宇宙神道 正神崇敬会会長 笹本宗道のブログ -32ページ

「高級神霊とのむすび」

本日は更に続けて高級神霊とのむすびについての教えも、初代会長笹本宗園の著書「霊障からの救い」から引用して、皆様にお伝えさせていただきます。

「高級神霊とのむすび

神は根源としては一であると説かれています。日本神道では天御中主大神が根源神であるとされており、キリスト教ではエホバの神、イスラム教ではアラーの神、仏教では梵天、儒教では天などとよばれる神仏であります。諸々の神典によればこの根源にして元なる神が宇宙創造のご意志を発せられて、まず諸々の神々を産みなされ、次いで永い年月をかけて宇宙、自然の万物、人間を順次産まれたと説かれています。
日本の古事記や日本書紀をひもどきますと、天地創造には国常立大神をはじめとして、伊邪那岐大神に至るまでの、諸々の大神様が創造に関与されたことが記されています。創造のあとの統治については、天照皇大神が宇宙を統治され、月読大神、建速素盞鳴大神が宇宙のすべてを分治なされていることが述べられております。
そして、さらに、この御三神の統治の下で多くの神々が宇宙、自然、人間の運営管理のために職務を分掌されて活動している様子が述べられております。
神道と仏教の歴史をみますと、両者は争いあったり、時には鎮静したりして持続してきましたが、それは宗教の間の問題であって、神仏そのものの争いではないと思います。仏とは神の変化したもので、神が仏の姿をとって現われたものです。この理を知らない人間が、神と仏とは全く別のものと考えて、宗教的対立の形で争ってきたわけです。
天照皇大神は仏としての現われの御姿は毘沙門天(びしゃもんてん)となり、大日如来となります。正八幡大神は十一面観世音となり、春日大明神は如意輪観世音となり、加茂大明神は不動明王とならい、稲荷大明神は愛染明王となり、丹生大明神は阿弥陀如来となり、日天子は弥勒菩薩となり、摩利支天は文殊菩薩と化して顕現されているわけです。宗教宗派が対立し抗争している姿は現象界のあちこちらにみられますが、それらは低い人間界の次限のことで、高級神霊界では問題にならないことです。
神は愛であり、仏は慈悲であるといわれます。一部の宗教家や神学者は殊更に両者の差異をひろいあげて、愛の概念が高いとか、慈悲の思想が深いとかいって居りますが、救霊の実践段階ではどちらも同じものと思ってよいでしょう。違いがあるという論理の方が大極的な観方を失っていると思うのです。
神仏は同一体であると思います。弘法大師や日蓮上人は、伊勢の天照皇大神を尊崇されたことを現在の人々の中には知らない人が余りにも多いのです。もしこの事実を知っているならば、宗教同士の誤解や抗争は著しく減少することでしょう。知らないということは誠に罪深いことになります。
人間は神仏の分霊が入っているといわれます。人間の霊はもともと神仏の大生命がわかれて肉体に宿ったもので、本来は水晶玉の様に曇りのない清らかなものです。ところが、現界に肉体の衣をまとって生れてくると、物質世界の重い波動の次限に入るために穢れがつきやすくなります。物質世界で生きるためには様々な欲望がつきまとうようになるからです。
しかし、神様は元々人間を創造なさる時に、物質界の中でも欲望に汚されることなく霊的な純粋性を保って、地上に神の望まれた神人和楽の天国をつくるよう期待されているものです。
ところが、アダムとイブの物語りにもあるように、物質界に誕生した人間は、欲望のとりことなってしまって禁断の木の実を食べてしまうのです。人間のもつ原罪というものはもともと神界からもってきたものではありませんが、現界に入った人間が欲望に負けて穢れてしまった姿です。
高級神霊は、このように罪穢に染まって霊魂を曇らせてしまっている人間を、速やかに反省するようにと様々な教えをもって地上に呼びかけられたり、祓い清めによって救けあげようと日夜大変な配慮をなされております。
人間がこのことに気付いて、自分の想念と行為を心から反省して神の心に添うように努めるならば、高級神霊は人々を救けようと待ち構えておられます。
高級神霊は人格的でありますが実体は高いレベルの霊体です。光です。非常に高い次限の想念体といってもよいでしょう。私達人間が高い心になって高級神霊に心の波長を合わせようと努めるときは、神は守護の力をもって必ず救いの手をさしのべてくれるのです。
私達は現実生活の中で物質による生活を営むのは当然ですが、人間の本体は霊魂であって肉体は一時借用の着物にすぎないものです。この世にいる限り着物も大切ですが、霊魂は永遠に大切なものです。外の衣裳にとらわれて内にある霊を汚しては何にもなりません。人間は本体である霊魂を大切にして、高い霊体である高級神霊と常にしっかりとむすびあい、霊魂向上に努めることが至福に至る道であります。
日本の古事記や日本書紀にでてくるご神名の神々は今でも活々とご活躍なされています。月読大神、佐田彦大神(猿田彦大神)、少那彦名大神など大神様のご出現を頂いたことは、私にとって大変恐れ多いことでした。
日本の古典は単なる文学に止まらずして、活々と御活躍なされた神々の実話そのものなのです。私達が心を澄ませて神々にまつろえば、神々の高い霊的波長は私達の霊魂に直結するのです」

2013年8月6日

「霊能者について」

霊能者についての解説も、初代会長笹本宗園の著書「霊障からの救い」から引用して、皆様にお伝えさせていただきます。

「霊能者について

霊能者についての認識が最近急速に高まってきつつあります。テレビによる影響が非常に大きいと思いますが、ここで霊能者について若干述べてみましょう。
霊能者とは霊的能力のすぐれた人であることは皆さんもよくご存じの通りです。霊的能力には、霊視、霊聴、霊言、自動書記、霊感などの心理的な能力と、物品浮揚、物品移動、物品引寄せ、念写などの物理的能力があげられます。このような能力には低級霊によるものがかなりあります。
これらの霊的能力とやや趣を異にしますが、より高い霊能として治療霊能力があります。これは病気を治す霊媒能力です。治療能力の殆んどは高級神霊からくるものです。
霊能者といっても能力は色々違いがあり、それぞれ特長があるものです。霊視能力があるからといって霊聴もできるとは限りません。特に心理的な霊能力者と物理的な霊能力者とは別のケースが多いわけです。大概のことができるという霊能力者は極めて稀で、すべてできるという霊能力者は現存していないと思います。
霊的能力の強いということと、霊的能力が高いということは別です。世間一般では、強い霊能をみますと高いものと思ったりしますが、これは大変な間違いです。霊能力の強さというだけでは落ちた眷族霊など低級な邪霊でもかなり強い霊力をだしますから、このような霊に憑依された霊能者はかなり色々なことをしてみせるものです。素人の方は勘違いしやすいので注意すべきところです。
霊能力があるからといっても低級な霊格によるものでは何にもなりません。長い目でみると害を招くことも多いのです。霊格の高い霊能はあった方がよいわけですが、霊格の低いものは色々と本人の大きな負担になることが多いものです。ですから、霊能のある人はその霊格を高めるよう大いに努力せねばなりません。霊格を高めるには想念の向上に努め、魂に磨きをかけることです。
私の所には霊能を開発された人々が数多くおります。霊言、霊視、霊聴のできる人が多いのですが、中には霊夢の当る人がおります。これらの人々の中には霊能が開発されたことを非常に喜ぶ人もおりますが、私はこのような霊能をみだりに使わぬこと、自分で勝手にやらぬ様に注意し、固く戒めています。霊能者は低級霊の侵略にたえずさらされているといってよいのです。
例えば、霊言のできる人が自分で霊をだして話しあう様なことをすると、こういうことに興味をもつ低い霊にねらわれやすいので、若し入りこんで来た時はどうにもならなくなることがあります。陳入者が立去らないで、家人が戸迷うと精神病院へかつぎ込まれないとも限りません。霊視、霊聴の場合でも、興味を持っている「落ちた白狐霊」でも入りこむと、浄化するのに大変手間をとることになります。霊能が開発されたからといって、むやみに用いることは危険なことであります。いたずらに霊能を弄ぶことは、コックリさんあそびと同様、非常に警戒すべきことです」

「審神者(さにわ)とは何か」

審神者(さにわ)についての解説を、初代会長笹本宗園の著書「霊障からの救い」から引用して、皆様にお伝えさせていただきます。

「審神者(さにわ)とは何か

審神者ということばに初めて接する人も多いでしょう。これは霊学霊術上の専門職名のことです。同じ霊術者でも、行者、霊媒、巫子などは多分に耳なれたもので、接することも屢々あるでしょうが、審神者というと、一体何をする人だろうかと疑問をお持ちになるにちがいありません。
審神者とは、一言でいえば霊を取り扱う専門家のことです。第一に霊の取り扱、処置が出来なければ審神者とはいえません。霊の取り扱ができるということは、霊媒や、霊的素質のある人に霊を呼んでかからせる能力をもっていることです。これを招霊能力といいます。
第二に、霊媒者にかかった霊がどういうものか、対話したり訊問したりして判別する力をもっていなければなりません。それには、神界の深い知識、霊に関する広い知識をもっていることが必須のことになります。この総合的な判別能力が必要となります。
第三には、霊が低級な邪霊であったり、害をなすものであった場合は、これを霊縛(しばること)したり、説得したり、除霊したり、送りだすなどの処置をとらねばなりません。これらの責罰力、説得力が必要です。
霊の世界は正しい霊とともに邪の霊もおりますし、高級霊ばかりでなく低いものも数多く住んでいますから、招霊した場合は油断も隙もありません。隙があれば低級霊が寄ってきて邪魔をすることがあります。
さきに、私のところでは霊能開初のできた者に自分で勝手に霊媒行為をしてはならないと固く戒めていると述べましたが、率直にいえば、審神者がいないで霊媒行為をするのは大変に危険なことだからです。
審神者は、主導的に霊を招き、監視し、判別し、処置しますから、少しでもおかしいことがあれば問責し追究して霊媒を危険から護ります。霊媒は霊に対して受身になりますから、悪い霊にやられると処置がとれなくなります。審神者なしで霊媒行為をしている人々も少なくないようですが、大変危険なことといわねばなりません。
審神者は例をあげるならば、野球の監督と審判を兼ねたようなものです。充分な知識と経験をつんで、積極的に選手に当る霊媒を引張ってゆかねばなりません。大変な責任のある職務なのです。
審神者となるには、自分の勉強も大いに修業せねばなりませんが、それ以上に神界との縁が緊密でないといけません。つまり、守護神との結縁がしっかりしていないと、この職務はつとまりません。審神者の能力は、本人の力と、それ以上に高い神界のお力を借りなければ、諸々の霊的処置はできないからであります。
ですから審神者となるには、一般霊媒以上に想念向上と霊格の高揚につとめ、高い神界からのお墨付きを頂いていないとつとまらないのです。審神者は真の高級な霊能者でないとなれないのです。
従って、霊媒としての適格性をもつ霊能力者は世間に比較的多くおりますが、審神者として立派な適格者は非常に少ないものです。存在していても探しだすことは極めて難しいといってよいでしょう。それは、霊媒者のように一見華やかな面をもっているような人が少なく、どちらかといえば地味な方が多いからです。真の神仕えの人は人間的な派手さを避けることの大切さを心得ているからでしょう。
現在、私が理解する範囲で、審神者として立派な方は、本田霊学の直系の後継者である顕神会会長、佐藤卿彦師、霊学霊術の大家宇佐美景堂師、また、有名な物理霊媒竹内満朋氏を育成されたことで有名な、菊花会会長の小田秀人氏、救霊の実績豊かな㈶日本心霊科学協会の大西弘泰氏などをあげることができます。これらの方々は神からご覧になれば、超霊媒能力者の資格を付与せられた人々であると思います。審神者は真の神人でないとなれないと思います。
特定の宗教団体のなかにも隠れた優秀な審神者が少なからずおられると思いますが、宗教というベールのなかにいることから、世間的には知られる機会を得ない方もあると思います。神道系のものにはかなりおられると思います。仏教系では天台宗、真言宗などの密教系のもの、日蓮宗系のものの中に多いと思われます。
かくいう私も、市井の一審神者として神に仕え、人格の因縁浄化と救霊に努めている者の一人であります。審神者は、霊術霊能に関して一般霊媒者よりも遥かに重要な存在であります。」

2013年8月5日

「神の道 人間関係の価値尺度となる精神」会長 笹本宗道

神の道 人間関係の価値尺度となる精神

人という字のごとく、人は人と支え合って生かされている存在ですから、一人ぼっちの孤独では生きていけません。
世捨て人となって家族と別れ、職を捨て、南の無人島に裸の体一つで暮らして八年、幸せだと思ってマイペースを通している熟年男性だって、月に一度は隣の有人島まで出向いて行って、お米、調味料、燃料、釣具などを調達せねばならず、そのお金は大阪にいる実のお姉さんが不憫に思って仕送りしてくれているおかげ、てな具合で、孤立無縁で生きられる人はいません。
大宇宙根元の大いなる神様の御守護の元、人は人と係り合いながら、物資文明の人間社会を循環する仕組みの中で、自己の職業や役割に責任を持って社会に貢献しつつ、他者の貢献の恩恵をいただいて、生かし生かされ努力して、自己の存在を確立しています。
反対に、人間社会の中にも、自然界と同じ厳しい生存競争の原理も働いています。
人として生きていくこと、よりよく生き抜いていくことは甘くはありません。
様々な立場で生きている人たち、様々な個性を持った人たち、様々な霊的レベルの人たちが構成している人間社会の中で、自己を正しく保って、よりよく自己発揮をせんがためには、人間関係の価値尺度の会得と、その実行が望まれます。
それでは、人間関係の価値尺度についての説明に入らさせていただきます。
まず、常識から。西洋ではTPOということで、時と場と場合に応じて、服装や言葉づかいや態度に気をつけるということですね。
それはそれで正しいことです。
そのことを神様の常識で表現するとこうなります。
「人間は、場と関係と態度で決まる」ということです。
そこがどういう場であるのか、次に相手の人と自分とはどういう関係にあるのか、したがって自分はどういう言葉づかい態度で交わるのが正しいことなのかをよく勘案して、人間関係を構築していかなければならないという訳です。
常識である処の「人間は、場と関係と態度で決まる」という基本を、礼儀正しく行じていくと、礼の心は礼操へと成長して、己の礼の心がよく操縦(コントロール)できるようになります
この基本を遂行するにあたって、己のマイナス感情や本能から出てくる煩悩を正して行じていくと、情の心は情操へと成長して、己の情がよく操縦(コントロール)できるようになります
この基本を遂行するにあたって、ともすると易きに流れやすい己の心に正しい気力を奮い起こす訓練を行じていくと、気操へと成長して、己の気の力がよく操縦(コントロール)できるようになります
この基本を遂行するにあたって、己の志に向って正しく行じていくと、志は志操へと成長して、志という気高い精神がよく操縦(コントロール)できるようになるのです。
これら礼操・情操・気操・志操が発達して「一霊四魂をひらく信念の言葉」の祈りで、親しみ礼節をもってとお唱えしている礼節や、情懐・気節・志節となって、いかなる抵抗や迫害や困難があろうともこれ失わないでこの常識が発達すると、一段上の良識やもう一段上の見識へと向上して、単なる知識とは違うより本質のものが魂の内側から出てきます。
「人間は、場と関係と継続態度、技量、まごころで決まる」
とグレードアップするのです。
このことは、もうずい分と昔に、正神崇敬会の教えとして会員信者の皆様にお教えしていますから、賢明な古くからの信者の皆様におかれましては、ここで私が殊更説明を加えなくとも、感得いただいていることとして、見識よりさらに一段上の意識へとお話を進めさせていただきます。
「人間は、場と関係と継続態度、技量、まごころで決まる」とする見識がよく実践できて、大いに鍛えられていくと胆識へと変化するのです。
胆識という言葉は、耳なれない言葉で、世俗一般にはあまり知られていませんから、皆様が初めて聞く言葉だと思います。
試しに辞典を引いても出ていない物の方が多いはずです。
見識が胆識へと発達すると、「人間は、場と関係と継続態度、器量、徳で決まる」となるのです。
良いことを変わらない姿勢で実行し続けて、習慣化して、人格霊格は向上します。性格も変わります。
「霊格向上の祈りで唱える高い心・深い心・広い心・豊かな心・清らかな強い心・感謝の心・誠心で励みますの意味をよく感得して、己の心の器を大きく育てて、世界のあるがままを大らかに包容力をもって受け止めて生かすのです。己に厳しく反省心と感謝の心で歩むのです。
人間いかなる状況にあろうとも、この世に生かしていただいている神様への感謝が先です。大前提です。その中での悩みなり未解決の問題でしかありません。

この世に生かされている総ての人は、他の人とつながっています。
今を生きる万人は、天之御中主大御神・国常立大御神が宇宙をお創りになられた誕生時から138億年の宇宙の進化と、この地球上で生命誕生から40億年かけて、生命が進化を重ねてきた最先端に位置する神の分御霊であり、人間は神様が元親の親戚兄弟です。
今を生きる貴殿から反対に先祖を遡ると、三十代先祖でその数は百万人を超えます。四十代先祖で一兆九九五億人、五十代先祖で千百二十五兆人、六十代先祖で百十五京三千億人と天文学的な数となって、人類総ての先祖がつながっていきます。
この世に生かされている総ての人は、普くの生命ともつながっています。
生命の進化の過程を遡れば人間の手前が類人猿、その手前がネズミかモグラのような小型の哺乳類、その手前が両生類、その手前が魚類、その手前が軟体動物、その手前が原生動物、その手前が動物性と植物性のプランクトン、その一歩手前が細菌、その手前がウイルス、その手前が鉱物、その手前が鉱物を構成する分子、その手前が原子、その手前が原子を構成する素粒子、その手前が素粒子を構成する宇宙エネルギー、その大元に天之御中主大御神・国常立大御神の御心、御旨が存在しているということで、総ての人は普くの生命とも神様とつながっています。
現在この世に生きている貴殿は、奇跡の存在なのですから、自分を芯から大切にして、人間として生かされ、万物の霊長として人間に特別に与えられた使命である宇宙の進化に寄与するという真理に則して、世のため人のため、自然界のため、大元で御働き下さる神様のために、自分が出来る何らかの貢献をして、果たしをしなければなりません。
この世に生きる総ての生命をも尊重して調和して生きるのです。
自分が出来る範囲でそれを実行に現す徳分の発揮が、人間社会で生かされている一人でも多くの人々に望まれるのです。

神様から業因縁マイナスの邪魔を祓っていただきながら己の願い事が叶えばそれでいいんだと、利己欲の達成のみに神人は甘んじていてはなりません。
一人一人の正神の崇敬者の皆様が己の徳性を育てながら、随時随所で徳分を発揮するのです。
これは、頭の計算、打算なんかじゃないんです。
人間の良心の中核である誠から現れる徳という気高い慈愛あふれる精神を、無心に実践する人に神様はゆるぎない厚い御守護を下さられます。「御霊磨きをお願いします」と願い出られる向上の志が有る方々は日々、人格の陶冶と、人間関係の価値尺度を常識から良識・見識へ、見識から胆識へと高める修養を重ねられまして、正しく、立派に判断していきいき明るくすがすがしく、そして芯から強く正神の御心に叶う創造人生を歩んで参るのです。
(本話は東洋思想の大家である安岡正篤先生の著書と講話からの教えと私儀笹本宗道の教えが融合して完成したものです。気操・志操・情懐・気節・志節・胆識という概念の解説は安岡先生の教えによります。参考文献・安岡正篤講話録活眼をひらく「東洋人物学」講義より, PHP研究所発売)

「一霊四魂をひらく信念の言葉」の祈り

今回は正神崇敬会の崇敬者の皆様・信者の皆様方の御霊磨きの修養の一環としてご唱和いただいている私儀笹本宗道作の「一霊四魂をひらく信念の言葉」の祈りを、当ホームページご閲覧の皆様に紹介させていただきます。

「一霊四魂をひらく信念の言葉

私(わたくし)の本体は 神様からいただいた分御霊(わけみたま)です
ゆえに 高き心境 神心にて ありてあるがままを認め
御役(おやく)に立たさせていただくなり
一つ、 勇気、忍耐をもって
二つ、 親しみ、礼節をもって
三つ、 愛、慈悲、誠心(まことごころ)をもって
四つ、 神智(しんち)、神秘の御力(みちから)をいただきて

私の本体は 神様からいただいた分御霊です
人間の本体は 神様からいただいた分御霊です
生命(いのち)の本体は 神様からいただいた分御霊です
正神に 心を合わせて 皆が幸せでありますように
かんながらたまちはえませ」

笹本宗園著「霊障からの救い」第三章までの入力が出来ました

当ホームページをご覧の皆様へご案内

いつもお心におとめ置きくださいましてありがとうございます。
本日は、笹本宗園初代会長の著書「霊障からの救い」第三章までの入力が出来ましたので、ここにご案内申し上げます。

2013年7月30日

お問合せ ご相談者ご依頼の皆様の個別のご事情には審神者の会長笹本宗道が真摯に対応させていただきます。