◎正神崇敬会・主任 水島乙乃さん(59歳)
▶神様のパワーで心身ともにたくましく、健康に
私が正神崇敬会におつとめさせていただくようになって、早いもので十九年になります。毎日こちらで、全国からいらっしゃる相談者の方や、会員さんたちのお世話などをさせていただいております。
ご相談事は、それはさまざまですが、沈んだ表情で来られた方が、帰るころには明るい表情を取り戻していらっしゃると本当にうれしくて、神様への感謝の気持ちで胸が一杯になります。
神様のもとでお仕事をさせていただくご縁をいただき、これまでいくつもの奇跡を目の当たりにしてきた私ですが、その間、私自身、見えない世界の存在を肌で感じるような不思議な出来事を体験し、また一方では神様からパワーをいただいて、いつの間にか長年悩んできた体の不調が治まるなど、心身ともにたくましく、健康にしていただいてまいりました。今回、十九年にわたる私の実体験のなかから、いくつかをここでご紹介させていただくことになりました。
▶霊を受けては恐怖に襲われた日々をお祓いで乗り越えて
そもそも、私が正神崇敬会におつとめさせていただくことになったのは、こちらで経理の募集をしていて、それに応募したことがきっかけでした。
ところが、採用が決まっていざ仕事をはじめてみると、自分でも意外なほど数字に弱いことにあらためて気づかされることになりました。計算が合わず、帰宅時間が遅くなることはしょっちゅうでしたし、最後まで計算が合わずに、不足分を弁償させてくださいと申し出たこともありました。笹本会長はそんな私を責めるでもなく、むしろいいところを見てくださり、あなたはみなさんのお世話をする受付の仕事に向いていると思うけれど、やってみますかと勧めてくださったのでした。
このようなきっかけでご縁をいただいた私ですから、それまで霊障、霊体質といったこととはまったく無縁で生きてきました。
受付の仕事をはじめて間もないころ、お迎えに出ると、顔色がそれこそどす黒く、顔つきもどことなく不自然な印象を受けた相談者の方が、お祓い、浄霊、除霊を受けて帰るころには血色がよく、顔つきも別人のように変わっている様子を目の当たりにして、それは驚いたことを覚えています。なにかの動物霊に憑かれた方でしたが、世の中には見えない世界のことが原因で苦しんでいる方もおられるのだということをはじめて意識しました。
そんな私にも、いつの間にか見えない世界の影響が及ぶようになりました。
正神崇敬会の敷地には、ご相談にみえた方をはじめにお通しする待合があります。
その日の夕方、ご予約をいただいていた最後のお客様がお帰りになり、私は一人で待合におりました。しばらくすると、遠くのほうから奇妙な声が響いてくることに気づきました。それはまるで、教会のように天井の高い空間で、大勢の人の声がざわめいているかのようにこだまして聞こえてくるのです。耳を澄ませると、どうやら、声は奥の台所のほうから聞こえてきます。しかし、台所をのぞいても、なにも変わった様子はありません。
その夜、帰宅して台所で作業をしていると、リビングのほうから話し声が聞こえてきました。テレビがついているのかと思ってのぞいてみると、リビングはしんと静まりかえっています。
夕方のことといい、奇妙に感じましたが、当時の私には、自分の身に何が起こりつつあるのか、知る由もありません。ただ、その日はひどく体が疲れていたことを覚えています。
その晩、床に就いてからしばらく寝つけずにいると、突然、何かに体を押さえつけられたかのように動けなくなりました。恐怖心が頭をもたげ、なんとかその状態から逃れようとするのですが、体が言うことをきいてくれません。すると何者かが、私の寝ている布団をものすごい力で足元から持ち上げたのです。天井に目が行った瞬間、心臓が凍りつきました。大きな目が、怖ろしい形相でじっとこちらを睨みつけていたのです。助けを求めようとしても声にならず、目をそらしたくても、首筋が心棒でも埋め込まれたかのように固まり、頭を動かすこともできません。
翌朝早々、昨夕から未明にかけて自分の身に起こった出来事について会長に報告。私は生まれてはじめて、霊障の恐ろしさを知ったのでした。
会長のお祓い浄霊が終わると、頭から首筋にかけて埋め込まれていた”何か”が、鼻からスーッと抜けていくのがわかりました。
それからというもの、霊障に苦しんでいる方を玄関先に出迎え、顔を合わせたとたんに、その方に憑いている霊を受けてしまうといったことがくり返されるようになりました。
はじめのころはとにかく恐怖心が先立ち、とくに体が疲れている日などは、霊を受けているのではないか、今晩、金縛りにあうのではないか、そんな不安につきまとわれました。
しかし、その都度、会長にお任せし、お祓いをしていただくと、確実に霊は浄められ、本来行くべき世界へと上っていったのです。そんな実体験をくり返すうちに、しだいに私のなかから不安が消えていきました。
今はたとえ金縛りにあっても、あのころのような恐怖心を抱かずにいられると思うのですが、おかげさまでずいぶんと鍛えられたのでしょう。かつてのように、どなたかに憑いている霊を受けてしまうことは、ほとんどなくなりました。
ご相談者のなかには、霊障に苦しんでいる方もいらっしゃいます。そうした方の気持ちを少しでも汲み取ることができるようになれたことを思うと、今となっては、あのような経験も自分に必要なことだったのではないかと思っています。
▶長年の悩みだった顎関節症と花粉症がすっかり治まる
私は若いころから顎の関節が弱く、なにかの拍子に顎が外れてしまったり、硬いものを食べると顎関節が痛む、口が大きく開かないといった顎関節症に悩まされ、病院で処方された鎮痛剤に頼ってきました。
正神崇敬会にスタッフとしてご縁をいただくようになってまもなく、会長にご相談して神様にお願いしていただき、同時に会長の手かざしで気を入れていただいたところ、おかげさまで顎がきれいに納まり、以後、まったく痛みが出なくなり、十八年になります。
もう一つは花粉症の悩みで、毎年、春になると目が痒く、鼻がムズムズして病院に通っておりました。当時はまだ花粉症という言葉はなく、アレルギーと診断されていました。
ご存じのとおり、その後、花粉症の名はそれこそ、花粉が飛び散るような勢いで全国に広まりましたが、いつの間にか私は、あの辛い症状から解放されていたのです。
先の顎関節症同様、正神崇敬会にご縁をいただいてほどなく、会長から神様にお願いしていただいたところ、いつのころからか、春がめぐってきても目の痒みや鼻のグズつきがまったくなく、ふつうに過ごしていたのです。ある日ふとそのことに気づき、症状がすっかり治まっていることを自覚したのでした。神様には一回お願いしていただいただけですが、毎週、合同修祓(しゅうばつ)でお祓い浄霊を受けておりますので、そのたびに少しずつ浄められ、最終的にすっかりきれいにしていただけたのでしょう。花粉症が消えてから何年もたちますが、おかげさまで現在まで、まったく症状は出ていません。
かつての私には神経質な面がありましたが、神様のお力で浄めていただき、同時に会長からなにかと教えをいただいてきたおかげで、ずいぶん大らかになれたとも思っています。
毎日、こうして元気に働かせていただいているのは正神界の神々様のおかげと、本当にありがたく思っています。
◎赤城圭子さん(60歳・仮名)◎元小学校教師◎会員歴約4年
▶大病つづきで危険な状態にあった兄がすっかり元気に
笹本先生のことを知ったのは七年ほど前。たまたま書店で手に取った霊能者のガイドブックのような本で、自然に目がいったのが先生のページでした。ただ、そのときは差し迫った問題があったというわけではありませんでした。
本格的に先生にお世話になりだしたのは、四年ほど前のことでした。
その日、私は実家の兄嫁から久しぶりに電話をもらいました。
兄嫁は思い余った様子で話しはじめました。兄が大病つづきですっかり衰弱してしまい、兄嫁もそんな兄の介護で手一杯という状況で、やむをえず、同居している母を預かってくれる施設を探しているというのです。兄は、それは母を大切にする人で、自分の命よりも母のことを心配して、施設に預けることにはずっと抵抗を示してきました。その兄が自ら、これ以上、自宅で母の世話をつづけることは無理だと判断したのでした。兄は、それほど弱りきってしまったのです。
兄が十年ほど前から心臓を患い、ほかにも複数の持病を抱えて苦しんできたということを、私はそのときはじめて知りました。離れて暮らしている私に余計な心配をかけたくない、という配慮だったのでしょう。
実家を訪ね、兄の変わりようを目の当たりにしたときは、本当にショックでした。
顔色は蒼白で、うつろな表情にはまったく生気が感じられません。危ない状態にあることを医師から告げられたものの、カテーテルによる手術は危険を伴うため、すっかり弱気になっていた兄は、手術に踏み切る気力すら失せていたのです。
帰路、兄のことを思い出しては、目から涙がボロボロとこぼれ落ちました。
なんとか兄を救いたい一心で、友人の知りあいを通じてある霊能者に兄のことを尋ねてもらったところ、返ってきたのは、本人の魂が生きようとする気持ちを捨てているので望みはほとんどない、という答えでした。
ダメと言われれば、希望を見出せる答えをほかに求めたくなるのが人情でしょう。そのとき、私の心にふと浮かんだのが笹本先生のことでした。私は藁をもつかむような気持ちで正神崇敬会に先生をお訪ねしたのです。
「大丈夫です」
霊査を終えた先生は私のほうをふり返ると、そうおっしゃいました。その瞬間、私は闇のなかにひと筋の光を見出したような心地がしました。
はじめてご相談にうかがい、お祓い浄霊をしていただいてから一週間後のこと。ふたたび実家の兄を見舞ったところ、顔色に変化が見られました。血色がよくなっていたのです。私は心のなかで「大丈夫だ」と思いました。
その後、月に一度のペースで先生をお訪ねしてはお祓いをしていただき、月の半ばには遠隔祓いをお願いしました。すると、兄の顔色は劇的に良くなり、心臓の発作も治まってきたのです。
しかし、それからしばらくすると咽頭ガンの可能性があると医師から告げられてみたり、むずかしい肺炎を発症して四、五ヶ月も苦しむなど、一つ良くなっては別の病気が出るといった状態がつづきました。そのたびにお祓いをしていただき、神様のお力で治していただいてまいりました。
肺炎を治していただいたときのことは、とくに印象深く心に残っています。二月三日の節分祭の折にお祓いをお願いしたところ、その日、兄は突然起き上がると自分でさっさと布団をたたんでしまったというのです。それまで何ヶ月も寝ていたのですから、兄嫁からその話を聞かされたときは、本当に驚きました。
こうして神様から次から次へと大きな病気を治していただいた兄ですが、今は大病とはほぼ縁を切らせていただけたと思えるほど、毎日を元気に過ごさせていただいております。
実家の母も、兄がインターネットで見つけたある施設に入所したところ、そちらがとても肌にあったようで、かえって前よりもどんどん元気になり、九十一歳になる今も毎日を生き生きと過ごさせていただいております。兄は母のことでも、本当に安心して日々を過ごせるようになったようです。大病つづきの兄のことで心を砕いてきた兄嫁も元気を取り戻し、おかげさまで、あらゆることがいい方向に、いい方向にと流れていくことを日々、実感させていただいております。
▶お互いの心が通いあうようになってからあの世に旅立った義母
正神崇敬会にご縁をいただいて以来、私自身、いくつものありがたい変化をいただいてまいりました。とくに亡くなった義母とのことは、それは感慨深く心に残っています。
義母は生前、寝たきりになり、長いあいだ病院に入院していました。ところが、私がお見舞いに行くと罵声を浴びせるなどして、寝たきりの悔しさをぶつけてくるのです。世間にありがちな話ですが、私も、そんな姑に対してあまりいい感情を抱いていませんでした。
そんなある日のこと、どうして義母は寝たきりのまま、こんなに長生きしているんだろう、ふとそんな疑問が浮かび、「もしかしたら私を待ってくれているのではないか」という気がしたのです。私たちの関係がギクシャクしたまま義母が亡くなってしまったら、きっと私の心に後悔が残るはずです。
以前、笹本先生から「よくない人間関係があったら、その人の幸せを願うことです。そうすれば相手も自分もよくなります」と教えていただいたことがありました。
自分が変われば相手も変わる―そう気づかせていただいてから、私は病院に着くと瞑想をして、体中に愛が満ちるのを感じてから義母の病室に入るようにしました。すると、それから少しずつ義母と心が通いあうように変わっていったのです。
義母は人から触れられることを好まず、私の息子や娘が手を差し出しても、パンと振りほどくほどだったのですが、私が一人でお見舞いに行き、義母の手を握ると、ギュッと握り返してくれるようになりました。
義母が亡くなる前、いちばん最後に顔を合わせたのは私でした。仕事の帰りに一人、病室に立ち寄ると、義母は私の目を見ながら「怖いよ、怖いよ」と訴えるのです。「もうすぐ大好きな人たちが待っているところに行けるから、怖くないよ、大丈夫よ」、私も義母にそんな言葉をかけながら、ずっと二人で手を取り合って顔を見合わせていました。それから数時間とたたずに、義母はあの世へ旅立っていったのでした。
その後、主人や主人の兄弟が言うには、ここ何日も義母は目の焦点が合わず、言葉らしい言葉を発することはなかったというのです。
そんな義母が亡くなる間際に、一番遠かったはずの私としっかり目を合わせてくれ、言葉をかけてくれたのです。なんとありがたいことでしょう。
こうして私はまた一つ、神様から奇跡をいただいたのです。
正神崇敬会の神々様とご縁をいただいてから、おかげさまであらゆるものごとの歯車が合うように変わってまいりました。
笹本先生は常に物事を肯定的にとらえ、神様がついていてくださるから思う存分やってごらんなさいと勇気づけてくださいます。そんな先生のもとに通わせていただいているうちに、私自身、気持ちがどんどん大らかになっていくように感じるこのごろです。
正神崇敬会にうかがうたびに、神様が包み込んでくださっているような温かさを感じ、幸せな気持ちをいただいて帰ってくる私です。
◎村石千鶴子さん(60歳・仮名)◎看護助手◎会員歴約5年
▶脳梗塞で重篤な状態にあった知人を救っていただく
五年ほど前まで仕事の関係で北海道に住んでおりました。それまでも私は、いつも体調がすぐれず、原因不明の頭痛や激しい動悸などに悩まされ、顔に黄疸が出るといった具合で、寝込んでしまうこともしょっちゅうでした。
とくにひどかったのが十年ほど前。毎晩、深夜の時間帯になると全身が汗でぐっしょりとなって寝苦しさに目が覚め、心臓がドキドキと激しく鼓動を打つような状態で、それが何ヶ月にもわたってつづきました。大学病院をはじめ、数ヵ所の病院を転々としたのですが、いずれも原因不明ということで手の施しようがなく、肉体的にも、精神的にも追いつめられていました。
藁をもつかむような気持ちである霊能者のもとを訪ねたところ、驚いたことに、私を苦しめていた原因は、知らず知らずのうちに憑いていた生霊だったことがわかりました。その方のお力で、しばらくは症状が治まっていたものの、根本からの解決には至らず、ふたたび心身ともに苦しむ日々が舞い戻ってきたのでした。
そのようななか、信頼している知人が脳梗塞で倒れて危険な状態に陥りました。
知人はそれ以前にも脳梗塞で危ない状況に陥り、集中治療室に運びこまれていました。そのときはなんとか回復したものの、ふたたび重篤な状態に陥ってしまったのです。
一命だけでもとりとめてくれたら―そのとき脳裏にふと浮かんだのが笹本会長でした。かつて大阪にいたころ、やはり体調面その他で悩みを抱えていた私に、ある友人が、埼玉の実家に帰った折にでもここを訪ねてみるといいといって、正神崇敬会が紹介されている一冊の本を手渡してくれていたのです。私はさっそく正神崇敬会に電話を入れ、詳しい状況を手紙にしたためて送らせていただきました。
笹本会長に遠隔でお祓い浄霊をしていただいたところ、驚いたことに、知人は一週間とたたないうちに回復し、自分で車椅子を動かして移動できるまでになったのです。神様のお力のありがたさに心から感じ入りました。
▶心身ともにいい方向に変わりはじめる
そのころ、私自身、北海道に留まるべきか、実家に戻るべきかで迷っていました。そんな私が本格的に笹本会長にご相談させていただいたのは、母の三回忌が実家のある埼玉で営まれ、帰郷した折でした。
正神界の神々様にお取次ぎいただいたところ、実家に帰るようにとのお示しをいただきました。同時にこのときはじめて、自身が霊体質であることを知りました。先の生霊の件もそうですが、原因不明の頭痛や黄疸など、いずれも霊体質のため、いくつもの霊を受けてしまっていたことが原因だったのです。
ご神示に従い、北海道での生活に終止符を打って、私が実家へ戻ったのは平成14年(2002)11月のことでした。
以来、週末には正神崇敬会に参拝し、個人や合同でお祓い浄霊を受けるようになると、心身ともにいい方向に変わりはじめました。お祓いによって浄められていくと同時に、神様からのお示しや、会長からいただくご指導を実践することで、心の持ち方が変わっていったことが大いに影響しているものと思います。体調の悪化に苦しんでいたころはひたすら我が強く、自分のことしか考えていないような生き方をしていたことに、あらためて気づかさせてもいただきました。そんな心の隙に、いくつもの霊がかかっていたのだと思います。心と体は一つだということを、身をもって体験させていただきました。
ここ二年ほどはほとんど毎週末、合同修祓、もしくは個人でお祓い浄霊をしていただいてまいりました。
その間、これといって具体的なお願い事をしたわけではありませんが、気がついたら神様から大変ありがたいご守護をいただいていた、といった例がいくつもあります。
一つはヒジの関節炎で、以前は重いものを持ったときなど、ズキンと痛みを感じたものです。ところが、いつの間にか変形していた関節が治り、今はまったく痛みがありません。
また、生来私は気管が弱く、とくに朝晩の冷え込みが厳しい冬ともなると咳き込んでしまうため、夜、床に就くときはマスクが手放せない生活を送っておりました。ところが、これもいつの間にかマスクなしでぐっすりと眠れるように変わっていたのです。かれこれ二十年はマスクをつけて眠っておりましたので、この変化には本当に驚きました。
▶兄が急性心筋梗塞から回復、職場復帰を果たす
私には兄がおりますが、その兄が外出先で倒れ、救急車で順天堂病院(東京都文京区)に運ばれたのは平成18年(2006)の9月末のことでした。原因は急性心筋梗塞で、主治医の先生からは、あと数分、病院に到着するのが遅かったら命がなかったかもしれないと言われました。
その日は土曜日で、兄は友だちと外出していました。食事中に気分が悪くなり、外の空気を吸ってくるといって店を出たきり戻らない兄を心配して友だちが外に出たところ、兄は額に汗を浮かべ、真っ青な顔でしゃがみこんでいたといいます。
私が病院に駆けつけたときには、兄は集中治療室に入っていて面会できない状態でした。対応してくださった看護師さんによれば、ロレツが回っていないとのこと。脳に障害が起きているのかもしれないと思うと、心配でなりませんでした。
翌日、さっそく笹本会長のもとに足を運び、神様にお取次ぎいただいたところ、五日間つづけてお祓いをすればよくなるというお示しをいただき、その場でお願いしました。
すると兄は、一回目のお祓いで危機的な状況から抜けだし、回数(日)を重ねるごとに目覚ましい回復を遂げていきました。それは主治医も驚くほどの回復ぶりで、わずか数回のお祓いで、日常生活を支障なく送れるだけの機能を取り戻したのです。
兄は退院すると、嘱託として勤めていた会社に療養休暇の届けを出し、しばらく自宅で過ごすことになりました。兄が六十歳で定年を迎えるまで在籍していた会社で、嘱託となってからは、一年単位で更新していくことになっておりました。兄としては、これを機に退職する考えでいたようです。
兄を伴ってお礼参りにうかがったのは平成19年(2007)の3月上旬のことでした。会長からなにかとありがたいお話をうかがい、お祓いを受けた帰り道、「心の奥深いところになにかがドーンと入ったのを感じた」と、兄は感慨深そうに申しておりました。
兄の勤務先から電話が入ったのは、その翌日か、翌々日あたりだったと思います。驚いたことに、それは職場復帰してほしいという連絡でした。すでに療養休暇をとって半年近くが過ぎていましたし、新しい人を採用する動きがあって不思議ではありません。ところが先方は「電話番だけでもいいから来てほしい」と、むしろ更新を望んでおられたのです。これはなんとも不思議なことで、正神界の神々様のお力が働いたとしか思えません。
その後、二十日過ぎにもう一度、兄を伴って会長のもとにうかがいました。すると神様から、4月のはじめか、5月の連休明けから仕事をはじめるようにとのお示しをいただいたのです。
その日はちょうどお彼岸でもあり、会長に、すでに他界している両親の供養をお願いしました。お祓い浄霊によって、両親は霊界の下から四番目、もう食事をとらなくてもいい世界に上がらせていただくことができたのです。
あの世にいる先祖をよりよい世界に上げる、そんな先祖供養の仕方もあるのだと、僧侶の資格を持っている兄はいたく心を動かされた様子で、帰り道、ぽつりと「すごいねえ」と申しておりました。
◎佐久間寛之さん(42歳・仮名)◎医師◎会員歴約7年
▶研究論文が認められ、世界的な紳士録に自身の経歴が掲載される
今日まで、正神界の神々様からいくつもの証をいただいてまいりましたが、そのなかから、自分なりに選んだエピソードをいくつかご紹介させていただきたいと思います。
平成18年(2006)には、四年間にわたってつづけてきた研究の成果をまとめた研究論文が認められ、アメリカの出版社が発行している世界的な年鑑版紳士録に自身の経歴が掲載されるという、望外の喜びがもたらされました。
この紳士録への掲載候補は調査員によって専門分野ごとの具体的な選択基準に基づいて選出され、編纂された紳士録は、世界各国の主要図書館や企業などに所蔵される、権威あるものとして知られています。
自身の論文が、そのようなところで検討の対象になっているとは夢にも思っておりませんでしたので、アメリカの出版社から掲載候補に選ばれた旨を知らせるメールが送られてきたときは、はじめは何のことかピンとこなくて首を傾げていたほどです。毎年、掲載される人物のほとんどがアメリカ人。日本人の、ましてや一介の勤務医である私の論文が目にとまるなど、本当に驚くべきことです。
過去の前例では、博士号の取得に際しては一本の研究論文の提出で可とされてきましたが、私には、二本の論文提出が求められました。大学病院での勤務もあり、なかなか厳しい条件ではありましたが、目の前の現実を受け入れ、コツコツやる以外に道はありません。おそらくその研究には六~八年はかかるだろう、というのが私の予測でした。
ところが、研究は予想以上に順調に進み、実際には四年という短い期間で終了にこぎつけることができたのです。
その間、二~三回、研究を早く終えることができますように神様にお願いしますと会長に申し出、お祓いをしていただいてきました。
神様は、研究がスムーズに進み、早く終えられることと同時に、紳士録への経歴掲載という、思いがけないプレゼントまでお与えくださったのです。
会長にご報告させていただいたところ、
「二本の論文提出を課せられたとき、不満を抱かなかったことは正解でしたね」とおっしゃいました。
たしかに、あのとき課せられた条件を不服に思い、良からぬ想念を心に抱いていたら、神様からこのような証はいただけなかったかもしれません。
日頃の心の持ち方がいかに大切かということを再認識すると同時に、神様のお力のありがたさを目の当たりにした出来事でした。
▶意識が戻り、父娘の会話を交わしてあの世へ旅立った娘さん
正神界の神々様からいただく奇跡は、私のまわりにも広がっています。
以前、ある患者さん(男性)が、肺炎がもとで意識障害を起こしてしまった娘さんと、なんとしても意思の疎通をはかりたい、助けてほしいと病院に駆け込んでこられたことがありました。娘さんは二十代半ばで、ダウン症という先天性の病気を持っておられました。
人工呼吸器をつけた娘さんの意識は戻らず、いつ亡くなってもおかしくないような危険な状態がつづきました。
私は考えた末、笹本会長を訪ね、個別のお祓いをお願いしました。
会長のお祓い浄霊はふだんより長い時間をかけて行われましたが、娘さんがもともと持っている業因縁がかなり深いものであったことをあとで知りました。
幸い、お祓い浄霊していただいた日の翌日、奇跡的に娘さんの意識が戻りました。お父さんの願いが通じたのです。周囲の看護師も、この大きな変化には本当に驚いていました。
結局、娘さんは意識が戻ってから三週間後に肺炎がもとで亡くなりました。しかし、そのあいだ、父娘はかけがえのない時間を共にすごすことができたのです。
▶禊行をつづけるなか、緑内障が快方に向かう
かつての私は、お願い事の成就率が92パーセントときわめて高いことに心が流れ、自分に都合のいいお願い事しかしてきませんでした。
最近、そのような自分の傲慢さ、我欲の強さに気づかせていただきました。本来、自身の成長のためにやるべきことがあったわけですが、私はこれまで、どこかで修行から逃げていたのです。
人間は易きに流れるとはよく言われますが、安易に生きていると、どうしても自己中心的になりがちなものです。自分のことだけを考えて生きる、家族のことだけを考えて生きる、ということは易しいことで、そういう自己のとらわれを少しずつ手放し、もっと広い世界のことを考えて行動できる人間に成長していきたいと願っています。
一歩でも前進したい、自分が持っている業因縁にふりまわされないように、自身を鍛えていきたいと思い立ち、平成18年(2006)の11月から禊行をはじめました。
おかげさまで、この行をはじめてから緑内障の炎症が急速に治まりはじめ、各段に良くなってきています。自身の業因縁を大元の神様に祓っていただけることは本当にありがたいことと、心から感謝しております。
自ら進んで修行させていただこうと決意するまでには時間がかかってしまったわけですが、これからは修行を通じて誠を磨いていきたい、そう願っています。
今までは、ものごとに対して損得勘定による合理性を追求してきたわけですが、これからは損か得かではなく、誠かどうかでものごとを計ることができるように、自身の心境を変えていきたいと願っています。
◎立松和子さん(57歳)◎主婦◎会員歴約10年
▶手形が絡んだ勤務先の廃業処理を潤沢な資金で無事に完了
正神崇敬会へは十年ほど前、風邪薬の飲みすぎがきっかけで体調を崩していたとき、姉に紹介されてうかがったのがはじめてでした。当時の私は薬の副作用でひどいめまいに悩まされ、病院に行っても症状が治まらず、苦しんでいたのを神様に治していただきました。いつ果てるともない苦しみは、神様のお示しどおりピタリと三ヶ月で治りました。
その後の人生をふり返ると、あのとき笹本先生にご縁をいただけたことは本当にありがたく、今日まで、なにかとご指導いただきながらやってまいりました。
これまで、神様からいただいてきたありがたいご守護のなかから、いくつかをご紹介させていただきたいと思います。
これは七、八年ほど前のことになりますが、当時、主人が勤務していた会社の社長のご子息が急に亡くなられてしまいました。主人は専務として会社の経理全体を見ており、私も同じ会社にパートで勤めさせていただいておりました。
後を継ぐ立場の方を亡くされた社長は、一時は、ほかの人間に会社を託して存続させていくことも考えたようですが、最終的には廃業を決断されたのでした。
経理を全面的に見てきた主人は、取引先をはじめとする周囲の方々にできるだけご迷惑をおかけすることなく、順調に処理を終えることができますようにと、このとき神様にお願いいたしました。
問屋として手形を扱っていた関係から、会社をスムーズに閉めるためには、すぐに使える現金の準備が必要でした。従業員数人でやってきた会社で、資金は3000万円あれば十分です。そこで主人は社長に対して、個人的な資金を会社に貸し付けていただけないものかと申し出たのです。
私的なお金ということから、社長もすぐには承諾してくださらなかったのですが、しばらくすると、社長名義で会社の口座に2000万円が振り込まれました。
しかしこれではお願いしていた3000万円にはあと1000万円も足りません。どこかにシワ寄せが及ぶことは必至です。主人はあらためて、社長にあと1000万円の貸し付けをお願いするつもりでおりました。
すると不思議なことにそれから間もなく、会社の口座に社長名義のお金がさらに2000万円振り込まれたのです。
あとあと、二回目の2000万円は、まだ振り込みが済んでいないという社長の思い違いから入金されたお金であることがわかりました。しかし、そのおかげで、最終的に4000万円という潤沢な資金を用意することができ、主人は余裕をもって会社の処理に臨むことができるようになったのです。神様の見えないお力が働き、主人を助けてくださったものと、夫婦共々、深く感謝いたしました。
社員の皆さんに対する退職金にしても、会社側の都合で廃業するのですから、できるだけのことはしたいと主人は考えておりました。
私の口から申すのもおかしいことですが、主人はそういう点は本当にきれいな人で、限られた額のなかから、まずは皆さんを優先して、会社の規模としてはそれだけ支払うところはなかなか無いと思える程度の額をなんとかお支払いさせていただき、残った額を自身の退職金として受け取りました。
▶神様がくださった主人への退職金
おかげさまで、無事に会社の処理を終えることができた主人でしたが、私たち夫婦は一時に職を失ったため、生活の不安が残りました。主人の年金が下りるまでにはまだ二、三年ありましたし、いただいた退職金はすぐに生活費に消えてしまうことになるでしょう。
考えあぐねた私は、笹本先生をお訪ねした折に、私たち夫婦の今後について、ご神示をいただきたいと申し出ました。
笹本先生はお取次ぎを終えられると、こちらをふり向かれると、「大丈夫」というお示しをいただいた旨、お伝えくださいました。
奇跡が起こったのは、それから間もなくのことでした。
主人は小さな土地を二ヵ所、所有しておりましたが、立て続けにその土地を買いたいという人が現われ、とんとん拍子に話が進んだのです。
こちらが売りに出していたわけではなく、とくに一方は間口が狭い、うなぎの寝床のような土地で、単独ではまず売れそうもないものでした。ところが、たまたま隣接する土地の購入を検討していた方が、その土地も併せて買い取りたいという話になり、主人も喜んで売却に応じたというわけです。
思いがけず土地が売れたことで、私たち夫婦は経済的に救われたばかりでなく、精神的にも余裕が生まれました。
これは、神様がくださった主人への退職金にちがいありません。
▶言霊の大切さを胸に刻み、一歩でも成長したい
じつは二、三年前から時々、舌の先にジリジリとした痛みが出ることが;あり、病院で処方された口内炎の薬や、ビタミン剤を飲んできました。それでも良くならなかったため、正神崇敬会へうかがった際、舌の痛みがとれますようにと、正神界の神々様にお取次ぎをお願いいたしました。その際、「言霊を大切にするように」、つまり言葉に気をつけるようにとのご神示をいただきました。間もなく舌の痛みは取れたものの、この三月(平成19年)に入って、また舌の先に痛みを感じるようになりました。
正神崇敬会へうかがった折、ご祈祷とお祓いを終えた笹本先生は私のほうをふり返られると、
「立松さん、鎮魂行を積むことです。心を平らにしておくことです」
そうおっしゃられたのでした。自分の日頃の行いを省みると、主人や息子に対して、感情の赴くままにキツいものの言い方をしてきた自分が思い起こされました。温和な主人がなにも言い返さないのをいいことに、私はますます図に乗って、言わなくてもいいことまで口にしていたのです。身が縮むような思いがいたしました。
それから三週間後に参拝にうかがった折、あらためてご神示をいただきたい旨、笹本先生に申し出ました。そのときいただいたお言葉は次のようなものでした。
「甘えがすぎないように胆力をつけてください。舌が痛くなるのは神様からのお示しです」
「以前にも申し上げましたけれど、言霊、言葉の力ですね。言霊には立松さんが思っている以上に、深く、強い力が宿っているものです。ですから、心を平らに、平らにして、言葉で自分を飾ることなく、正直にお話なさるように」
私は頭をガツンと叩かれたような思いがしました。私の悪い癖を改めるように、神様はふたたび舌の痛みを通じてお教えくださったのでした。
自分の日常を見つめ直し、鎮魂行とはなんだろうと、あらためて自分に問いかけました。
神様からご覧になったとき、恥ずかしくない自分であるように努めること―それが鎮魂行ではないか。人様の言葉にカチンときたり、批判的な感情がこみ上げてきたときは、「惟神霊幸倍坐せ」と唱えて神様のなかに飛び込んでしまおう、そんなふうに考えました。
これから五年たち、十年たち、この世を去っていくとき、あのとき、神様からお叱りを受けたおかげで変わることができたと、そう思えるようになりたいものです。
これからは言霊を大切にして、心を平らに、平らにと自分に言い聞かせて、一生懸命やらせていただきます。まだまだ未熟な私でございます。もっともっと高い境地を目指して頑張りたく存じます。
◎遠山喜久代さん(46歳・仮名)◎主婦◎会員歴約10年
▶長女のいじめがきっかけでご縁をいただく
笹本先生との出会いは十年ほど前。小学生だった長女が学校でいじめに遭い、知人に正神崇敬会を紹介されてお訪ねしたのがはじめてでした。
いつの間にか下駄箱のなかの靴に落書きをされていたり、持ち物、着ているものに対してなにかと悪口を言われるなど、娘はけっこうないじめに遭っており、朝、登校する時間が近づいてくると「行きたくない」とくり返すようになりました。
神界にお取次ぎいただきましたところ、いじめの原因は娘に対する妬みであることが明らかになりました。
笹本先生は親身にこちらの話を聞いてくださり、お祓いのあと、娘に対して心を強く持つようにと、子供にもわかるような言葉でご指導くださり、励ましてくださいました。
おかげさまで娘はだんだん強くなり、周りの子供たちも学年が上がるにしたがって変わっていき、いじめはしだいに治まっていきました。
その後、主人の仕事の関係で転居し、娘も学校が変わると、のびのびと学校生活を送れるようになりました。かつて、いじめに苦しんだ娘も今は二十歳になり、充実した学生生活を送らせていただいております。
▶長男が志望していた私立中学に見事合格
息子の中学受験の折にも、笹本先生に大変お世話になりました。
息子は塾に通っておりましたが、進んで勉強に取り組むためというより、むしろお姉ちゃんが行っているからなんとなく自分も、といった感じでした。
そんな調子ではありましたが、小学六年の八月になって、急きょ、ある私立中学の受験を決めました。入学試験は四ヶ月後の十二月。成績面で不安がありました。
笹本先生に合格祈願のお祓いをお願いすると息子の成績が上がりはじめ、十一月に受けた模擬試験ではかなりいい成績を収めました。これならいけるかもしれない、そんな手ごたえを感じておりましたところ、念願かない、志望校に合格することができました。
合格のお願いにあがってから試験までの四ヶ月という期間に、これだけ力をつけることができたのは、まさに神様からいただいたご守護のおかげにほかなりません。
今は、その息子も高校二年生になり、国立大学への進学を希望しています。まだ少し早いのですが、その夢がかなうように、先日、神様にお願いしてまいりました。
▶大きな手術を受けた母、義父、共にすっかり元気に
子供たちばかりでなく、私の母や主人の父も、正神界の神々様からありがたいご守護をいただいております。
私の母が心臓の弁を取り替える大手術を受けたのは四年ほど前のことでした。その折には笹本先生にご相談させていただき、手術が成功して元気に暮らせるよう、神様にお願いしていただきました。母には持病の糖尿病もあり、なにかと大変でしたが、おかげさまで手術は成功し、順調に回復。母は現在も元気に過ごさせていただいております。
母が手術を受けた翌年には、主人の父の前立腺に腫瘍が見つかり、同様に、神様に手術の成功をお願い申し上げました。
おかげさまで、無事に手術は成功。その後、三ヶ月に一回の割合で定期検診を受けてまいりましたが、今日までまったく異常はなく、担当の先生からも調子がいいとおっしゃっていただいております。
◎安間修司さん(45歳・仮名)◎高校教師◎会員歴12年
▶母の末期ガンの痛みがお祓いで消えた
私が正神崇敬会にご縁をいただいたのは平成7年(1995)の春のことでした。当時、母が末期ガンの痛みに苦しんでおり、少しでも楽にしてあげる方法はないものかとあちこち当たっていたとき、知人から霊能者の笹本会長を紹介してもらったのがきっかけでした。
はじめてお訪ねした日、神様に霊査のお取次ぎいただいたところ、先祖代々の業因縁のために穢れた稲荷が母についていることがわかりました。会長にお祓い浄霊をしていただき、その足で病院に母を見舞ったところ、驚いたことに母の表情はすっかり明るくなっていました。
末期ガンのため、命を救うことはすでにむずかしい状況ではありましたが、痛みがくり返されるたびに、お祓い浄霊をしていただくと「痛みが消えた」と言って、母の表情がやわらぎました。そんな母を見るたびに、安堵して胸をなでおろしたものです。
その後、退院の機会をいただいた折には、母も一緒に正神崇敬会に寄せていただき、一度だけ神様にお参りをさせていただきました。会長のお祓い浄霊によって苦痛から解放していただけたことに、母も心から感謝していました。
それからほどなく母は再入院し、その年の7月に他界しました。
笹本会長にご縁をいただいてからの二、三ヶ月間、神様のお力を目の当たりにした私は、その年の秋に会員となりました。以来十余年、神様からどれほどたくさんのご守護をいただいてきたことでしょう。
▶衰弱していた高齢の伯母が元気を取り戻す
わが家に同居している九十歳になる伯母も、これまでいく度となく神様から助けていただいてまいりました。
三年ほど前のこと。ある日、仕事を終えて帰宅すると、玄関の鍵が開いたままになっていました。窓は開け放たれ、部屋には灯りがともっていました。しかし、声をかけても伯母の気配がしません。
不安を感じていたところ、伯母が救急車で病院に運ばれていたことがわかりました。近くまで出かけた際に転んでしまい、手を傷めてしまったというのです。親切な方が119番に電話をしてくださったのでした。
病院に駆けつけたところ、伯母は手を骨折しており、医師から手術の必要があると告げられました。当時、伯母は八十代後半で、手術を受けるには年を取りすぎているのではないかという心配が頭をよぎりました。
そこで私は笹本会長をお訪ねし、神様に伯母の回復祈願お祓いを申し出ました。
その後、伯母は別の病院に転院。幸い手術は免れ、ギブスで固定する方法で無事に回復することができたのです。
ただ、ギブスをつけているあいだ伯母はほとんど家のなかで過ごしていたことから、すっかり脚が弱ってしまいました。たまに外へ出ても途中で歩けなくなり、あるときなど、親切な方に家まで連れて帰っていただいたこともありました。そんなこともあり、伯母はますます外出を控えるようになっていきました。
去年(平成18年)の8月のこと。夕方帰宅したところ、居間の床に座りこんだまま、弱りきって動けなくなっている伯母の姿が目に飛び込んできました。どうやら座っていたソファから滑り落ち、そのまま立ち上がることもできずにいたようです。トイレに行くこともできなかったのでしょう。床にはおしっこが広がっていました。
「何分ぐらいそうやっていたの?」そう尋ねてもはっきり答えられず、あるいは、何時間もそうして座りこんでいたのかもしれません。
翌日、笹本会長にお電話して遠隔のお祓いをお願いしました。
その後、さらに日曜日の合同修祓に出席してお祓い神気充電をしていただくと、おかげさまで伯母は元気を取り戻しました。
年齢が年齢のため、以後も用心にと11月までの毎週、日曜日の合同修祓で伯母のことをお願いし、お祓いをしていただきました。
▶日々、学校で起こる生徒のトラブルも神様のお力で続々解決
霊能者の笹本会長には健康面ばかりでなく、人生のあらゆる局面で壁にぶつかるたびにご相談させていただき、貴重なアドバイスをいただいてまいりました。
教育現場では、ときに生徒間でいじめが発生したり、学業を放り出して退学してしまいそうな生徒が出てくるなど、なにかしら問題を抱えていることが少なくありません。そうした問題もその都度、会長にご相談させていただき、今日まで数え切れないほどの問題を解決に導いていただいてまいりました。
笹本会長はよく「神様半分、自分半分」ということをおっしゃいます。神様に甘えるばかりでなく、日ごろの本人の努力の積み重ねも大切なことと受け止め、少しでも人として成長させていただけるようにつとめていきたいと願っております。
細かいことをいえばキリがないのですが、自身が神様に心を合せて一生懸命に取り組んでいるときほど、ものごとが順調に、タイミングよく運んでいくという事実を今まで数知れず経験させていただいてまいりました。人間ですから、ときにはなにかイライラしてしまうこともありますが、心に波が立っているときは、やはりものごとはうまくいきません。心のありようが、いかに現実に影響するかということを、身をもって学ばせていただいてきました。
学校でなにか問題が起きたときには、自分の視点ではなく、「神様からご覧になったらどれが一番いい解決方法だろう」、そんな視点に立って考えるように心がけています。
また、子供たちの幸せを一番に願って日々、誠実につとめさせていただいていれば、たとえなにかトラブルが起きても、神様は絶対に助けてくださると信じています。
このような心境で日々を送らせていただいているのも、正神崇敬会の神々様、そして会長からいただくご指導のおかげと感謝しています。
◎島田佳代子さん(56歳・仮名)◎自営業◎会員歴約15年
▶息子の不可解な言動がお祓い浄霊ですっかり治まる
宗道先生との出会いは十五、六年前。当時、中学生だった息子の言動に気になるところがあり、ある友人にその話をしたところ、紹介してくれたのが宗道先生でした。
息子は自分の手が何かに触れることをひどく嫌い、新聞でもスプーンでも、自分の手が触れたものはとにかく捨てないでほしいと言うのです。理由を聞くと、「自分の考え方が煙になって他の人にわかってしまうから」といった奇妙な答えを返してくるのでした。
買物を頼めば、お金を受け取るときに服の袖口を引っ張って手がお金に触れないようにしたり、そうかと思うと、延々と意味不明の言葉をつぶやいている、布団にもぐって「ズーッ、ズーッ」と奇妙な音を立てるなど、それまで見せたことのない不可解な言動を見せるようになっていたのです。不思議にも、主人の前ではそういう言動を一切見せず、私や、上の娘の前でだけ、そのような振る舞いをするのでした。
息子に、霊能者のいい先生がいらっしゃるからと声をかけたところ、本人も苦しかったのでしょう。ふつうなら親との外出など断りたい年頃のはずですが、「行きたい」という答えが返ってきました。こうして私たち母子は、早々に正神崇敬会に足を運ぶことになりました。
宗道先生に霊査で鑑ていただいたところ、主人の家系の、それほど古くないご先祖の因縁が息子に出ているというお話しでした。その後、何回かお祓い浄霊を受けるようにとのお示しをいただき、本人が「行きたい」というときには連れていき、「行かない」というときには、私が一人でうかがってお祓い浄霊をお願いしました。
はじめのうちは、お祓い浄霊をしていただいても、息子の様子はどこか違和感のある、ぎこちない感じがしたものですが、そうこうしているうちに月日が流れ、ある日、気がつくと不可解な言動はすっかりなくなり、以前の息子に戻っていました。
▶マンションのローンに加え、義弟の借金の保証人として返済に追われる日々
十二年ほど前、マンションを購入する際にも宗道先生にご相談させていただきました。金銭面では多少の無理を承知で購入に踏み切ったマンションですが、私なりに考えがあってのことでした。
大手食品メーカーの下請け会社に勤めていた主人は、二十代のころ、仕事関係のつき合いで麻雀を覚えてからというもの、すっかり麻雀に夢中になってしまいました。仕事は真面目にやりますし、お給料も口座振込みですからきちんと入ってはくるのですが、麻雀の面白さがわかってくると、毎晩、午前様のような状態になり、家には寝に帰ってくるだけで、週末もお正月も関係ないといった調子で仲間と雀荘に入り浸るようになりました。こうなると、主人が麻雀につぎ込むお金は相当な額に上るようになりました。
そんな生活が二十年余りもつづいたため、思い切ってマンションでも買えば、主人もローンのことを考えて遊ばなくなるのではないかと考えたのです。
マンション購入に先立つこと数ヶ月前、主人の弟から200万円の借金を申し込まれ、夫婦で相談して貸していました。聞けば、遊興費をつくるためにカードでお金を借り、返せなくなってしまったというのです。
当初、自己破産の手続きをしてはどうかと勧めたのですが、義弟夫婦は、なんとしても自分たちで返したいと言って頭を下げました。そこで私たち夫婦は銀行の預金を担保に200万円を借り入れ、都合をつけました。そんなこともあってのマンション購入でしたが、夫婦で頑張ればどうにかローンの返済もやっていける目処は立っていました。
ところが、私たち一家が購入したマンションに入居してほどなく、ふたたび義弟夫婦が借金を申し込みに訪ねてきました。先の200万円では足りないと言うのです。あといくら借金が残っているのかと尋ねると、残額は380万円程度、それで全部だという話でした。私たち夫婦もマンション購入の頭金を払ったあとで、預金はほとんどありません。結局、主人の勤務先から退職金を前借りするかたちでなんとか都合をつけました。
ところが、それからわずか三ヶ月後、義弟はあれほど避けたがっていた自己破産の手続きをとったのです。弁護士から連絡を受けてはじめて、実際には一千万円近い借金を抱えていたことがわかりました。
それに先立ち、主人は弟から借金の保障人になってほしいと頼まれ、引き受けていました。義弟が自己破産しても、保証人を引き受けた借金は私たちが返さなければなりません。こうして、私たち夫婦はマンションのローンに加え、義弟がつくった借金の返済も迫られることになってしまったのです。一家の生活は以前にもまして厳しいものになりました。
子供たちが幼いころから主人が麻雀にお金をつぎ込んできたことから、子供たちの将来を考えて長年、フルタイムで働いてきた私でしたが、予定外の借金返済には、とても追いつくものではありません。家計が逼迫するなか、正神崇敬会へも思うようにうかがうことができない状況に陥ってしまいました。
▶仕事や家族、あらゆる物事が良い方向に
宗道先生に事情をお話しして、年に一、二回、大きなお祓いのときに出席させていただき、神様に借金の無事返済をはじめ、家族の諸々のことをお願い申し上げました。
苦しい生活がつづきましたが、おかげさまで四年後には借金の全額返済にこぎ着けることができました。これも正神界の神々様のご守護があってのことと、心から感謝申し上げました。
その間、宗道会長は気分転換にと相撲のチケットを送ってくださるなど、なにかと気にとめてくださり、そんな温かいお心づかいに、夫婦共々どれほど励まされたことでしょう。
渦中にあるときは、どうして義弟がつくった借金を返さなければならないのかという悔しさ、腹立たしさがこみ上げてきたこともありました。しかし、今思えばそれも修行だったのでしょう。ありがたいことに、その後、主人はぴたりと麻雀をやらなくなりました。
借金は返し終えても預貯金はゼロ、マンションのローンもまだまだ返済していかなければなりません。そこで主人は定年まで待たず、体が動くうちに自分で商売をはじめたほうがいいと判断して、定年より五年早く勤め先を退職し、事業のための準備をはじめました。
一年間の準備期間を経て、食肉関係の卸売り業者としてスタートしたのは二年あまり前のことでした。まだ日は浅いのですが、正神界の神々様からご守護をいただき、おかげさまでいろいろな物事が順調に運んでいます。
◎藤ヶ谷節子さん(65歳)◎主婦◎会員歴約15年
▶「自分が変われば相手も変わる」―心おきなく拝礼ができるように
正神崇敬会にご縁をいただいたのは今から十五、六年前のことになります。
じつは、私が笹本会長のもとに通わせていただくようになった当初から、主人はそのことをあまり快く思っておりませんでした。と申しますのも、主人は別の新興宗教に入信しており、そちらの団体では他の宗教を一切認めていないという背景がありました。
そのような事情から、正神崇敬会に出かける折には、なにかと主人に非難めいたことを言われ、気兼ねしながら家を空けるのが常で、自宅に神棚をつくり、神様をお祀りすることもできずにおりました。
私としては、むしろ他の宗教を認めないというあり方に疑問を感じておりましたので、主人からとやかく言われると、こちらもそのへんのことをあげつらうようなことをしていた時期もありました。ふり返るとお恥ずかしいかぎりです。
朝夕の拝礼にしても、主人の目を気にしながら遠慮しいしいやるような日々で、正直なところ、途中で信仰を投げ出してしまおうかと思ったことも何度かありました。
それでも、笹本会長のもとに通わせていただき、正神界の神々様のお導きや教えを授けていただくなかで、「自分にも頑固な面がある」「まずは自分が変わらなければ」という大事なことに気づかせていただき、それが支えになりました。こちらのことをとやかく言う主人に対して言い返すのではなく、相手のことも認めよう、受け入れようとする気持ちを持てるぐらいにならなければ―いつのころからか、そんなふうに思えるようになれたのです。
そのような気づきを得てから、主人に対する私の対応も少しずつ変わっていきました。
おかげさまで、それから主人のほうも少しずつ態度が軟化していきました。そしてありがたいことに、数年前には自宅に神棚をつくり、神々様をお祀りして、朝夕の拝礼も心おきなくさせていただけるようになったのです。このごろはむしろ協力的で、正神崇敬会の祭事にも快く送り出してくれるようになりました。
自分が変わらなければならない―私自身のそうした心境の変化が主人にも伝わり、お互いを尊重しあえるような関係をもたらしていただけたのだと、心よりありがたく感謝しているしだいです。
▶仕事を辞めては引きこもっていた甥がすっかり真面目に
もう一つは、実家の甥のことをお話しさせていただきます。
甥は、若いころから就職しては、思うようにいかないことがあると簡単に仕事を辞めてしまい、自宅に引きこもるということをくり返してきました。甥のことは生まれたときから知っていましたし、兄亡きあと、一人で心労を抱えている兄嫁のこともあり、それは気がかりに思っておりました。
そんな兄嫁に声をかけ、二人で笹本会長のもとに相談にうかがったのは三年ほど前のことでした。
神様に霊査のお取次ぎいただきましたところ、甥についているお稲荷様が疲れていらっしゃるとのこと。お稲荷様のお祓い、神気充電と、同時に実家の先祖供養をしていただき、以後、月々の祭事にはなるべく兄嫁と二人で出席させていただくようにしてまいりました。
神様からのお導き、そして笹本会長のご指導のおかげで、甥はすっかり変りました。その後、就職した職場に落ち着き、現在まで休むことなく真面目に働いており、兄嫁も助けていただいたと、本当に喜んでおります。
笹本会長、これからも兄嫁共々、よろしくご指導いただけますようお願い申し上げます。
◎佐伯雅史さん(49歳・仮名)◎邦楽家◎会員歴約17年
▶奇跡の猫サッちゃん―2週間で見えなかった目が見えるように!
平成16年(2004)6月27日。その日、私は日曜日の午後から合同修祓に出席したあと、北柏の駅に向かって一人で歩いていました。夕方の四時過ぎぐらいだったと記憶しています。
途中に畑や竹やぶがあり、そこにさしかかると草むらからカサカサと音が聞こえてきました。思わず足を止めると、目の前に子猫が姿を現わしました。ヨタヨタと頼りない歩き方をする子猫で、よく見ると毛は汚れ、ガリガリに痩せ細り、今にも死にそうなほど弱っているのがわかりました。かわいそうに思って抱き上げてみると、目の淵は赤くグチグチして目ヤニがこびりつき、右側の黒目は青く変色して、まったく見えていない様子でした。
か細い声でミャーミャー鳴いている姿は本当に哀れで、なんとかしてやりたいと思うものの、すでにわが家には犬やフクロウ、フェレットをはじめ、餌付けした野良猫数匹の面倒を見ており、犬を室内で飼っていることもあって、家のなかで猫を介護してやることはむずかしかったのです。考えたあげく、その猫には本当に申し訳ないけれど、自分は面倒を見てやれないからと言いきかせ、心を鬼にして草むらのなかに放しました。
私が立ち去ろうとすると、子猫はミャーミャー鳴き声をあげて必死で後を追ってきました。本当に困りました。
考えあぐねた末、こうなったら笹本先生のところへ戻って事情を話し、自分の家では飼えないので、どうか面倒を見てやってくださいとお願いするしかない、そう心に決め、子猫を抱き上げると今来た道を引き返しました。
事情をお話しすると、動物好きの笹本先生も、さすがに少しばかり困惑されているご様子でした。というのも、すでに先生のところでは十数匹もの野良猫の面倒をみておられたからです。先生は迷い猫や瀕死の猫を連れて帰っては面倒を見、猫の他にも野良犬、地元の沼に捨てられていたアヒルや烏骨鶏といった生き物たちが共同生活を送っているのです。
そこへ主任さん(94ページに登場している水島主任)が出てこられ、私は主任さんにも事情を説明して子猫のことをお願いしました。
「ご縁ですから、わかりました。佐伯さんと出会って、この子は運がいい子ですね」
先生はそうおっしゃってくださり、なんとか正神崇敬会で子猫を飼っていただけることになりました。
それからの経緯はまさに奇跡としか言いようがありません。
二週間後、ふたたび合同修祓にうかがった際、先の子猫と対面したときの驚きといったらありません。同じ子猫とは思えないほどの変貌ぶりだったからです。
子猫はサッちゃんという名前をつけてもらっていました。私が連れてきた子猫ということで、佐伯の『さ』をとってそう名づけていただいたそうです。
あの翌日、主任さんがサッちゃんを近くの動物病院に連れていったところ、猫ウイルス性鼻炎にかかっていて、やはり右目はまったく見えていない状態だったそうです。中が腐っているので眼球を摘出することになるかもしれない、おそらくそう長くは生きられないでしょう、そう獣医師から伝えられたとも聞きました。
サッちゃんがやってきてからというもの、笹本先生と主任さんとで朝、昼、晩と何種類もの目薬を点眼してやり、いろいろな食事を与えていたようです。
笹本先生は神様に対して、ご自身の願い事をお取次ぎになるわけにはいかないということで、主任さんが7月7日の七夕祭の折に、「サッちゃんの健康をよろしくお願いします」「サッちゃんの目が見えるようになりますように」という祈願お祓いを申し出、それを受けるかたちで神様にお願いされたそうです。
神様にお祓いいただいてわずか二週間のあいだにサッちゃんは目が見えるようになり、あれほど痩せ細っていた体はふっくらとしていました。ここまで早い回復ぶりに一番驚いたのは、おそらく二週間前の状態を知っている私だったと思います。
サッちゃんが正神崇敬会にやってきてから一ヶ月後の7月25日。ふたたび顔を合わせたときには、サッちゃんはますますふっくらとして、もう、どこから見てもふつうの猫にしか見えませんでした。奇跡とはこういうことを言うのだろうと、ただただ、驚きと感動をもってサッちゃんを見守るばかりでした。
▶神様にご浄化いただき、きれいな顔でいい世界に旅立っていった母
私の母が亡くなったのは平成12年(2000)1月のことでした。脳梗塞で倒れてから二年ほど寝たきりの状態がつづき、結局、呼吸不全というかたちで息を引き取りました。
正月明けということで葬祭場や火葬場が込み合い、お通夜と告別式まで数日間のあいだが開くことになりました。
母の旅立ちに際して、できるだけいい状態であちらの世界に行けるようにしてあげたいと思い、供養の気持ちを込めて笹本先生に集中浄化をお願いし、亡くなった翌日から告別式の日まで、毎日、お祓い浄霊をしていただきました。
お通夜の日、棺の中で眠りについている母の顔を見たときには本当に驚きました。肌がピンク色に輝いて、まるで生きているように見えたからです。家内もこれには驚き、あらためてお祓いの力に感じ入ったしだいです。さらに、遺影が飾られている祭壇のあたりはもちろん、会場全体にパーッと明るい空気が流れていたことにも感動を覚えました。
笹本先生から、母はすでにいい世界に行っていると教えていただき、母もさぞ喜んでいることだろうと思いました。
魂は肉体を離れたあと、あちらの世界に入っていきますが、この世に気がかりなことや、なんらかの思い(感情・意識)が残っていると、あの世でいい周波数を発している世界に行くことはできません。そこで母が安定したいい状態でこの世を旅立ち、あちらでもより高い世界へ行けるように魂を浄めていただき、よりよい波動の世界に押し上げていただいたのです。おかげまで、母は本当にきれいな表情でいい世界に旅立つことができました。
私自身もお祓いによって浄めていただき、ご神気(パワー)をいただくことで、演奏活動や創作面でも幅を広げさせていただいております。公私共に、いいかたちで幸せをいただけましたのも、神々様、そして笹本先生のおかげと感謝しております。
◎二宮健二さん(38歳)◎メーカー勤務◎会員歴約20年
▶ギリギリで始めた受験勉強が実り、見事大学に合格
正神崇敬会との出会いは、当時、高校三年生だった私のことで、母(164ページ)に登場している二宮明美さん)がお知り合いの方から先代の宗園先生をご紹介していただき、相談にうかがったことがきっかけでした。
勉強は嫌いなほうではなく、高校二年生まではごくふつうに勉強に取り組んできた私でしたが、不思議なことに三年生に進級した春から、急に勉強に対する意欲がなくなり、机の前に座っていられない状態に陥ってしまったのです。
母が宗園先生に鑑ていただいてわかったのは、私にとって四代前の祖母にあたる人の霊が成仏しておらず、その影響が私にも出ているとうことでした
神様のご守護をいただき、なんとか高校の授業にだけは通うことができましたが、模擬試験すら受ける気がしない、やる気のない状態は相変わらずつづきました。
それから時が流れ、12月に入ったある日のこと、ある瞬間を境にいきなり勉強する気が湧いてきたのです。まさにそのころ、四代前の祖母の霊が成仏して霊界へ旅立たれたことを、後日、母から知らされました。このような状態の変化に自分でもただただ驚くばかりでした。
1月にある国立大学の一次試験まであますところ一ヶ月というところでしたが、宗園先生に合格祈願のお祓いをお願いし、そこから集中的に勉強に取り組みました。
国立大学二校、私立大学五校を受験して、おかげさまでいくつかの大学に合格させていただくことができました
二年生まで勉強してきた蓄積もあったとは思いますが、ブランクがブランクです。ふり返ると、それ以前に勉強で得ていた昔の知識なども活用させていただき、このような結果をいただくことができたと、神様のご守護に深く感謝したしだいです。この貴重な経験以来、私は神様に強く心を向けるようになりました。
▶海で溺れかけたところを神様に救っていただく
大学二年生の夏休みのこと。千葉県の親元に帰っていた私は、友人と三人で鴨川の海水浴場に出かけようという話になり、前日の晩からドライブがてら車で出かけました。お盆明けの8月16日だったと記憶しています。
仮眠をとり、朝、目が覚めてから、ちょっとひと泳ぎしようかという話になりました。朝の八時ごろだったと思います。友人の一人はカナヅチだったため、もう一人の友人と私とで、それぞれ大きな浮き輪を持って海に入りました。沖のほうにブイが見えたので、私たち二人は、そのブイを目指して泳ごうということになりました。それほど波はなく、浮き輪につかまりながら、私たちは順調にブイのところまで泳ぎ着きました。
ブイにタッチして浜辺に引き返そうと泳ぎ出したところ、突然、後方からかなり大きな波を被りました。その勢いで浮き輪が飛ばされ、海中に沈んだ体は、水流にもてあそばれる木の葉のようにグルグルと何回転もしたことを覚えています。
私たちはやっとのことで海面に顔を出すと、とにかく足がつくところまで戻ろうと必死で泳ぎました。しかし、泳いでは波にさらわれて海中に沈み、海水を飲むという苦しい思いをしました。そんなことがくり返されると、友人も目つきが朦朧としてきました。
浜辺では、もう一人の友人が焦っている様子が目に入り、そうこうしているうちに、黄色いジャケットを着たライフ・セーバーが遠くのほうから走って来る様子が見えました。じきにライフ・セーバーの方が浮き輪を持って私たちのところまで泳ぎ着き、船が来るまで待っているようにと声をかけてくれました。その後、二人とも到着した船に引き上げていただき、事無きを得たのでした。
この一件で私は海の怖さ、自然の威力というものを、身をもって知ることになりました。
後日、母が宗道先生にこの一件についてお話しし、神様にお取次ぎいただいたところ、母のご守護神様が、竜神界の建速素盞鳴大御神様に働きかけてくださり、溺れかけている私たちの姿が監視員の目にとまるようにとご守護くださったことがわかりました。
私たちはこうして、神様に命を救っていただいたのです。母からこの話を聞かされたときは、あまりのありがたさに言葉を失いました。
▶希望する部署への転部が実現
社会人になってからは私自身、仕事の面でのご相談など、頻繁に宗道先生のもとに通わせていただくようになりました。
平成3年(1991)の春、大学卒業と同時にある精密機器メーカーに就職いたしましたが、自身の希望とは裏腹に、配属されたのは電気系の仕事を担当する部署でした。大学で電気系の分野を専攻したもののなじめず、将来は環境問題に貢献できる化学の分野を仕事にしたいという希望がありました。大学での専攻ですから、いたしかたないと言えばそれまでですが、配属先を知った瞬間、頭が真っ白になったことを覚えています。
実際に配属されてからも、好きになれない気持ちが先に立ち、仕事に対して興味を持てずにおりました。宗道先生にご相談させていただくと、「せっかく就かせていただいた仕事ですから、三年間は頑張ってやってみましょう」と背中を押してくださり、仕事に対する心構えについてもなにかとご指導くださいました。
仕事の内容については本意ではありませんでしたが、おかげさまで上司や先輩に恵まれ、いい環境のなかで仕事に取り組ませていただくことができました。
それでも、化学系の仕事に就きたいという思いは変わらず、入社から一年後、上司に退職の話を持ち出したこともありました。ふり返ると本当に失礼なことをしたと思いますが、上司はそんな私を諭してくださり、開発中の仕事を終えるまでは頑張るようにと、励ましの言葉をかけてくださったのでした。
入社から三年たち、担当してきた開発の仕事が終了したところで一度は転職を考え、一社ではありますが別の企業をまわったこともありました。バブルがはじけた時期でもあり、その分野の専門知識や経験もない者を採用する余裕などあるはずもありません。簡単にはねられました。退職の意思を上司に伝えたうえで進めた転職活動でしたが、結局、上司のご配慮に甘え、引き続き同じ職場で働かせていただくことになりました。
その後、私はバイオテクノロジーの分野の仕事に就きたいという希望を抱くようになり、その夢を念頭に置いて仕事をするようになりました。そのころには職場の上司も、私には電気の仕事は向いていないということを見抜いておられ、生ゴミ処理機の開発というバイオ分野の知識を活用する仕事を担当してはどうかと、声をかけてくださいました。
こうして新しい仕事を担当させていただくようになると、バイオテクノロジー分野の開発を専門にしている部署で管理職をつとめている方と知り合う機会にも恵まれました。
とはいえ社内で職種を変えるというハードルは高く、ただ「やってみたい」「頑張りたい」というだけで移れるほど簡単なものではありません。やりたい仕事に就くためには、もっとアピールできることがないとむずかしいと考えた私は、夜間の大学に入学して生物系の分野の勉強をすることを決意しました。
大学三年を修了し、四年生になったところで、先のバイオテクノロジー分野の管理職の方が認めてくださり、私の所属部署の上司に働きかけてくださいました。上司も私の転部を承諾してくださり、私は晴れて希望分野の仕事に就かせていただくことになったのです。
退職を思いとどまらせてくれ、他社をはねられた際には、私をふたたび迎え入れてくださった温かい上司、希望する分野の管理職との出会い、希望部署への転部など、一連のありがたいめぐり合わせをいただけたのも、神様のおかげにほかなりません。
◎山本つる代さん(72歳)◎元高校教師◎会員歴20年
▶夫の病気平癒を願って引いたおみくじで九本つづけて凶が
私が正神崇敬会にご縁をいただいたのは今から二十年前、昭和62年(1987)のことでした。
前年、ガンのため胃の全摘出手術を受けていた主人ですが、主治医から、今後、どこかにガンの転移が見つかった場合には命は助からないと伝えられておりました。そんな主人に大腸へのガンの転移が見つかったのは、翌62年、6月のことでした。
覚悟はしていたものの、やはりなんとかして助けたいという気持ちがありました。
当時、住まいの近くにあった法多山・尊永寺(静岡県袋井市)でお百度参りをさせていただたこともありました。そちらのご本尊は厄除け観音としても知られており、主人が病に倒れるまでの一年半、事務長としておつとめさせていただいたお寺さんでもありました。
ところが、お百度参りのあと引いたおみくじで、凶という結果をいただいたのです。そのまま帰る気持ちになれず、もう一度、もう一度、とお参りをくり返すたびに結果は凶。結局、九本つづけて凶を引き、しかも、そのうちの三本は大凶でした。もう一度お参りをしておみくじを引いたところ、十本目にしてようやく末吉がでました。私はそこでお参りを終わらせ、以後、おみくじは一切引かないと心に決めました。この一件で、主人はいかなる手を尽くしても亡くなる運命にある、私はそう悟ったのです。
▶「ご主人様はもう神様の雲の上に乗って、自在に動いておられますよ」
最終的に、肺にまでガンが転移していた主人は痛み止めが効かないような状態で、なくなる直前まで苦しんだ末、あの世に旅立ちました。昭和62年、10月のことでした。
そんな主人の成仏を願い、供養を考えた私は、四十九日の法要を終えたあと、正神崇敬会に宗道先生をお訪ねしました。
神様へのお取次ぎを終え、こちらを振り向かれた宗道先生の目には涙が一杯溜っていました。それから先生は、私に向かって深々と礼をなさると、
「怖れ入りました。ご主人様の魂はすでに非常に霊格の高いところへ、仏様になって上がっていらっしゃいました」とおっしゃられたのです。
当時の私にはわかりかねましたのでご説明いただいたところ、仏様(神様)の世界には十の段階があるとのこと。はじめて幽界から霊界へ上がると、大方の魂は下から三番目ぐらいのところに行くのだそうです。主人は生前、あれだけ苦しんだにもかかわらず、自らの力で上から三番目という高いところにその魂が上がっている、つまり自力成仏していたのでした。そのようなお話を聞いて、どれほど救われた心地がしたことでしょう。
それから何年かたって、宗道先生から、
「山本さん、ご主人様はもう神様の雲の上に乗って、一瞬のうちに自在に動いておられますよ」
とお聞かせいただいたことがありました。あのときは、夫の修行も成ったのだと思うと、私のお役目も一つ終った様な思いがいたしました。
主人が亡くなって二十年。その間、毎朝、神棚に向かって祝詞をあげ、仏壇に向かってお経をあげて、日々の供養を欠かさないようにしてまいりました。神仏に祈ることは私にとって生活の一部。これからもご先祖様や亡くなった主人への供養をつづけ、また、私自身が仏になるための修行を積んでいきたいと願っております。
▶徴を受けとめ、くも膜下出血から奇跡的に生還
その後、私自身、何度か命にかかわる大きな病気に見舞われ、そのたびに神様にお祓い浄霊と神気充電のご守護をいただいて今日までやってまいりました。
長年つとめてきた教職を辞し、新しい家に移って作法の教室をはじめたのは平成5年(1993)の夏のこと。おかげさまで教室はにぎわい、私は充実した毎日を送っておりました。そんな私がくも膜下出血に倒れたのは、翌年(平成6年)の7月上旬のことでした。
その日、親戚の法事に参列した私は、夕方帰宅すると、同居していた母と食事を済ませ、いつものように先にお風呂に入った母が床についてから、自身もお風呂に入りました。
法事で少々人に酔った私は、一日の疲れを癒すようにゆったりと湯船に体を沈めました。しばらくそうしていると、ふと、左側の後頭部をなにかがスーッと流れ落ちていくような感覚を覚えました。まるで、パーマ液が頭皮の表面を伝っていくかのような感じでした。
天井から湯気がぽたりと落ちてきたのかと思って見上げましたが、湯気は溜っていません。もう一度、後頭部に手をやってみたものの、やはり濡れていません。
湯船から出てイスに腰掛け、もう一度確かめようと後頭部に手をやると、また何かがスルスルと流れ落ちていく感触がしました。「頭の中だ!」ハッとして風呂場から飛び出すと急いでパジャマを着て、一目散に電話に向かいました。
119番すると、受話器の向こうの相手は「具合が悪いのはどなたですか?」と尋ねてきました。「私です」と答えると、「あなたですか?」と、先方はいぶかしげに聞き返してきます。救急車を呼ばなければならないほどの急病人が、自分で平然と電話をかけてこられるはずがない―立場が逆であれば信用されなくても無理のない話でしょう。とはいえ、「どこがどう痛みますか」「頭のどんな病気だと思いますか」などと矢継ぎ早に質問されては「ウソじゃありません」などとやりとりをくり返しているうちに、こちらもだんだん腹立たしくなってきました。
すると急に胸がムカムカしだし、胃袋に不快感が込み上げてきました。耐えられなくなった私はそのことを先方に伝え、電話を切ると洗面所に走りました。胃のなかのものがすべて出てしまうと、今度は後頭部がハンマーで叩かれているかのように激しく痛みはじめました。間もなく電話が鳴り、受話器をとると消防署からの電話でした。その後の状況を説明すると、一転、先方はただちにこちらに向かうことになりました。
私は母を起こすと、これから救急車で病院に行くと伝え、健康保険証や現金、タオル、筆記用具などを揃えて玄関先で救急車の到着を待ちました。
遠くからサイレンの音が聞こえてきます。ふと、手術を受けるには保証人が必要なことを思い出し、市内に住む兄の家に電話を入れ、電話口にでた兄嫁に事情を話して来てもらえるように頼んだのでした。すでに時計の針は十二時半をまわっていました。
救急車に乗り込み、寝台に横になると、救急車はサイレンを鳴らして発進しました。車体の揺れに気分が悪くなり、寝台の横についている手すりにつかまって起き上がったところまでは覚えているのですが、そのあとのことはまったく記憶がありません。
私が運び込まれた病院に兄夫婦が到着すると、すでに脳外科の先生方が集まって手術の準備が整えられており、くも膜下出血のための緊急手術の必要がある旨を伝えられたといいます。兄は承諾書にサインし、ただちに手術が行なわれました。
私が集中治療室で意識を取り戻したのは、それからまる二日後のことでした。
医師の診断は大・中脳動脈破裂。大動脈と中動脈の境目のところに小豆粒ぐらいのコブがあり、それが破裂したのでした。
右の手指に軽い後遺症は残ったものの、幸い、脳の機能には大きな影響はなく済みました。くも膜下出血のような病気は時間の勝負と言われますが、後日、なにかと段取りよく進んだことが幸いしたという話を聞かされました。
それにしてもあの晩、お風呂に入っているとき、後頭部に感じた液体が地肌を伝わるような感覚はなんだったのでしょう。担当の医師に尋ねたところ、そのようなことは医学的には考えられないという答えが返ってきました。
理屈では説明できない不思議な力、人智を超えた存在が「早く病院に行きなさい」と報せてくれ、その徴(しるし)を私がキャッチしたのかもしれません。あのとき、不思議な感覚を「気のせい」で済ませ、いつものように床についていたら、私はそのまま布団の中で亡くなっていたかもしれません。
じつは、この一件で緊急入院した際に受けた検査で、右側の同じ場所にもコブがあることがわかり、一ヶ月後に予備手術として、再度、血管のコブをとり除く手術を受けました。
手術に際し、私は長年交流してきた教え子のKさんに連絡をとり、正神崇敬会へ出向いて手術が無事に終るように宗道先生にお祓いをお願いしたい旨、伝えてもらいました。
おかげさまで手術は成功しました。
はじめの緊急手術のときに担当の医師から私の救命を優先して荒い手術をせざるを得なかったために、術後に後遺症が残ることを告げられました。ところが、それも正神界の神々様の神癒のお祓いのおかげで後遺症は残らず完治してしまい、医師に不思議がられました。
▶知らず知らずのうちに消えていた子宮筋腫
これは、はっきりとは思い出せないのですが、おそらく、くも膜下出血で倒れる前のことではなかったかと思います。
その日、私はあるご相談事のため正神崇敬会に宗道先生をお訪ねしていました。先生は霊査を終えられると、私がお尋ねしたことへのお答えとは別に、「卵巣にガンができているかも。三回のお祓いを受けるように」とのご神示があったことをお話しくださったのです。
これといって自覚症状があるわけでもなく、正直、あまりピンと来なかったのですが、ガンは主人で懲りています。ともかくお祓いしていただくことにしました。
その後何年かたって、介護が必要となった母の世話をしていて腰を傷めてしまい、整形外科を受診しました。医師から、腰全体のレントゲン写真をみながら説明を受けていたときのこと。写真に十円玉くらいの大きさの、花火がパッと開いたような不思議な丸いものが二つあり、映りこんでいるのが目にとまりました。一つは骨盤の真ん中あたり、もう一つは右側にありました。思わず、それはなにかと先生にお尋ねしたところ、真ん中のものは子宮筋腫、右側のものは卵巣膿腫かなにかのあとだろうという説明が返ってきました。
いつか宗道先生がおっしゃった「卵巣にガンがありますから……」というご神示はこのことだったのだと、思わぬところで証拠を見せられ、本当にびっくりしました。「大難を小難に、小難はよけてとおる」とは、まさにこういうことを言うのでしょう。
正神界の神々様、本当にありがとうございました。
それにしても、神様のおかげというものは、目に見えないと納得できず、凡人にはなかなか理解がむずかしいものです。私自身、このごろはこう思うようにしています。「今日一日、無事ですごせたことが神様のおかげなのだ」と。
◎二宮明美さん(64歳)◎主婦◎会員歴21年
▶神々様からの大きなプレゼント
私が正神崇敬会にご縁をいただいたのは、主人の勤めの関係で千葉県に在住していた昭和61年(1986)の春のことでした。当時、大学受験を控えた次男(150ページに登場している二宮健二さん)のことで心配を抱えていた私に、たまたま向かいの社宅にお住まいだった奥様が正神崇敬会にご縁があり、先代の宗園先生をご紹介くださったのです。おかげさまで次男も無事、大学に入学。すでに大学に進学していた長男につづき、次男も家を離れて生活を送るようになりました。
こうして次男のことでお世話になって以来、正神崇敬会に参拝させていただくようになり、宗園先生、そして笹本(宗道)会長にはなにかとご指導いただいてまいりました。
わが家では、ご先祖様のお位牌を中央に、その左右に祖父と父、それぞれのお位牌を仏壇にお祀りしておりましたが、親族が亡くなって三十年が過ぎたら、ご先祖様のお位牌に一本化するものだということを、以前どこかで聞いたことがありました。
この件について笹本会長にご相談し、後日、祖父と父のお位牌を正神崇敬会に持参。正神界の高次元の神々様にお取次ぎいただき、祖父と父の魂を神界に上げていただくことができたのでした。昭和63年(1988)のことで、そのとき会長は、「よかったですね。これからは大きなご守護が分かるようにいただけますよ」と言葉をかけてくださいました。
後日、参拝の折には祖父と父の神名をいただき、朝拝、夕拝のとき、正神界の神々様のお名前のあとに祖父と父の神名を唱えるようにとおっしゃっていただき、その日から、拝礼の際には必ずお唱えするようにいたしました。
それから間もなく主人の勤務先の意向で、若い世代の社員に社宅の利用を希望する人が増えているため、五十歳以上の社員は順次、社宅を出るようにとの報せが届きました。
息子たちや主人の母への仕送り、大阪郊外に購入した土地のローン返済など、なにかとお金がかかる時期でもあり、私たち夫婦はどうしたものかと途方にくれました。主人の上司が家を建てる際にお金が必要となり、当時、100万円で譲り受けたゴルフの会員券があるぐらいで、金銭的な余裕はまったくありません。
そんな折、ゴルフ場から、会員券を買い取りたい旨が記された一枚の葉書がわが家に舞いこみました。そのままにしておいたところ、先方は再々金額を上げてくるようになり、当初の十九倍もの値段を示されたとき、主人がこの辺で売却しようと言い出しました。
わが家が建てられるかどうかの瀬戸際です。ご無礼なこととは承知のうえで笹本会長にご相談し、今、売ったほうがいいものかどうかを神様にお尋ねいただきました。その折に、「今は売るべきではない」「もう少し待っておくように」、との霊査お示しをいただきました。
その後、葉書が送られてくるたびに金額は跳ね上がり、ついには家を一軒建てられるほどの額が提示されました。主人は、これ以上欲を出してはいけないと判断、笹本会長を通じて神様にお尋ねしました。すると、「すぐに売りなさい」という霊査お示しをいただき、主人は早々に手続きをとりました。幸い、買い手はすぐに決まり、売買が成立いたしました。ゴルフ会員権が下落しはじめたのは、それからわずか一ヶ月後のことでした。
私どもは購入していた大阪郊外の土地に家を建てることに決め、平成3年(1991)3月末に竣工。おかげさまで、その一年後には主人の大阪勤務という希望がかない、私たち夫婦は海や山に囲まれた、岬公園という風光明媚な地に移り住むことができたのでした。
こうして私たちは、奇跡とも思える大きな、大きなプレゼントを授かったのです。
祖父と父の魂を神界に上げていただき、また子孫をお守りくださる正神界の高次元の神々様の大きなお力に心から感謝いたしております。
▶父の幻覚症状が1回のお祓いで消え、今も元気に
平成16年(2004)12月のこと。実家の父(当時93歳)が、ズボン下と靴下を同時に脱ごうとして腰からドスンと尻もちをつき、背骨にヒビが入って五日ほど前から入院しているという連絡が入りました。
さっそく妹たちがお見舞いに行ったところ主治医に呼ばれ、父は危ない状態にあることを告げられ、親族に連絡を入れて会わせてあげたほうがよいと勧められたのです。
翌日、私たち夫婦も妹夫婦と合流して父のお見舞いに行きました。
父は幻覚症状が出ており、その夜からだんだんひどくなっていきました。まる二日間、一睡もせずにしゃべりつづけ、罵声を浴びせ、点滴のチューブをはずしてしまうなど看護師さんも手を焼いているとのこと。病院から付き添いを要請する連絡が入りました。
さっそく宗道会長に電話で父の状況をお話しして遠隔のお祓い浄霊をお願い申し上げ、それから、父に付き添うため病院に出かけました。
私が病室に顔を出すと、父の様子はすっかり変わっていました。「明美が来てくれてほっとした」、そう穏やかに話しかけてきたのです。父は正神界の神々様から、病院で受けてしまった邪霊の浄化、体のご守護、奥の浄め、神気充電の心霊治療をたまわったのでした。
おかげさまで点滴のチューブを抜くようなこともなくなり、夜中に眼を覚ました際にも、私の名前を呼び、返事をすると、「そこにいるんだね。安心したよ」といって、ふたたび眠りにつき、朝までぐっすりと休ませていただくことができました。ひどい幻覚症状から一転、この変わりように、妹たちもそれは驚いておりました。
おかげさまで父は三ヶ月後に退院することができ、二年あまり過ぎた今も、病院や薬の世話になることなく、元気に毎日を送らせていただいております。
正神界の神々様から神癒の大きな大きなお力をいただきまして、本当にありがたく心より感謝申し上げます。これからも、神様に深く、深く心を合わせて善行を積んでまいりたいと思っております。
◎重政弘康さん(70歳)◎元メーカー勤務◎会員歴21年
▶後遺症、大脳硬膜下血腫からの生還
ある日曜日、突然私は意識を失ってしまいました。11月下旬のことでした。
翌朝、家内が大変な思いをして私を慶応病院まで運んでくれたのですが、あいにく病室に空きがなく、系列の東京武蔵野病院(東京都板橋区)に入院することになりました。
病院到着後ただちに検診が行われ、担当医・九十九先生の診断により、大脳硬膜下血腫であることがわかりました。以前起こした交通事故の後遺症が出たという話で、手術は急を要しました。開頭手術には親族の承諾と立会いが必要とのことで、横浜から私の父が呼ばれ、家内共々、九時間もの手術のあいだ、病院に待機してもらうことになりました。
おかげさまで手術は大成功に終わりました。執刀した九十九先生は福山在住の義弟、大塚肇の高校時代の同級生であることは、意識が戻ってから聞かされました。これもなにかのご縁だったのでしょう。
しかし術後一ヶ月、とくに集中治療室に入っていた十日間は連日あの世に呼ばれ、それは苦しい思いをしました。ぼんやりと天井を見ていると、目にとまったシミが何かの模様のように変化していき、別の世界に引きこまれていくのです。山に行ったり、月に行きかけたこともあります。あるときは、三途の川の向こう岸から女の子に呼ばれたこともありました。私は「まだ、やることがあるから行かれない」、そう言って断りました。だからこそ今、こうして生きているのでしょう。集中治療室から一般病室に移ったとき、はじめてこの世に生還したことを自覚できたのでした。
意識を失って緊急手術を受けてからひと月後の年の瀬、ようやく私は退院の日を迎えることができました。入院から手術のあいだの記憶が私にあるはずもなく、すべてはあとから家内に聞かされたことですが、やはりこのときも義母が笹本会長に何回も神様のご加護をいただけるようにお願いしてくれたとのこと。
私はそれまで、神仏といったものには関心がなく、どちらかといえば信じない気持ちのほうが強い人間でしたが、交通事故にはじまった一連の出来事を通じて、じつのたくさんの方々のお世話になり、私たちは神様のご加護のもと、元気をいただいて生かされている存在であることに気づかせてもらったのです。
▶名医との出会い、心カテーテル手術に成功
若いころから健康を過信し、暴飲暴食をくり返してきたためか、四十代後半から血圧が高まり、血圧降下剤を服用するようになったのは平成2年(1990)のことでした。
私たち夫婦は平成15年(2003)に家内の実家がある福山に転居。17年(2005)12月、福山循環器病院で受けた心エコー検査で、血管が詰まっていることがわかりました。コレステロール値が上がり、冠状動脈狭窄が進んでしまったのです。
同月15日に入院し、冠状動脈の狭窄部を広げるため、カテーテルによる手術を受けましたが、ステント(金属の網)を冠状動脈内に留置する処置がうまくいかず、後日、ふたたび手術を受けることになりました。
年が明けて平成16年(2004)2月、ふたたびカテーテルによる手術を受けましたが、やはりステントの処置がうまくいかず、倉敷中央病院への転院を決めました。
同病院には、台湾の元総統、李登輝さんを治療したことで知られる心カテーテル治療の世界的権威、光藤和明先生がおいでになり、同年5月上旬に診察を受け、同月下旬に一度目の手術、6月上旬に二度目の手術を受けました。
手術は二回とも光藤先生の手によって行われ、二回目の手術でステント五本の設置に成功、おかげさまで三日後には退院することができました。
その間、笹本会長に何度かお祓いをお願いし、手術の成功を祈願いたしました。神様のご加護でこうして名医にめぐり合い、手術にも成功することができたのです。
手術後、光藤先生は「重政さん、最後に(貫通したとき)神様の姿を見たよ」とおっしゃり、この手術の経過について論文発表しようと考えているが、どうだろうかというお話をいただきました。もちろん快諾しました。
その後の経過は良好で、苦しかった当時のことを思い出しては、幸せをかみしめている今日このごろです。
正神崇敬会の会員となってからは、祭事の際にはできるだけお参りにうかがうようにつとめてまいりました。また、合同修祓の折にはお願い事を会長に託し、お祓いを受けてまいりましたが、ふり返ると、そのときそのとき問題なく過ごしてこられたのは、神様のおかげあってのこととあらためて気づき、感謝の念にたえません。
何事にも負けない信念、高い心境を持てるように修行をつづけ、ご縁ある方々をはじめ、人様のお役に立てるように、いっそう善行と徳積みを実践してまいりたいと思っております。笹本会長、これからもよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます。
◎石井一光(かずこ)さん(70歳)◎主婦◎会員歴20余年
▶10年近く苦しんできた薬害による全身の痒みからの解放
正神崇敬会にご縁をいただいたのは、かれこれ二十年以上前のことになります。さらに遡ること約二十年。私が三十代に入る前の話ですが、子供が一歳半を過ぎ、お乳が出なくなっても不思議ではないころにさしかかっても、左胸が張ったままの状態がつづきました。
不安を覚えた私は婦人科を受診、細胞検査を受けたところ異常が見つかりました。それはガン細胞とまでは言えないけれど、健康な細胞でもないとのことで、乳腺症、あるいはごく初期の乳ガン。いずれにしてもそれほど急ぐことはないでしょう、というお話を担当の先生からいただきました。
しかし、それまでいたって健康で、病院とは無縁の生活を送ってきた私にとって、乳ガンという言葉はショックでした。ましてや幼い子どもを抱える身でもあり、少しでも危険を減らしたいと考えた私は、早期に手術を受けることを選びました。
手術は無事に成功。以後、経過観察のため、定期的に病院を訪れては検査を受け、点滴を受けたり、処方された薬を飲むという生活を送るようになりました。
私の体に異常が起きたのは、そんな生活が十年ほどつづいたころのことでした。
まるで麻疹のように、頭のてっぺんから手足の先まで湿疹が広がり、激しい痒さのために夜も満足に眠れないような状態に陥ってしまったのです。異常は皮膚にとどまらず、目の玉の裏側からも膿状のものが分泌されるのです。痒さに耐え切れず、体じゅうに掻き壊した跡が広がっているような有様でした。
湿疹が広がった顔で人様の前に出ることは苦痛でしたが、日々の買い物や所用のため、外出しないわけにはいきません。四六時中「痒い」「痒い」と口走る私に、家人もある程度は我慢してくれるのですが、やはりその辛さは本人にしかわかりません。いつまでもむずかる幼子のように痒さを訴えつづける私に、怒り出すこともままありました。
藁にもすがるような思いでいくつかの病院を転々とし、まわりの人たちがいいと言うところには、すべて足を運びました。それでも、状況はいっこうに変わりません。
ある眼科の先生から言われたひと言は、私をハッとさせました。
「これは目が悪いんじゃない、あなたが今まで体にいれてきたものが悪いからだ。ここまでひどくなるほど、あなたはいったい何を摂りつづけてきたんですか」
先生は厳しい口調でこうおっしゃられたのです。私はこのときはじめて乳ガンの手術後、十年もの長きにわたって飲み続けてきた薬が原因なのかもしれないと気づいたのです。ガンの再発を怖れ、病気は医師が治してくれるものと信じ切っていた私は、一心に処方された薬を飲みつづけてきたのです。
以後、薬の服用を控え、食生活を自然食に切り替えたものの、何年も蓄積されてきたものが急に抜けきるはずもありません。痒みは治まるどころか手が腫れ出し、瞬きが止まらないようになりました。そのころお世話になっていた病院でもなす術がなかったのでしょう。最終的に出されたのは、しばらく自宅で休養するように、という指示でした。
失意のまま過ごしていた私に、ある友人が紹介してくれたのが笹本先生でした。
はじめてお会いした笹本先生は、こちらの話を親身になって聞いてくださり、「痒みが治まるようにやってみましょう」とおっしゃってくださいました。
以来、定期的にお訪ねしてはお祓い浄霊をしていただくようになりました。すると、日を追うごとに、あれほど強烈だった痒みがじわじわと取れはじめたのです。しばらくは、少しよくなったと思うと別の所が痒くなるという、行きつ戻りつの状態がつづきました。
そのうちに手先の痒さが取れ、今度は頭皮の痒み、顔、目玉の裏といった感じでしだいに痒さがなくなり、肌の表面を覆っていた湿疹も少しずつ消えていきました。それでも、体調が思わしくないときや、自身の内にあった別の穢れが浄化されて表出するとき、あるいは「もうじき痒みから解放される」という心の緩みがあると、指先の痒みが手の甲まで広がる、足指の痒さがくるぶしのあたりまで上がってくる、といったことはありました。
こうしたことをくり返しながら、薄紙を一枚一枚はがしていくように痒みは取れていきました。そして、ついに全身から湿疹が消えてなくなり、私は痒みから解放されたのです。
あれから二十年あまりの月日がたちましたが、その後、痒みに悩まされることもなく、おかげさまで今日まで健康に過ごさせていただいております。あのとき笹本先生と出会っていなかったら、私は全身の激しい痒さのために心まで蝕まれていたかもしれません。
▶乳ガンを乗り越えた妹が、すっかり明るく元気に
平成13年(2001)の9月には、私の妹の右胸に乳ガンが見つかりました。妹は以前からシコリが気になっていたそうで、検査の結果、ガンは三センチほどの大きさ、リンパ節にも転移していることがわかりました。焦りを感じていたのでしょうか。妹はその日のうちに、検査を受けた病院で入院・手術の予約をとって帰ってきました。
私は早々に笹本先生をお訪ねしてご相談させていただきました。
先生から、いくつかの病院について調べ、検討したほうがよいというアドバイスをいただき、その日は妹の体の守護を祈願して、遠隔のお祓いをお願いしました。
翌日には、妹本人が神様へのお願いと、直のお祓いを受けるため、正神崇敬会におじゃましました。妹が正神崇敬会の鳥居をくぐったのは、この日がはじめてのことでした。
その日、妹は、神様に手術の成功と予後回復のお願いを申し出、笹本先生に集中浄化をお願いしました。結局、妹は三つ目にあたった病院で手術を受けることに決めました。
おかげさまで右乳房と脇の下のリンパ節を取る手術は無事、成功しました。
妹は長年、花屋を営んできました。日に何度も切花にハサミを入れ、花束をつくるといった作業をするのですが、手術で右胸を切ったにもかかわらず、仕事に復帰後は利き腕の右手にまったく影響することなく、諸作業をスムーズにこなすことができました。
手術から六年が過ぎた今も、妹は元気に過ごさせていただいております。
正神崇敬会にご縁ができる以前は、口数も少なく、笑顔を見せることがほとんどなかった妹ですが、神々様のご守護をはじめ、笹本先生の温かいご指導のおかげですっかり明るくなり、店に立ち寄るお客様にも自分から笑顔で話しかけるように変わりました。
生きいきと働き、さまざまな方々と快活に交わるようになった妹の姿を見るにつけ、なんてありがたいことだろうと、感謝の気持ちで一杯になります。
◎日暮佳枝さん(63歳)◎会社員◎会員歴20数年
▶娘のいじめの本当の原因は業因縁にあったと悟らせていただく
私が正神崇敬会にご縁をいただいたのはかれこれ二十数年前のことになります。
当時中学生だった娘がある日を境に学校でいじめの対象になり、精神的に追いつめられてしまったことから、先代の宗園先生のもとにご相談にうかがったのです。
娘はもともと明るい性格で、それまではお友だちにも恵まれておりました。親の立場から見れば、いじめられるような原因をつくったとは思えなかったのですが、担任の先生までいじめる生徒の側にまわっている、といった話しを聞き、なんとかこの問題を解決して、元の明るい娘に戻ってほしいという一心でお訪ねしたのでした。
宗園先生は人間社会、現世のことばかりでなく、娘の過去生での業因縁、また穢れた稲荷がついていることでそのようなめぐり合わせになっていることをお話くださいました。
さまざまなものをお祓い浄霊と浄化いただいたおかげで、娘は以前の明るさを取り戻し、ふたたび元気に学校生活を送らせていただくようになりました。
当初、いじめた側の子供たちに腹立たしさを覚えたものですが、宗園先生と出会ったことで、そうではない、本人が持っている業因縁の仕業なのだということを悟りました。
以来、今日まで、親子共々、神様のもとに通わせていただいております。
▶夫亡きあとに残された莫大な賃貸アパートのローンを無事完済
私たち夫婦が老後のことを考え、賃貸アパートを建てたのは平成4年(1992)のことでした。ところが、それからわずか二年後に、主人は他界してしまいました。
私には莫大な借金が残されました。
主人が健在で、定年まで勤めていれば、日常の生活にも困ることはなかったでしょう。年老いた義母を抱え、先のことを考えると途方に暮れるばかりでした。
長引く不況下でのアパート経営は決して甘いものではありません。全室、入居してくださる方があればローンの返済も順調にいくはずでしたが、必ずしもそうなるとはかぎりません。実際、同じころに建てられた近隣の賃貸アパートでは空きが目立つところが少なくありませんでした。借金は私の力ではとても返せる額ではありません。あるいはアパートを手放さなければならなくなるかもしれない、そんな思いが頭をよぎることもありました。
しかし、そんな私の不安は、やがて神様への感謝の気持ちへと変わっていきました。神様は見えないところで、それは大きなご守護、お導きをくださったのです。
私どものアパートでは入居された方が何年もつづけていてくださり、引越して空きができると、あいだを空けずに新しい入居者が決まるといっためぐり合わせをいただきました。なかにはトラブルを起こした店子さんもありましたが、その折には、宗道先生からアドバイスをいただくと共に、魔のお祓いをいただき、円満に解決することができました。
こうしてその都度、篤いご守護をいただき、おかげさまで平成18年(2006)の8月を最後に、ローンを完済することができました。主人亡きあと、十二年後のことでした。
これも正神崇敬会にご縁をいただけたおかげと、心から感謝する毎日でございます。
▶義母の暴言やわがままも素直に受け止められる自分に
主人が亡くなってから五年ほどのあいだは、不慣れなアパート経営に心を砕きながら、義母の介護をさせていただいておりました。義母は、それは働き者で心が広く、長年、勤めに出ていた嫁の私にもなにかと協力してくれるような、それはいいお姑さんでした。
ところが、主人が亡くなってからは、気に入らないことがあると私に罵声を浴びせたり、わがまま放題を言うなど、ガラリと様子が変わってしまったのです。おそらく息子が他界してしまったために、八つ当たりの対象が私しかいなくなってしまったからでしょう。
人間感情でしたら、私もそんな義母に対してギスギスした態度をとっていたことでしょう。幸いにも、私には宗道先生の教えがありました。
「これも神様が私に与えてくださった試練。修行のうちなのだから、一つひとつを乗り越えて、お世話をしていけばいい」
そう思って胸をなでおろすと、義母の暴言やわがままな言動も素直に受け入れることができたのです。義母には他にも子供たちがおりましたが、私が一番身近にいて、心が通じ合っているからこそ私に甘えてくれているんだ、暴言を吐くことで一時だけでも心のやすらぎを得ているのかもしれない、そんなふうに思えるようになれたのです。これは私の役目、通るべき試練―そう思うと、義母に対して優しい気持ちになれました。こうして、介護に悔いを残すことなく、最後まで義母のお世話をして見送ることができたのです。
このような心境になれたのも、神様のもとに運ばせていただき、いろいろな教えを授けていただいたからこそのもの。
今、自分がこうして暮らしていられるのは、正神にご縁をいただけたこと、そしてご先祖様や義母の力が大きいと、感謝の気持ちで一杯になるのです。
◎山瀬真奈美さん(42歳・仮名)◎主婦◎会員歴20数年
▶因縁、霊障による偏頭痛から解放され、薬が不要に
私がはじめて正神崇敬会の鳥居をくぐったのは高校生時代のことでした。
病弱で薬を手放せなかった母が、先代の宗園先生にご縁をいただいてなにかとお世話になっており、母に連れられておじゃましたのが最初でした。おかげさまでその母もすっかり健康を取り戻し、今日まで、神様からいくつものご守護をいただいてまいりました。
私もかつては偏頭痛持ちで、とくに就職してから症状の悪化に苦しんでいました。頭痛で夜中に目が覚め吐気を催したり、職場に向かう通勤電車のなかで気分が悪くなり、やむをえず引き返したこともありました。病院で精密検査を受けても異常は見られず、対処療法として鎮痛剤や筋肉弛緩剤が処方され、薬に頼るような生活をつづけていました。
通勤途中で吐気を催すような激しい頭痛に見舞われるうちに、「また具合が悪くなったら…」という不安が頭から離れなくなり、しだいに外出することが怖くなりました。そのうちに電話に出ることさえ苦痛になり、最終的に、退職に追い込まれてしまいました。
宗道会長の霊査により、自分が持っている因縁や、霊の障りが頭痛の原因になっていたことがわかりました。しばしば通勤途中で具合が悪くなったのも、人中で、誰かに憑いているよからぬ霊の憑依を受けたために引き起こされていたのです。
お祓い浄霊によってさまざまなものを浄めていただくと同時に、会長は心の持ち方についてもご指導くださいました。こうして、少しずつありがたい変化をいただき、おかげさまで半年ほどの充電期間をへて、新しい職場への就職が決まりました。
その後も時どき偏頭痛は起こりましたが、鎮痛剤を飲むことで十分対応できるようになり、仕事を休むことはなくなりました。しかしその後、主人と知り合って結婚し、妊娠がわかってからは、薬が飲めなくなりました。
会長からは日頃から体を温め、なるべく冷やさないように、というご指導をいただき、足を生姜湯で温めたり、冷たい食べ物は控える、自然食に切り替えるといった工夫をすることで、頭痛が起きても薬なしで対処できるようになりました。
その後、二人目の子供を授かり、今、子供たちは七歳と三歳になっていますが、おかげさまで上の子の妊娠中に薬をやめて以来、現在まで鎮痛剤はまったく飲まずに過ごさせていただいています。
今も時どき頭痛はありますが、大元にあった因縁はお祓いできれいにしていただきましたので、かつてのように急激に気分が悪くなるようなことはなく、体を温めて滞りをなくすといった方法で十分対処できるようになりました。
▶夫の家系因縁による足の腫れがすっかり治まる
今から四、五年前のこと。主人の左足が赤紫色に変色してパンパンに腫れあがり、歩けないほどの痛みや、高熱に襲われたことがありました。
だいぶ前から異変が起きていたようなのですが、主人は何も言わず、ある日、「熱があるから病院に行く」と言われて、はじめて大変な状態になっていることを知ったのでした。
はじめのうちは足首から先の部分だけだった変色はしだいに上のほうまで広がり、膝から下全体が赤紫色になってしまいました。
しばらくは、足を引きずるようにして仕事に出かけていた主人ですが、四十度近い熱が一週間もつづき、その間は会社を休まざるを得ませんでした。
受診した病院では、足の炎症が原因で熱が出たのではないかと言われたそうですが、転んでどこかに傷ができたわけでも、打撲したわけでもなく、どうしてそこまでひどく脹れ上がるのか見当もつきませんでした。
主人もいよいよ病院ではどうにもならないと思ったのでしょう。自分から、笹本会長に電話を入れてほしいと私に伝えてきました。
早々にお電話で主人の状態をお話しし、遠隔でお祓いをお願いしました。
その後、私が会長のもとに出向いてお祓いをしていただきましたが、腫れはなかなか引きません。本人が直接うかがうのが一番だと思っていた私は、主人にそのように勧め、付き添って正神崇敬会に会長をお訪ねしました。
神様に霊査のお取次ぎいただいたところ、主人の家系の因縁がかなりかかっていることがわかり、三ヶ月の集中浄化をお願い申し上げました。
はじめのうちは足がパンパンで靴もはけないような状態がつづき、主人はサンダルをはいて通勤しました。二週間もすると痛みはかなりやわらぎ、一ヶ月を過ぎるころには、なんとか靴がはけるようになりました。そして、集中浄化を終えた三ヶ月後にはすっかり痛みがとれ、見た目にも赤みが引いてきれいになりました。
主人の家系はそれまで先祖供養といった事柄にはほとんど関心がなく、足の腫れを通して、供養の大切さに気づかせていただいたのです。おかげさまでそれ以来、足が腫れるようなことはなく、健康に過ごさせていただいております。
◎山本由布子さん(63歳・仮名)◎主婦◎会員歴20数年
▶息子が難関と言われる職場の昇進試験に見事合格
私が正神崇敬会にご縁をいただいてから、かれこれ二十数年になります。
はじめて書店で先代の宗園先生のご著書を拝見した折、「この先生なら」とピンと来るものを感じ、その後、息子の大学受験の合格祈願のお願いにあがったことを機縁に、なにかとご指導いただくようになりました。
おかげさまで、その息子も現在は四十代。平成18年(2006)の冬には、勤務している建設会社の上司から推薦をいただき、社内の昇進試験を受けることになりました。
その試験は、受験資格としていくつもの条件が課せられた大変厳しいもので、翌年からは、その条件がさらに厳しくなるとのこと。ぜひ、この機会に合格してほしいと願い、宗道先生にご相談にあがりました。
一連の事情をお話ししたところ、先生からは「チャンスは生かすべき」「受験に向けて励まれますように」というお言葉をいただき、神様に合格祈願のお祓いのお取次ぎをしていただきました。
支店で行われた一次試験では、常識問題の点数が少し足りない結果となりましたが、ありがたいことに、それまで仕事で仕えてきた先輩方が息子を通過させるようにお力添えしてくださり、東京で行われる二次試験に進むことができました。
二次試験は全国の支店から一次試験を通過した方たちが集まって行なわれることになっておりましたが、当日は例年にない大雪に見舞われ、交通機関が混乱。列車の不通や大幅な遅延といった事態が発生しました。会社側は、いかなるときも状況を読み、最善の行動をとるための準備を怠らない姿勢を要求し、試験開始の時刻を遅らせるといった措置は一切とらず、なかには試験を受けられなかった方もあったと聞きました。おかげさまで、息子はせっかくいただいたチャンスを無駄にせずにすみました。
ところが、当初の予定をだいぶ過ぎても合否の通知が届きません。不安にかられ、宗道先生をお訪ねすると、先生は「大丈夫ですよ」とおっしゃってくださいました。
お言葉どおり、息子は試験に合格させていただくことができました。合格の報せが届いたのは、試験から二ヶ月ほどたってからのことでした。
とにかく難関と言われる試験で、何度も挑戦する方もいらっしゃるとのこと。はじめての挑戦にもかかわらず、一次試験や大雪といった出来事を乗り越え、息子が合格を手にすることができたのも、神様の篤いご守護をいただいてのことと、心より感謝いたしております。
親子共々、世のため、人のため、会社のために、自分の持てる力を発揮し、よりよい仕事を成していけますようにと、朝拝、夕拝で祈る日々でございます。
▶未熟児で生まれた孫が無事、インフルエンザから回復
孫の春樹が予定日より二ヶ月も早く未熟児で生まれ、そのまま救急車で小児ICUのある総合病院に運ばれたのは平成18年(2006)8月のことでした。搾った母乳を与えられても二、三滴しか飲むことができず、何本もの管をつけられた姿は、それは痛々しいものでした。
元気に育ってほしいという一心で宗道先生にお電話し、遠隔でお祓いをお願いいたしました。
ありがたいことに、その後、春樹は順調に体重が増え、当初、二ヶ月の入院が必要と言われていたところ、それより二週間も早く退院の日を迎えることができたのです。
ところが春樹の免疫力が弱く、両親とともに家で過ごせるようになってから、わずか一週間ほどで発熱、やむなく母親に付き添われて再入院することになってしまいました。
宗道先生にお電話でご相談申し上げ、神様にお取次ぎいただきましたところ、春樹に二ヶ月の集中祓いをするようにとのお示しをいただきました。小学校に通っている上の二人の子供(長女、長男)たちから何かしら感染することも考えられたため、その場でお祓いをお願いいたしました。
おかげさまで、再入院した春樹は四、五日で退院し、その二ヶ月後には、はじめてのお正月を家族に囲まれて迎えることができました。
その冬は暖冬と言われましたが、B型のインフルエンザが猛威をふるい、小学三年生になるお兄ちゃんがこれに感染してしまいました。
前日まで、お兄ちゃんに仲良く顔をくっつけて遊んでもらっていた春樹のことが心配です。お世話になっている病院の先生に相談したところ、とにかく赤ちゃんを近づけないように、できれば別の場所に移してあげてください、というご指示をいただきました。そこで急きょ、私共の家で春樹を預かり、主人と二人で数日間、世話をしました。
お兄ちゃんの症状が治まり、安心して息子夫婦の家に春樹を送り届けてから十日とたたないうちに、今度はお姉ちゃんがA型インフルエンザに感染して寝込んでしまいました。またも春樹を預かることになりましたが、A型はとりわけ症状がきついため、すでに感染していたらどうしようかとそれは心配でした。
幸い春樹の体調に変化はなく、お兄ちゃん、お姉ちゃん、ともに完治したのを見届けて、ようやく両親のもとに帰ることになりました。
ところが、それから間もなく春樹が熱を出してしまったのです。病院へ連れていくと、A型インフルエンザと診断されました。幼い子に与える薬はなく、ひたすら熱が下がるのを待つしかありません。
苦しかったのでしょう。まる二日のあいだ、昼も夜もなく母親の腕のなかでぐずっていました。春樹のように帝王切開で生まれた子供は肺の機能が弱い傾向があるとのこと。医師から注意するように言われていたことから、本当に心配しました。
そんな心配をよそに、その後、春樹は快方に向かい、早くも四日目には、まるで何事もなかったかのようにすっかり元気を取り戻しました。どれほど安堵したことでしょう。
先に、二ヶ月間の集中祓いをするようにとのご神示をいただいたのは、このことだったのだと理解しました。
正神崇敬会の神々様、そして宗道先生、いつも、いつも、ありがとうございます。心から感謝の気持ちで一杯でございます。
◎水野志郎さん(70歳・仮名)◎会員歴20余年
▶掛け軸を濡らして穢れからの解放を求めた竜神様
私は先代の笹本宗園先生の時代に会員となり、以来20余年、正神崇敬会にお世話になってまいりました。数々のありがたいご守護をいただいてきた私ですが、そのなかから、印象深い、不思議な出来事についてお話ししたいと思います。
一つは昭和61年(1986)、私が正神崇敬会の会員となって一年がたつか、たたないかといったころにあった出来事です。
そこからさらに遡ること三年程前、私は「竜蛇神」と墨書された掛け軸を購入し、室内に掲げて、毎日、祈願の対象として拝礼していました。
別段変わったこともなく月日はすぎていきましたが、ある朝、掛け軸の上部が水のようなもので濡れていることに気づきました。掛け軸の右上から8センチほどの部分と、左上から6センチほどの部分が、水が染みたような状態になっていたのです。それは昭和61年、2月半ばのことで、その日はちょうど、宗園会長のもとにお祓いを受けにうかがうお約束をしていた日でもありました。
前日まで何も変わった様子はなく、不思議に思い、宗園先生にお目にかかった折にそのことをご報告させていただきました。ただ、その日は別の用件でご相談があり、また、水で濡れたのであれば乾くだろうという思いもあって、掛け軸に関しては、それほど熱心にお話させていただいたわけではありませんでした。
ところがその日帰宅してみると、まだ掛け軸は濡れたままでした。
その後も掛け軸はいっこうに乾く気配がなく、結局、まる一ヶ月ものあいだ、水でびっしょりと濡れたような状態がつづきました。
3月半ば、ふたたび宗園先生のもとをお訪ねした際、私はあらためて掛け軸の事をお話ししました。すると、宗園先生は竜神様のご要望をお感じになり、掛け軸のお祓いをしてくださいました。
その日、正神崇敬会から戻ると、驚いたことに掛け軸はすっかり乾いていました。朝、家をでるときにはびっしょりぬれていたのですから、本当に不思議なことです。さっそくその旨を手紙にしたため、宗園先生にご報告させていただきました。
後日、宗園先生からおうかがいしたところによると、この掛け軸は筆書された段階や、入神祈願の段階では問題はなく、販売配布の段階で穢れてしまったというお示しがあったとのこと。掛け軸は関東のある神社の神官の祈願により、大国主神界九十九万歳の臣神三柱がお鎮まりくださったのですが、その時点では正神でいらっしゃったものが、販売業者の強い損得勘定の意識と、粗略な取り扱いのために穢されてしまっていたのでした。
こうして、私の手にわたる前から掛け軸のなかの竜神様は穢され、邪神化していたわけです。そのようなこととは知らず、私は三年ものあいだ、穢れた竜神(黒竜)を拝みつづけていたのです。拝まれていた竜神たちは、人間にたとえれば身動きがとれない状態に陥っているようなもので、拝んでいた人間(私)を応援する能力はなかったのです。
このような苦しい状況から解放されることを願った竜神たちは、懸命に掛け軸を濡らしつづけることで、そのことを私に知らせ、私から宗園先生にお伝えすることで、浄化していただくことを要望しておられたのです。
一ヶ月ものあいだ私にサインを送りつづけ、ようやく宗園先生のもとに意向が届くところとなり、竜神界の高級神界へのお取次ぎによって、掛け軸のなかにいらっしゃった大国主神界の竜神様三柱の浄化がなされたのでした。
▶夜になると不思議な音が鳴り出す蛍光灯
もう一つは現会長の宗道先生にご報告申し上げた出来事を紹介したいと思います。
これは平成18年(2006)の4月にはじまったことですが、部屋の天井に吊るされている丸型蛍光灯の照明器具(直径各22センチ・30センチ、30ワット形と32ワット形がセットになっているもの)から、夜になると不思議な音が聞こえるようになったのです。
昼間はまったく音がせず、夜、私が床に就いて4、5分もすると、「パン、パン」という音が鳴りはじめるのです。音はひと晩に4回から5回、2、3分の間隔を開けて聞こえてくるのですが、それは、はじめて音が鳴った日から連日、一週間ほどつづきました。
5月に入るとふたたび音が鳴り出し、やはり一週間ほどつづきました。
不思議に思い、蛍光灯を購入した電気店に問い合わせてみたのですが、はっきりしたことはわかりませんでした。
後日、正神崇敬会に参拝した折、この出来事について宗道先生にお尋ねいたしましたところ、先生は神様にお取次ぎくださり、正神界からの稲荷様が、私の守護のために音を鳴らしておられるというお答えをくださいました。
そのことを確かめるべく、床に就いてからいつものように音が鳴り出した際、
「正神界から来られた稲荷大神様でいらっしゃいますか?」
と語りかけますと、ふたたび「パン」と音が鳴りました。音が鳴るたびに同じようにお尋ねすると、やはり「パン」と音が鳴り、まるで答えを返してくださっているかのようでした。ものすごく大きな音で鳴るときもあれば、小さな音で鳴るときもありました。
しばらくなにもない時期がつづき、12月に入るとふたたび音が鳴るようになり、それは二週間ほどつづきました。毎晩、寝床に入って数分もすると音が鳴りはじめ、ひと晩に5回、6回とくり返されました。
▶稲荷様が音で危険を知らせてくださる
あるとき、めずらしく日中に大きな音が鳴ったことがありました。とりたてて気にかけずにおりましたが、ふと風呂の掃除を思いたって風呂場に行くと、風呂がまの種火が一週間もの間、ちょろちょろと燃えつづけていたことに気づきました。これも正神界の稲荷様が知らせてくださったものと、ありがたく思いました。
今年(平成19年)の春には、こんなことがありました。
ある夜、台所の神棚にお祀りしている神様に拝礼させていただいた際、火を灯していたロウソクを消し忘れ、そのまま床に就いてしまったことがありました。夜の11時ぐらいだったと記憶しています。
しばらく蛍光灯から音が鳴ることはなかったのですが、その晩は床について間もなく、大きく「パン」という音が鳴り響きました。
とくに気にかけず、そのまま眠りについてしまったのですが、翌日の夕方、ふと神棚に目をやると、いつもロウソクを立てている缶の底が焼けて真っ黒に変色していることに気づきました。灯していたロウソクがすっかり燃え尽き、缶の底にたまっていた溶けだしたロウまですっかり燃え切っていたのです。
ふり返ると、あのときは、稲荷様が私にロウソクを消し忘れていることを気づかせようと、ひときわ大きな音を鳴らしてくださったのだと思います。
「パン」という音以外にも、「ガチッ」といったなんともたとえようのない不思議な音が鳴ることもたびたびありました。
このようなご守護をいただけることは誠にありがたく、これからも修行に励んでまいりたいと思っております。以上、不思議な現象についてお話し申し上げました。
◎下山寛子さん(65歳・仮名)◎着物リメイク作家◎会員歴25年
▶父のガンが進行するにつれてひどくなった夫の麻雀狂い
正神崇敬会にご縁をいただいてから、早いもので25年になります。先代の宗園先生、そして現会長の宗道先生のお二方には、まさに「一家の運命を変えていただいた」と言っていいほど、お世話になってまいりました。人間、どんな困難な状況に陥っていても救われる道はあるということをお伝えしたく、今回、ペンを執らせていただきました。
私の父にガンが見つかり、余命三ヶ月と告げられたときのことです。母や兄、妹たちもなんとかして父の命を救いたいと思い、宗園先生のもとに連れていきました。実家は金沢にあるため、当時、宿連寺(千葉県柏市)にあった正神崇敬会に通えるように近くにマンションを借りて、父母に移り住んでもらったのです。
三ヶ月間の集中浄化をお願いしたところ、残すところあと十回というところで、自分がガンを患っていることを知らなかった父は、勤務先で暮のボーナスを支給しなければならないからこれ以上は休めないと、無理をして金沢に帰ってしまいました。
お正月過ぎにまたこちらへ戻ってきた父でしたが、十回のお祓い浄霊を残したことで取り返しのつかないことになり、結局、その年の7月に他界しました。それでも担当医から余命三ヶ月、今度の桜は見られないだろうと告げられていた父は、桜を見ることができました。
父にガンが見つかり、宗園先生をお訪ねしていたころ、上の娘は中学3年生で受験を控えておりました。じつは、その娘が小学校に通いはじめたころから、主人は時々、無断で家を空けるようになっていました。それが麻雀のためだとわかったのは、しばらくたってからのことでした。当時、父のガンの進行と並行するように主人の麻雀狂いがひどくなり、ますます頻繁に家を空けるようになっていました。
私は仕事を持つ身のうえ、父の付き添いなどもあり、どうすることもできません。そもそも私が仕事をはじめたのは、主人が麻雀に狂い、生活費を入れてくれなくなっていったため、家計を維持する必要に迫られてのことでした。
主人とは見合いで結婚。銀行勤めで、真面目一筋の人でした。ところが、ある出来事をきっかけに責任を取らされるかたちで銀行を退職。それがよほどショックだったらしく、そのころから麻雀にのめり込んでいったのです。
宗園先生に霊査をお願いしたところ、主人の実家で四代前にお祀りしたお稲荷様が疎かにされ、その穢れが主人に出ていることが明らかになりました。
新しい会社に就職しても、仕事を放り出して遊ぶために長続きせず、いつの間にかその職場も辞めている、そんなことのくり返しでした。現在の土地に移る際には、前の家を処分しているのですが、一千万円で売れたところ、主人がいつの間にか五百万円を使い込んでいたこともわかりました。やむにやまれず、給料日に娘が主人の職場に出向いたことも一度や二度ではありませんでした。
私の父は、わが家のそんな荒んだ実情を憂いながら、あの世へ旅立っていったのです。
▶夫の借金地獄と息子の家庭内暴力で家庭は崩壊寸前に
銀行マン時代、その信用で簡単に信販会社のカードがつくれたことから、銀行を辞めてからは、複数のカードでお金を借りて麻雀につぎ込んでいたこともわかりました。気がついたときには、借金はたいへんな額に膨れ上っており、主人の姉と私の弟の二人が立て替えてくれ、なんとか清算にこぎつけました。
しかし、その後も主人の遊び癖が治まることはなく、ふたたび多額の借金をつくってしまったのです。またしても裏切られた悔しさ、情けなさでどれほど泣いたことでしょう。
主人が家を空けるたびに、宗道先生を頼ってはお祓い浄霊していただきました(当時は宗園先生、宗道先生のお二人で問題解決に当たっておられました)。すると本人から、「今日帰る」という連絡が入ることもありましたし、私が仕事から帰宅すると、問いただされることを避けるように部屋に鍵をかけ、灯りを消して眠っていることもありました。家計は逼迫し、主人と私は顔を合わせれば激しい口論になりました。
その後、高校に進学した娘でしたが、荒廃した家庭環境は相当なストレスになっていたのでしょう。やがて過呼吸症候群を発症し、学校に行くと呼吸が苦しくなって不安に襲われ、早退をくり返すようになりました。
そのうちに、症状が出ると娘自ら救いを求めて正神崇敬会に駆けつけるようになりました。お祓い浄霊の回数を重ねるごとに娘は少しずつ浄化され、やがて症状は出なくなりました。
娘が落ち着いてくると、今度は中学生になった息子が荒れはじめました。いっこうに生活を改めない父親への怒りや苛立ちを、姉にぶつけて当たり散らすようになってしまったのです。夜の11時ぐらいになると暴れはじめ、物を投げつけることもしょっちゅうでした。当時はテレホンカードもなかった時代。いつも十円玉を準備しておき、息子が暴れだすと娘と二人走って外へ逃げ出し、公衆電話に飛び込んで宗道先生に救いを求めました。
宗道先生が遠隔でお祓い浄霊除霊をしてくださり、一時間ほどして自宅に戻ると、息子の暴力はすっかり治まっていました。何かに操られて暴れだすのでしょう。それがお祓いで取れてしまうと、それまでの様子がうそのようにケロリとしていました。
夫は麻雀に狂って家に寄りつかず、息子は家庭内暴力に訴えるなか、それでも私は夫がつくった借金の返済、そして家計をどうにか維持するために、必死で勤めに出ました。
▶180度好転した一家の運命
娘が短大に進学すると同時に、下の息子も高校へ進学。そのころから家庭内暴力はすっかり治まり、かつての息子に戻りました。どれほど安堵したことでしょう。
短大二年になった娘は、就職のためにいつくかの企業の試験を受け、大手自動車メーカー一社と、テレビ局一社の一次試験に合格。両社とも三次試験まで順調にいったのですが最終試験で落とされ、それだけにショックも大きかったようです。
その後、ある銀行の試験に臨んだ娘でしたが、受験した足で私が勤めていたデパートに顔を出すと、憔悴しきった表情を浮かべてもうダメだと、弱気な言葉を口にしました。見かねて宗道先生をお訪ねするように勧めたところ、「その日、受験した銀行に受かる」というご神示をいただいたのです。
お示しのとおり、娘は銀行に合格。働きはじめてみると、職場の環境も恵まれており、娘は充実した社会人生活を送らせていただくことができました。
他方、高校から専門学校に進んだ息子は、自分に合わないという理由で入学後ほどなく退学。しばらくは何もしないで過ごしておりました。どうしたものかと思い、宗道先生に何回かお祓い浄霊をしていただくと、息子は間もなく自分で道を選び、就職いたしました。
当時、息子は二十二歳。就職して寮に入るということで家を出たのですが、どこに就職したのか、はっきりとしたことは明かしてくれませんでした。都心の老舗日本料理店に住み込みで入っていたことを知ったのは、それから半年もたってからのことでした。
厳しいと言われる料理人の修行ですが、半年つづいたことで本人も自信を得たのでしょう。真実を明かされたときは少しばかり驚きましたが、同時に嬉しく思ったものです。修行中も、必要以上に辛い経験はなかったと、あとから話してくれました。息子の中学生時代には家庭内暴力に苦しみましたが、宗道先生に何回もお祓いしていただいたことで浄化され、人格的にも落ちついたおかげだと思っています。十二年たった現在も、息子はそのお店で料理人として働かせていただいております。
その間、主人のほうも徐々に落ち着きはじめ、帰って来ない日が少しずつ減っていき、ここ数年は家を空けることもまったくなくなりました。仕事の面でもかつての真面目な主人に戻り、ある企業に留まって働かせていただいております。
娘はその後、結婚。私たち夫婦は孫にも恵まれました。平成18年(2006)、孫が国立の小学校を受験する際には、宗道先生に合格祈願のお祓いをお願いし、おかげさまで無事に合格することができました。
七年半ほど前に職場を去った私は、その後、洋裁や和裁の技術を生かし、古い着物をほどいてデザインを考え、洋服に仕立てるなど、好きなことを仕事にさせていただき、充実した日々を送らせていただいています。
自分の過去をふり返ると、宗園先生、そして宗道先生には、新聞沙汰になるような状況から、一家の運命を変えていただいたと、本当に感謝の気持ちで胸が一杯になります。
現在の私しか知らない方には、かつて主人の麻雀癖とカード地獄、息子の家庭内暴力に苦しみ、お祓い浄霊を受けるたびに泣き崩れていたことなど想像もつかないかもしれません。
どんな困難な状況にあっても、必ず救われる道はあります。私の経験をお話しすることで今、何かに悩み、苦しんでいる方が少しでも希望を見出してくだされば幸いです。