宗教取り入れ 命の教育

2014年(平成26年)8月19日読売新聞の朝刊の11面に道徳教育の本質に迫る貴重な記事が出ていましたので、転載して閲覧の皆様に紹介させていただきます。

論点
道徳教科化の流れ

宗教取り入れ 命の教育

執筆者 貝塚 茂樹(かいづか しげき)氏
武蔵野大学教授((道徳教育論)。「道徳教育の充実に関する懇談会」委員。著書に「道徳教育の取扱説明書」。51歳。

「長崎県佐世保市で女子高校生が同級生殺害容疑で逮捕された事件に直面して、学校での「命の教育」のありようが、改めて問われている。
そうした中で、今月7日付の本紙に掲載された山折哲雄氏の「死とは何かを教えない教育ほど弱いものはない」「宗教アレルギーから自由になって教育を見直す」という指摘を我々教育関係者は真摯に反省し、受け止める必要がある。
戦前の「国家神道」に対する警戒感に呼応して、教育界では今も宗教へのアレルギー反応が根強い。教育基本法には宗教教育の項目があるにもかかわらず、授業で扱われないのは、その表れだ。この根底には、「宗教的情操」をめぐる概念の混乱がある。
1966年の中央教育審議会答申(別記)は「すべての宗教的情操は、生命の根源に対する畏敬の念に由来する。われわれはみずから自己の生命をうんだのではない。(略)生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操」であると定義した。
人間は水平的な関係のみで生きるのではなく、上から貫く垂直的な関係、すなわち「聖なるもの」への畏敬の念が必要であるというのがその趣旨であった。しかし、この点は、道徳の学習指導要領には部分的にしか反映されなかった。
学習指導要領では、「生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念」から「生命の根源」と「聖なるもの」が削られ、「人間の力を超えたもの」とのみ記された。学習指導要領に「宗教」という言葉はなく、真正面から取り上げた道徳の教材も見たことがない。答申が前提とした、神・仏といった宗教的存在も消え、せいぜい「自然」や「美」に焦点が合わされた授業が行われているのみである。
一方で子どもたちは、何度死んでも生き返ることができるゲームやアニメになじんでいることもあって、「自分の命は自分のもの」「死んでも生き返る」と思いこむ傾向が目につく。そんな中で「命はかけがえのないもの」と唱えるだけの「命の教育」は、あまりに無力だ。そこからは「生かされている」感覚や「自分の命は自分だけのものでない」という理解は導き出せないからだ。
山折氏は、この根本的な問題をないがしろにして道徳を教科化しても効果はない、という。その通りであろう。
だが、道徳を教科化しなければ問題が解決しないこともまた事実である。教科となれば、教育基本法の条文と学習指導要領の内容に隔たりがあることは許されず、教員養成課程に宗教に関する科目を組み込むことが必要となるからだ。
折しも7日、中教審の専門部会で道徳教科化の方向性が示されたが、宗教が社会で果たしている役割や寛容の態度をどう扱うか、「配慮事項として示すべきという意見があった」と書かれるにとどまった。
道徳の教科化を絶好の契機としてアレルギーを払拭し、宗教の役割と意味を積極的に考え、今こそ「命の教育」に対する議論を深めたい。」

2014年8月20日 水曜日
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