き、驚くべき効果をみたケースが幾つもあります。例えば、小学生の女の子で、尿に蛋白がまじっており、医師から治療をうけていながら容易に治らないで困り果てていた事実がありました。母親の依頼で天空霊神神授の禁厭神符法を施法したところ、一回で治ってしまったケースがありました。似た様なケースは幾つもあります。この法は誠に不思議な力をもっています。

お問合せ ご相談者ご依頼の皆様の個別のご事情には審神者の会長笹本宗道が真摯に対応させていただきます。