宇宙神道 正神崇敬会の書籍の内容紹介 「霊能開発の旅路」 笹本宗園著 第一部 その2

「霊能開発の旅路」笹本宗園著 第一部 その2

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第一部 霊能開発の旅路 (その2)
Ⅰ 幼少の頃の思い出(2)
近所の法事で聴いたお尚さんの説法

小学校の低学年の頃、多分一年生か二年生の頃だったと思いますが、隣接した家に法事がありました。お葬式の記憶はありませんので多分先祖様の何回忌かの年忌法要だったと思います。
 土地の習慣で法事の際にはお尚さんを呼んで供養したあと、近所や親戚の人々を招待する習わしになっていました。招待はまず子供達の席が開かれ、次いでお母さん達の主婦の席、それが終わるとお父さん方の成人男子の席が開かれるのが順序でした。子供達の席は夕方明るい中に開かれて終了するのが常でした。
 当日、お尚さんの主導による法要もすみました。そのあと子供達の席が設けられて、充分にご馳走になりました。満足して帰る間際に、私達数名の子供がお尚さんから声をかけられました。そしてお尚さんの控室に使われている別の四畳半の部屋へ案内されました。
 お尚さんの誘導に従って部屋に入った子供達は、円座になって座りました。何事かと思っていると、これから仏様のお話や地獄、極楽の話をして下さるというのでした。私達はここで凡そ一時間程、お尚さんが成人男子の席にでるまでの間、説法を拝聴する機会を頂けました。
 この時のお話の内容は、仏様は大変お慈悲深い方であって、多くの人々を救うために日夜お心をかけて下さっておられるということ。良い心をもって良い行ないをした人はあの世へいってから明るく楽しい”極楽”へいって幸せに暮らすことができ、悪い心をもったり悪い行ないをした人はあの世へいってから暗い”地獄”へおとされて、火に焼かれたり水ぜめにされたりして苦しい目にあわされる、地獄には恐ろしい鬼がいて、言うことに従わないものには辛い厳しい懲罰を加える、このような話をはじめて伺ったのでした。
 お尚さんの話し方は静かな口ぶりでしたが、大事な部分は噛みしめるように表情も豊かに話されました。非常に話の上手な方でしたが、その内容には強い確信に充ちたものが感じられました。私はこの話にぐんぐん引き込まれてゆき、心のやすらぎ、倫理的な生き方の感覚を意識させられました。私はこの時の記憶と印象が大変大きなものとして今でも説法の骨子が心に残っています。このお尚さんは学識、人格共に優れた方で評判の名僧であるということでした。
 このとき聴いた地獄、極楽の話は少なからず子供心をゆさぶりました。私は素直にこの話をのみ込む様に信奉しました。しかし、その後の成長過程では少々批判的になったことがあり、あれは勧善懲悪の戒めの作り話である、と決めこんでいた時期がありました。そう考えることが理性的で、知的で、合理的であると考えたからです。
 しかしながら、後日心霊世界に足をふみ入れてみて見聞を広めたり、実際に心霊世界に接してみますと、このおとぎ話の様に思える地獄、極楽の物語が、勧善懲悪の作り話でもなく、心理的な先入観説のようなものでもなく、人間の精神的願望像でもなく、心霊世界に厳然と存在している事実の世界であることを知ったのでした。私はあのお尚さんのすばらしい説法の様子をしみじみと思いだしています。

太陽を拝む身内のおばあさん

祖母の実家は同じ村内のS部落にありました。村の小学校のすぐそばにあったので、毎日その家が眺められ、大変親密な感じでした。校庭の西南の一角は祖母の実家K家の所有で広い畑がありました。その一部に次郎柿の畑があり、季節の推移に伴って、柿の実が次第に大きく育ってゆくのを校庭の隅から眺めました。熟すればもらえることもあって、ひそかな楽しみでもありました。
 祖母はこのK家の二人娘の妹であり、姉が跡とりとして、入りムコのおじいさんと結婚して家を継いでおりました。祖母は時折この実家へ泊って姉や義兄と話をするのが最大の楽しみだった様で、屢々(しばしば)孫の私を伴ってK家を訪れました。私が幼少の頃にはK家では老夫婦二人だけ住んでいて、若夫婦家族は勤めの関係で、S市に住んでいました。田舎の広い造りの家に老夫婦だけでは淋しいこともあって、K家のおじいさんとおばあさんは、祖母と私の訪問を大変に歓迎してくれました。
 祖母につれられてK家にゆくことには、幼かった私にとっては大きな楽しみでした。一つは三人の大人達から可愛がられること、二つには当時中々口に入らなかった和菓子を頂くことができること、三つには学校が近いために朝も安心してゆっくり寝られること、などでした。和菓子についてはK家の近くに菓子店が三軒もありましたので、最中(もなか)、キンツバなどの、当時ではたまにしかもらえないものが必ず頂けました。
 K家へ泊りにゆくときは祖母の配慮で土曜日が多かったと思いますが、時には翌日がウィーク・デーの時もありました。そのような場合には翌日の授業の教科書等を持ってゆきました。K家は学校のそばにありましたので、授業開始のベルが鳴ってからでも、駆けてゆけば始業に間に合いました。従って朝の余裕時間もたっぷりありました。
 このようなわけで、K家に泊った翌日は普段よりは30分から1時間位はゆっくり起きたように思います。朝食の用意が出来上がる頃、K家の独特な味噌汁の香が鼻をついてから起き上がるのが常でした。祖母も前の晩おそくまで話していることが多いため、大概ゆっくり起きていました。
 このようなK家へ泊まりに行った或る日のこと、私が急に朝早く起きた日がありました。どうして早起きしたのか記憶がありませんが、何となく目が醒めたのでしょう。早朝で陽がようやく山の間からのぼり始めた時でした。私は玄関の戸をあけて外へとび出しました。そして前方を見ますと、K家のおばあさんが井戸端で私の方を背にして何かを拝んでいました。私は物音をさせてはいけないと思って立ちどまり、おばあさんの様子を横合から観察していました。
 おばあさんは私がでてきたことを察知していたと思いますが、お祈りを続けていました。祈りの節々に”コンニチサマ”という言葉が耳に入りました。子供心にもこのおばあさんが拝んでいるのは、どうやら朝陽のお姿であるように思われました。
 ひとしきり祈りごとが続いて終わったあと、大きなかしわ手を二つ打ち、一礼されてお祈りが終了しました。そして私の方を見て、「おはよう。いまコンニチサマにご挨拶したところを見ていたね。ご挨拶すると気持ちがいいもんだよ。あんたもやってごらん」と言いました。
 私は朝陽の光の方に顔を向けました。急に言われても恥かしい気持ちがして行動にでられませんでしたが、キラキラと輝く朝陽の光がまぶしく目を射て、明るいすがすがしい気分になったことを憶えています。
 K家のおばあさんは心が大変寛大な人でした。私の祖母は時折気が立ってイライラすることがありましたが、K家のおばあさんはどんな場合でも落ち着いていて、取り乱したりした姿を見せたことがありません。それでいて、やるべきことはテキパキと決断して実行してゆくというタイプでした。
 このおばあさんの行動は朝陽を拝むことから始まるということでしたが、このおばあさんの内なる思想と行動の基本が太陽礼拝にあることを確かに理解できるようになったのは、かなりの年月が経ってからのことでした。
 太陽、特に朝陽に向って、”コンニチサマ”と呼び、最高の神格のあらわれと讃えて、朝の洗面のあと、まず第一にご挨拶申しあげる思想と信仰。それは日々”天照皇大神”を拝し奉る私の今日の思想と信仰と全く同一次元のものであったと思います。私は天照皇大神を拝し奉るとき、時折K家のおばあさんが讃えた”コンニチサマ”の呼び名を想いだすのです。

産土神(うぶすなのかみ)は八幡神社の神

私の生まれ故郷は伊豆の南海岸に面した白砂青松の地です。自然そのものが竜神様の神域にふさわしい景観をなしています。この海岸に流れこむ大川の流れを五百メートルほど遡(のぼ)り、大きく直角に右折する正面に私の故郷の産土神、八幡神社の神域があります。
 この神社は前方が川の流れに添った平地、右側から後方は山にかこまれており、左側は平坦地で集落になっています。神域の前で大きく折れた川は、集落の中心を貫いて流れ、その両岸が村の中心部を成していました。神社は海と村の中枢の地に鎮座なされていました。
 神域は割合に広々としており、古木も何本か残っていました。その中で最も特長のある樹は”イスの木”とよばれる大木で、樹齢八百年近いものです。天然記念物に指定されている由です。秋になるとクルミの様な実をつけます。台風のあとなどには樹下に沢山の実がこぼれていました。子供の頃、この実の中をくり抜いて、笛にしてあそんだこともありました。大人三人がかえでも無理ではないかと思われる位の大木です。硬い木で、成長が大変遅い木であるために、この程度でも大変めずらしいとの由です。
 私共が幼い頃は現在よりも産土神との親密度が深かったと思います。正月、誕生のお詣り、七五三のお詣りなどは今でも同様だと思いますが、昔は十五才になると男子は若衆組という組織に入って、神社の祭典を主催する氏子の一員になったのです。若衆になると神社の仕事に関して、また神社を中心とした行事について、直接に参加したのでした。現在は聊(いささ)か変容があるのではないかと思います。
 私共が子供の頃は度々この神域を遊びの場としていました。広い境内は幾組もの子供の遊びができましたので、秋から冬にかけてはよくでかけたものです。裏山のシイの実拾いは大変楽しいものでした。境内のご神木を折ったり傷つけたりしてはならないという大人達からの戒めは、全部の子供達が守ったものでした。
 成長した私が故郷を離れて三十年余になりますが、私の想いの中には産土神、八幡神社の神がずっとご守護を下さっています。時には現実の問題にとらわれて他所見(よそみ)をしていたこともありましたが、現界生活の吉凶禍福の流れの中において、良きご守護を賜わって下されたと思います。迷ってしまった時、難破しかけた時、へばってしまった時、航海の神である八幡の神は人生航路を色々とお導き下さったと思います。また、祓いの神にいます八幡の神は人生途上で穢れに染まった私を度々祓い浄めて下されたと思います。我ながらお世話になっているという感を強く持っています。
 八幡神社には現在も九十九歳の臣神様を責任者として、その下に約九十九万柱の臣神、眷族竜神がお鎮まり下されて居られ、地域の土地の護りとその地に住む人々の守りをなされ給う由です。また、故郷の地をあとにして他所へ移り済んだ人々に対してもご守護を及ぼされている由であります。産土神を忘れぬ者には殊更なご守護を賜わって居られます。私の家の神床にも産土神、八幡神社のご統卒の九十九万歳の臣神様以下九十九万余柱の神々がお鎮まり下され(ご分霊として)、私の日々の生活と神業を見守り、力づよい祓い浄めのお力を頂いております。
 八幡神社の大神とは申しあげるまでもなく住吉神界の大神のことであります。竜神界の根元神、素盞鳴(すさのおの)大神の姫神、四柱の姫神様のことであります。この姫神は袚戸の大神様でもあられます。故郷の産土神、八幡神社もこれらの大神を祭祀いたして居るのでありますが、実質的にはご名代として九十九万歳の臣神が直接お越し下されて居られるのです。
 住吉神界の神々は女神でありますから大変やさしく、気高く、きれい好きでおわします。私が朝夕の祈りの際に穢れがありますと、顔をスーッと撫でて浄めて下さることがあります。竜神界の祓い浄めは大変すばらしいもので、どのような汚れや穢れもふき払って下さいます。私は故郷の産土神として八幡神社の神々にご神縁を頂いたことを、大変ありがたく思っています。

みくら山の浅間さま

私の故郷の旧村の西北方に「みくら山」と呼ぶ美しい山があります。標高二百メートルほどの富士山型の山です。中腹から下は雑木林で、中腹から上は松林で覆われていてい緑の上衣を着けた様な大変スマートな山です。山の数多い奥伊豆でも、これほど美しい山を他に探すことは困難な位です。中腹から下の雑木林がみせる四季の変化と中腹から上の常緑は、何時もよい調和をみせていました。
 この山頂は二十畳の平地になっていて、浅間神社の分霊が祭祀されています。さきの太平洋戦争の最中は兵士の武運長久祈願ということで、「浅間さま詣り」と称して多くの人々が参詣していました。麓から山頂まで人が一人通れる位の細道がつづら折りに上がっていて、登りつめるのには約一時間かかります。年寄りでは二時間もかかった様です。途中に岩清水が湧いていて恰好の休み場所がありました。
 当時は村の管理によるものか、氏子組織の奉仕によるものか定かではありませんが、労力奉仕で参道の山路の修理がなされていました。従って道の破損があると、すぐに補修されたものでした。
 昭和20年、太平洋戦争のあとは、神様に対する認識の誤りから、神様に対する観念が急激に変わってしまって、みくら山の浅間さまに対するお参りもプッツリと止んでしまいました。手のひらをかえした様になったのです。それ以来私もまた浅間さまへお参りしたこともなく、失礼してしまいました。ただお山の登山口が私の家の所有地になっていたことから、時折に浅間さまのことを思い出す位のことはありました。
 昭和21年頃から、このみくら山に「加里鉱石」があるとのことで、採掘がはじまりました。美しかった山の中腹は無残にも掘りかえされて荒廃しました。一時期は数多くの人々が就労していました。しかしその後二年たつかたたぬうちに、昭和23年頃のこと、突如として全山を焼きつくすほどの山火事が発生しました。工事現場からの発火だったようですが、直接の原因は不明のままだった由です。この火災によって、採掘工事の企業は甚大な被害をうけて倒産し、工事は停止されました。
 当時、みくら山を掘りかえすことに対する懸念がなかったのかと申しますと、一部の者の心中にはあったと思いますが、唯物論的思想が急に広まった折でもあり、就労する仕事も少なかった折でもあり、殊更に反対もなく進められた様です。その結末が大火災にあって終息する結果となりました。
 後年、私はみくら山の浅間さまのことが気に掛りましたので、ご神前でお伺いをたてたことがありました。それによればこのお山には浅間さま、つまりコノハナサクヤヒメ様がお祀りされており、ご分霊を勧請申しあげたのは二千九百年も前の頃であられた由であります。紀元以前の昔のことであります。この美わしいお山は往古の人々にも着眼されて、この頂上に山の神様が勧請されたのでありましょう。それにつけても、この尊いお山を産業の名において掘りかえす様なことをしたことは、神霊を知る者にとっては由々しきことでもありました。
 みくら山の浅間さまには、現在もコノハナサクヤヒメ様のご名代として九十九万歳の臣神様が、約九十九万柱の臣神、眷族をひきいておいでになっていらっしゃる由であります。参拝する者とてないのに、自然の山々をご守護下され、その地の人々をお守りくださっておられるのです。
 私は誠に恐れ多きことながら、浅間さまに対して「みくら山の浅間さまを拝する者ありや」とお尋ねしてみました。ご神示は「あり」とのことでした。私はいぶかしく思い、「村内に浅間さまを拝する者ありや」とお尋ねしますと、「なし」とのお示しでありました。おかしく思い、「村をいでし者の中に浅間さまを拝する者ありや」とお尋ねしますと、「あり、一人あり、それは汝」とのことでした。
 こともあろうに、誠に意外なお示しでありました。私は意識的に浅間さまの神名をお唱えして祈念いたしてはおりませんでした。ただ朝夕の祈りの際に、「天地八百万の神々」に感謝申しあげていることは事実であります。また、「あまたのご守護神様」にお礼申しあげているわけでありますが、この祈りが浅間さまに届いているとのお示しでありました。このご神意を承わったときの私の感激は、ひとしお深いものでした。また、私の家の神床に浅間さまの神々九十九万柱の臣神、眷族のご分霊がお越し下され、お鎮まり下さっていらっしゃるとの由で恐懼感激いたしました。ここでもご神縁の尊さと有難さを痛感してます。

山の老修行者の思い出

伊豆の南部M村S部落の山中に老修行者が参られて庵を結び、衆生救済をされているとの噂が広まりました。私が中学一年生になった頃のことでした。
 私は生来身体が丈夫でなく、そのために祖母や母は大変に将来のことを心配していました。今思えば大変な霊障人間だったわけですが、当時はこのような認識もなく、祖母や母は聊(いささ)か途方にくれていた様です。そこで、先々のことも含めて霊感のある老修行者に私のことを視てもらいたいと思ったのでしょう。私自身も視てもらうことは嫌ではありませんので、この意向に従うことにしました。
 このお伺いには母が同行してくれました。老行者の庵は奥深い山の麓から百メートルほど山路を上った小川のほとりにありました。庵は草ぶき屋根の簡易な建物で、入口が三畳、奥が六畳ほどのたたずまいでした。奥の六畳の突当りに神壇が設けられていました。神壇も質素なものでした。
 行者さんは小柄な身体の老人でした。大変愛想のよい好々爺でしたが、礼儀正しい人でした。柔道着のような白い行衣をつけていました。若い弟子の方がいてお茶の接待をしてくれました。
 私の診断については、大きな蛇霊が憑いていて災をおこしているので退散せしめて下さった、とのことでした。真剣な顔で話して下さる老行者さんのお話に対して、その時の私は半信半疑でした。正直、大蛇が憑いていた、と聞いてぞっとしていたのでした。行者さんには敬意をもちながらも、その内容には得心がゆかなかったのでした。
 しかし、今ふりかえって考えてみますと、当時の老行者の診断と治療が誤っていたとは思いません。このような診断と治療については私自身が施術者の立場で幾つかの体験をしているからです。霊的な世界のことは自分の体験がないと理解できぬことが多いものです。

川あそびの慿霊

私の子供の頃のあそび場の一つに、村の中央を貫流して海へそそぐ大川の川口がありました。現在は海辺の開発によって当時と模様が一変してしまいましたが、開発前は自然の風雨の動きによって川口の様相が色々と変化していました。
 大雨が降って川の水量が増えて水勢が強まりますと、川口は深まり、両岸が広く拡大されました。海と接する川口部分は砂浜地帯になっているために、水勢が強い時は容易に底がえぐられ、両岸がけずり取られるのです。
 雨が少なく川の水量が減って水勢が弱まってきますと、打ち寄せる波が押しあげる砂のために川口が狭められて、川口の水深も著しく浅くなってしまいます。川口は川の水量の多寡によって絶えず変化しており、その変化の状態は千変万化の多様さをもたらしていました。
 川口はまた、海の波の勢力によっても大きく変貌しました。波の立った時は、猛烈な力で押し寄せた波が川口に奔流となって浸入し、川口から二、三百メートルも川上まで波状になって打ち寄せてくるのです。このような時は川口は海の一部になってしまい、川口部分は大きな渦巻が生じて怖ろしい場所に変わりました。
 川口は、季節や雨や風や波の条件によって現実の姿を様々に変化させました。子供心にもその変化が大変面白く思われ、今はどうなっているだろうかと、時折川口へ行ってみることが楽しみの一つでした。
 この川口が、水量も弱くなり風波も静まって、狭く且つ浅くなっていた時のことです。私が小学校四年生頃のことだったと思いますが、友達と一緒に川口へあそびにゆき、数メートルほどの川幅になってしまった小さな川口を見て楽しんでいました。狭く浅い流れは小川のようで、時折川上から下ってくるボラなどの魚影が川底を素早く走りすぎます。子供仲間は暫くはそのような光景を見てあそんでいたのですが、誰からともなくズボンや着物のすそをめくりあげて、素足になって川へ入りました。川は膝頭位までの水深になっていて、冬の水温は大変冷たいものでした。足裏の砂の感触と水勢を横切る水圧の感覚に気をまぎらわせて、暫く川の中を歩きまわっていました。みんなめいめいに冷たい中であそんでいたのです。
 ところが、私は、膝から下の水に入っている部分が少しずつ痒(かゆ)くなってきたのに気付きました。そうしているうちに急激にジワジワと我慢出来ない位の痛痒さに変わってきました。そして俄かに足が棒のようになって動けなくなりました。私はカカシが倒れるような恰好で両手を横にあげて、体を前倒しにしながら、体をまわすようにして懸命に足を動かそうとしました。そしてわずかずつ動く足をひきずるようにして、かろうじて岸にはいあがりました。川幅が狭くなっている上、数歩で岸に届く位置にいましたのでなんとか助かりました。 
 砂地に立って足の様子をみますと、足の表面が全体に膨れあがった上に、更にブツブツと固く腫れあがっていました。肌は赤紫色に変わり、空気に触れた皮膚はヒリヒリと痛痒く、その苦痛がジワジワと腰から上へのぼってきて、体中が金しばり状態になりました。
 友達が心配して手をかしてくれ、岩かげに運んでくれました。身体中がガタガタ震えて、歯がカチカチと鳴りました。友達が身体をさすってくれましたが、苦痛は容易に止まりませんでした。一時間余りも経ったでしょうか、様子が多少静まってきましたので、友達が私を助け起こして家に運んでくれました。
 運ばれてきた私の様子をみた母は、”アア、カザブルシだね”と言い、”暖かくして寝ていれば治るよ”と言いながら、着替えをさせてくれました。そして素早くフトンを敷いて私を寝床に横臥させ、重い位に掛ブトンをかけてくれました。あとで梅干湯を飲まされました。こうして休んでいると痛痒さがジワジワと退いていきました。翌日には足の晴れも大部分治り、翌々日には大体元通りに回復しました。一時はどうなるかと案じましたが、意外に早く治ったのでほっとしました。
 この幼少の頃に体験した現象が何であったかということについて、当時は特別な疑念も起こりませんでした。しかし、その後の霊的な研究の中でこの事実をふりかえって考えてみますと、一時憑依の霊現象と思えてなりません。そのような感じから神界へお伺い致してみますと、「川上で穢された住吉神界の竜神眷族霊、約一万体のものの一時憑依現象であった」との由でありました。
 幾人かの子供達が一緒に行動していたのに、他の者にはこのような現象が起こらず、私だけに起こったのは何故だろうか、理屈に合わないような一面もあるように思われますが、霊的現象には深い微妙な因縁が伏在しているものであります。生来強度の憑依体質であって、前世因縁の深い私には穢された竜神様が憑きやすかったのだと思います。事実、前世因縁のつよい(重い)人々には穢れた霊が憑きやすいものです。このことは素直に認めねばならないことだろうと思います。私はこの事実に対するお示しを頂いたとき、自分の中にある過去世の罪穢に対して深く反省したのでした。
 それにしても、川の中に穢された住吉神界の竜神様(眷族霊)が一万体もいらっしゃったというのはどういうことでありましょう。住吉神界の竜神様は姫竜神であり、女性であります。この川のご守護、浄化のお役目の方々であられたと思います。(後日、この川の守護、浄化の竜神と判明) この竜神様方は、大自然の浄化のために日夜お働き下されていたのです。この時も一生懸命に川の掃除をなされて自ら黒く穢れ、海に穢れを運ぶ途中で、霊的に過敏であった私に触れて憑依したというのでありました。この”カザブルシ”の体験も竜神界からの大きな啓示であったと思います。

親戚の屋敷神=稲荷臣神(いなりおみがみ)達

私の父は俗にいうムコ殿です。本人は若い頃はこう言われるのを極度に嫌がっていたようです。父の実家には、私は幼時からたえず出入りしていました。徒歩で私の家から十分位のところにありましたので、容易に行き来できました。祖父、祖母も健在で、曽祖母も存命でしたから、小学校一年生の頃から中学卒業後までも頻繁に訪ねていました。
 この家には庭に苔むした石造りの祠があり、何か判らないけれども屋敷神が祀られていました。祠は屋敷の南北に位置して東向きに安置されていました。祠の屋根には立派な苔が一面に生えていて、大変古いもののように見えました。子供の頃のことで、どのような神様が祀られているか一向に無頓着でした。従って、この神様のことについては今日まで誰にも質(たず)ねたことも聞いたこともなかったのです。
 ただ印象に残っているのは、私が泊めてもらった日の朝見掛けるのですが、この家の祖母がこの屋敷神への献撰を毎日欠かさず続けていたことです。雨の日も風の日も必ず実行していました。祖母はあまり丈夫な身体ではありませんでしたが、ゆっくりとした足どりでお供えを運んでゆく姿が今でも目に浮かんできます。曽祖母も神様を大切にする人でしたから、屋敷神へのお仕えは曽祖母から祖母にかけてしっかりと引き継がれたのでしょう。
 毎年正月になると必ず祖父母の所へ挨拶にいくわけですが、その時の屋敷神の光景が大変好きでした。祠の前にしめ縄、紙垂がかざられ、お餅のお供えの上にダイダイが一個のせられており、徳利に入れたお酒がお供えされている。その横の小皿には雑煮もお供えしてある。神様の祠に対する畏怖、尊敬の念はあったのですが、特に手をあわせることなく、そのそばで眺めているのが何となく好きでした。
 この祠の脇には古いミカンの大木がありました。私は秋になってミカンが熟する頃になると二階の窓から一階の屋根にでて、瓦づたいにこのミカンの木に登り、木の上でミカンを食べるのが楽しみでした。ところが、時々ですが、木の斜め下にある神祠を見下しながらミカンを取って食べていることが相済まない気持ちに駆られることがありました。ミカン泥棒をしているわけではありませんが、何かに見られている感じでした。(稲荷臣神様達がみておられた由でした)
 祖父は大変な働き者で、毎朝早起きしてから一仕事を済ませ、それから朝食をとっていました。夕方は星がでるまで働く人でした。従って、私が泊まっていても顔をあわせることはあまりありませんでした。せいぜい朝食の時か、夕食の時ぐらいでした。それも一緒の食事は滅多になく、殆どは祖父が単独で食事をしていました。子供心にもこの人はどうしてこんなに働くのかなと思っていました。
 それから四十年も経って、私はふと父の実家の屋敷神のことを思いだしました。既に十数年も前に母家も建て替えられて、屋敷の様相も一変しています。屋敷神は取り払われて跡形もない状態です。多分家の建築の時に片付けられたのではないかと思いますが、具体的には不詳です。
 過日、こんなことを想っておりました時、私の身体が急に痒くなり、左肘がチクリと痛みました。私は霊の知らせと感じて神前でお伺い申しましたところ、案の定、父の実家の屋敷神、稲荷(伏見)の臣神達でありました。この方々は伏見から勧請されて参ったとのことでありました。
 更にお伺いしますと、この伏見の臣神達は祖父から数えて(祖父の親を一代前として)、五代前の先祖様が勧請いたしたものであり、ご長老様は四万九千五百歳ほどのお方であること、このご長老様以下六体の臣神がおいでになっておられることが判りました。これらの臣神達は穢れが大変ひどく、全員が重い穢れの状態で苦しんでおられました。放っておけない状態になっておりました。
 私の想念が父の実家の屋敷神のことに想い至ったことにより、この臣神達と私の間に霊的な結びつきができ、父の実家の土地に倒れていた臣神達は私の所に飛来したのでありました。そして、私に浄化の祈願を望まれたのです。
 私は他の仕事をあとまわしにして、早速この臣神達の浄化祈願を佐田彦大神(さだひこのおおかみ)はじめ稲荷五社の大神、幕内(まくうち)の皇(すめ)の臣(おみ)様、稲荷神界の皇の臣様にお願い申しあげました。祈願は百パーセントお聞き届け頂き、これらの臣様達の穢れは瞬時にして浄化され、正神界への還御をお許し頂きました。私の体の痒みはすぐさま消失して、臣神達の喜びの感じが伝わって参りました。元屋敷に対する念も臣神達から解消されたのであります。一切解除されたわけであります。
 私は今、ことが一段落した安堵感もあって、この父の実家の稲荷の臣神達のことを、聊(いささ)かの感傷と、何ほどかのロマンの気持で想いだしています。この屋敷の神々達は、祖父よりみて五代前の昔、伏見から伊豆の片田舎に勧請されて、この家の者を代々勤勉な働き者としてご守護下され、山林、田畑などの財産の増殖に協力下されました。一時は山で一等か二等かといわれる位の財産を作ってくれたのでありました。稲荷神を崇敬する者には穢れなき状態で能(あた)う限りの守護を下されたのです。
 しかし、稲荷神の何たるかを知らず、崇敬の心もなく、ゴミのごとく捨てられし時に大きな穢れを負い、守護の力を喪失しました。屋敷神へのお仕えの引継が、太平洋戦争の終結時以後の混乱によって、後代へ正確にタッチされなかったこともあったと思いますが、図らずも屋敷の神々は穢されたのでありました。
 しかし今、因果はめぐり、この家の流れを汲む者の一人として私が、かつての先祖様をお助け下された稲荷の臣神達の苦しみを、解除するための仲介者としての役割を荷うことになったのでした。稲荷の臣神達との奇しき縁でありました。

部落口の地蔵様

私共の部落、三十六戸の集落の人口に当たる場所に、高さ四メートル位の小高い岩山がせり出しています。部落に入るとこの岩山の下から道が二筋にわかれて奥に続いており、この両側に部落の家が点々と連(つらな)っています。
 部落の子供達は、通学の際には毎朝この岩山の下で落ちあって一緒に学校へでかけるのでした。岩山は東の方角に向かって突き出していて陽あたりがよく、はい上がって岩面に腰を下せることもあり、友達を待つ間の陽なたぼっこもでき、待ち合わせに好適の場所でした。
 さて、ここでとりあげるお話は、この岩石を三メートルほど上がった所に安置されている、五〇センチ位の高さの石の地蔵様のことです。この地蔵様は私が子供の頃、木製の古い屋根囲いの中に安置されていました。石像の表面はひどく風化されていて、かなり古いものだという感じをうけていました。”矢崎篠の地蔵様”とよばれていた記憶があります。
 この岩山は頂上まで四メートルほど上り切ると平坦地になっていて、子供達の秘密の城の一つにもなっていました。よく目白鳥をとりにゆく適所でもありましたので、この岩山を上り下りする子供達は多く、この地蔵様は場所のめじるしにもなっていて大変親しまれていました。
 毎年正月の十五日になると部落の各戸の者が柳の枝にさした様々な型のダンゴを献納する習わしがありました。このダンゴは丸いもの、俵、草履、小判、動物を型取ったもの、花や鳥を型取ったものなどがありました。各家々で自由な発想で思い思いの奇抜なものを、色とりどりに造りあげるのでした。(他のめぼしい祠にもなされていた)この献納は極めて短時間でもよいルールになっており、一旦献納したものは他人であればすぐに頂戴してもよいことになっていました。従えって、献納者が現われるとそのあとをついてゆき、献納するや否やすぐに頂いてしまうのです。
 頂く者が複数の場合は、正に地蔵様から奪いあうように競ってとりあげてしまいます。幸いに柳の枝にさしたダンゴの数が数個から十数個ありますので、複数の人がいても一個以上は頂けます。この行事は”ダンゴ取り”とも呼ばれていて、子供達にとっては、自分の家のダンゴを献納する喜びと共に、他家の献納したダンゴを頂ける日として、大変楽しみな日でした。
 私はこの部落口の地蔵様のことが大変懐しくなり、最近この辺の事情を神様にお伺いしてみましたところ、この地蔵様は部落の守り神として活々とお働き下されている由で、この中には三千九百歳の大国主神界の眷族竜神を筆頭に、九四九体のご眷族が鎮まられ、ご守護に当たられているとのことでありました。
 ダンゴ取りの伝統的習慣について、献納するや否や頂いてしまうことの可否をお伺いしますと、別に失礼ではなく、献納はなされているとの由でありました。竜神様方は、子供達が頂く前に、その何倍もの早さで献納されたダンゴを召し上がられているのでしょう。或いは、子供達と一緒にダンゴ取りを楽しまれているのかも知れません。
 この地蔵様の中の竜神眷族は特に子供達の守りに大きな力をお貸し下されている由でありますから、現在でも朝夕学校へ行き帰りする子供たちの姿を、この岩山から見守りながらご守護下さっておられることと思います。月日の流れは四十年あまりも経過してしまいましたが、変わらぬ慈悲を下さる地蔵様(内にある竜神様方)に、深い想いを寄せている次第です。

子供の頃の神棚奉仕

私が子供の頃は村内の家々には必ず神棚が設けられていました。家があれば必ず神棚が存在するものだという観念は、当時の子供の当然の意識になっていました。現代の認識とは著しく違っていたのです。
 毎年正月を迎えますと、私の田舎では、家の長である者が神棚へお雑煮、酒、灯明をお供えすることになっていました。大抵はおじいさんかお父さんが担当していました。おばあさんやお母さん方は裏方にまわり、正月の神仕えは男子が主になっていました。私の村と少し離れた村では、お雑煮の炊事一切が正月三が日は男子の担当となっていた処もあります。
 私の家では恒例の如く正月三が日の神棚奉仕は父のつとめでした。お雑煮づくりは母の役目でしたが、出来上がると父が神棚の天照皇大神様のおふだに対してお雑煮をお供えし、お酒、お灯明をあげて参拝します。私は荒神様、大国主大神様、物置の神様、井戸の神様、ご先祖様などにお雑煮を運んでお供えする役目でした。
 この神仕えの行事が済んでから家族一同揃って朝のお雑煮をいただくのが正月の習わしでした。従ってお正月といえば各々の家では神棚を中心に動きが始まり、家族の心は神棚の一点にあつめられていたために、おのずから家庭の調和と安定が保たれていたように思います。
 日常における神棚奉仕は、私が幼少の頃は祖母が主になって行なっていました。私は小学校一年の頃から祖母の神棚奉仕を見習い、奉仕の助手をつとめていました。神棚を掃除したり、サカキを取り替えたり、お酒をあげたり、灯明をあげたり、などのお仕えをしていました。
 神棚は高所に設けてありましたので、祖母が神棚へお仕えするには踏台を必要としました。祖母がこの台の上に上がって作業をする間、私がその踏台をしっかりと押さえていることが大きな役目でした。奉仕のあとは丁重に参拝しました。このような奉仕は毎月一日、十五日の二回行なっていたと思います
 神棚は年に二回、春と年末の大掃除の際には全部取りはずして入念に洗い清めていました。棚板が大きいために川へ母と一緒に運んで洗いあげていました。神屋も一緒に洗っていました。昔は家の中が焚火の煤煙で汚れていましたので、神棚もかなりすすけて黒ずんでいました。丹念に洗いあげて乾き上がりますと見るからに気持ちがよかったものです。
 私はこういう神仏に関係したことについての手伝いをすることが、幼い頃から大好きでしたが、今日考えてみますと、一方ならぬ神様とのご縁があったからだと思っています。
 私共が子供の頃の神棚といえば、中心は天照皇大神でありました。即ちお伊勢様でありました。殊更に神学的認識はありませんでしたが、宇宙の統治神であられる天照皇大神を一心に拝すれば、おのずから心が鎮まり、身体が元気になり、家が治まると教えられていました。このような教えを何の疑念もなく素直に信じて育てられてきたのでした。今日考えてみて、幼き日に正神への崇敬という大事を教え込まれたことは、無上の幸せであったと思います。
 その後五十年近くも経った今日、子供の頃の神棚への奉仕のことを竜神界にお伺いしてみますと、神棚においでになっておられた竜神臣神も、一緒に天照皇大神へのご奉仕をつとめられておられた由です。
 私の生家の神棚には天照神界の大神であられる、賀茂大明神の神界の火竜神臣神七柱がおいで下されて、神棚のお仕えをなされていた由です。ご長老様は一万九千八百歳余のお方で、幼い頃のご指導を下されたのでした。これらの神々は私の九代前の先祖が伊勢からご観請申しあげた方々であったとのことです。
 現在の私は、朝夕神棚を拝しています。神棚参拝が一日の始めと終わりです。長じて、このような規律と行動の基準をもたらしてくれたものは、幼き頃の神棚奉仕の見習い―その実践教育の中にあったことを思いかえしています。幼い頃から一緒に神棚奉仕をなされた火竜様方は、現在も私の家の神棚においで下されている由であります。思えば子供の頃からの長いおつきあいです。

戸棚のえびす、だいこくさま

私が育った子供の頃の古い家には、大きな戸棚がありました。この戸棚は九尺間口、二段の大きなもので、食料、調味料、食器などの保管場所になっていました。現在は建て替えしたために残っていません。
 この戸棚の向かって左側の上段の戸棚を開けますと、奥の方に台にのった神屋があり、その中に子供のこぶし大のだいこくさまとえびすさまが安置されていました。金色に塗られていましたが、大分古くなり黒ずんでいました。
 私はこの神像が大変好きで、たえず戸棚を開けては手をあわせて拝んだり、眺めたりしていたものでした。だいこくさまは二つ並びの米俵の上にお坐りになられ、左肩には大きな袋を背負い、右手には打ち出の木槌を持っておいでになりました。えびすさまは右手に釣竿を持ち、左手で大きな鯛を抱えておられました。米俵に一匹の白ネズミが乗っているのが印象的でした。
 小学校二年生の夏休みの時、工作という科目の宿題として何か自由に作って提出することになっていました。何を作ろうかと考えていましたところ、たまたまこのえびすさまとだいこくさまの木彫を思いつきました。そこで手ノミを買ってもらい、直径10センチ位の杉の丸木を高さ20センチ位に切ってもらい、これを二つ割りにしてえびすさまとだいこくさまを彫りました。
 元来不器用でありますから、どうみても上出来とはいえませんが、自分で作ってみると大変に愛着がでるものです。学校から返されたあと、私は今までのえびす、だいこくのご神像を自作のものと取り替えてしまいました。古い方はどこかへ移動したのですが、その記憶がハッキリしません。
 さて、それからというものは二つの自作の神像を毎日拝みました。前のものに比べると芸術性は全然ないのですが、大きいこと、新しいこと、気にかかる彫りの部分にも妙な愛念があって、大変に迫力と愉快さを感じていました。また、薄暗い戸棚の中に明るい白木の像が浮き出た姿は大変神々しく感じられました。
 後日、この当時のことを神界にお質ね申しあげました処、古い金色塗のご神像には双方共に三千九百歳台の大国主神界の竜神様がそれぞれに入っておられた由でありますが、私の手製のご神像と取り替えたときに、古い方から新しい方へお移り下されたとのことでありました。従って、古い神像を処分したとしても全然障害はなかったとの沙汰でありました。
 それから七年位たって、私が中学三年生の頃に家の一部増改築がされました。当時は戦時中で、私は学徒勤労動員で家におらず、このえびす、だいこくさまの像はその際に失われてしまいました。如何ともし難いことでした。
 太平洋戦争が終わる昭和20年の3月、私は学徒動員先で急性肺炎になって、当時の海軍診療所(旅館転用のもの)に入院となりました。生死の境をさ迷いつつも危うく一命をとり止めました。三ヶ月入院のあとフラフラの状態で田舎に帰りました。帰ったあとえびす、だいこくさまのご神像がないのに気づきました。 
 後日、神界にお尋ね申しあげました処、ご神像はすてられてしまい、この中に鎮まっておられた竜神眷族様は、穢されて大変辛い目にあわされていた由でした。私が急性肺炎で苦しみ続けていた時も、私に分霊憑依されて大変苦しんでおられたとのことでありました。私の病いの苦しみと竜神様の痛みは重なりあっていたものであります。
 さて、現在この二柱の竜神様はどうなっていらっしゃるだろうか、と案じながらお伺い申しあげました処、この竜神様方は私の神床にお越し下されておられ、眷族から臣神に昇格なされてご活躍下されておられる由です。それは、私の心魂が練磨されてゆく途上で浄化されて、正神界へ還御を許され生々(いきいき)とよみがえられている由であります。
 私が小学校二年生の頃に作った木彫のご神像にお入り下され、大国主大神、事代主大神にお仕え下されてわが家の守り神としてお働き下された竜神様が、一時は穢されつつも私を見捨てることなく、引き続き現在の私をお助け下されていることを知ったとき、私は目頭が熱くなるのを感じました。正神界の眷族、その上位の臣神達は私のよき友であります。人間の認識を越えて、これらの神々は常に神と人のために働き続けて下さるのであります。

成田山のお守り札

私は小学校一年生になった時から青年期に至るまで、布袋入りの「成田山のお守り札」をずっと身につけていました。(成人してからも相当期間つけていました)最初は祖母が教えて所持させてくれたものですが、所持することが習慣となって、学校へゆく時も必ず着けてゆきました。携行すべき手拭や鼻紙を忘れることはあっても、お守りを忘れることはほとんどなかったと思います。
 この成田山のお守りは祖母が近所のご主人から頂いたものでした。この人は目立たない地味な方でしたが、内には熱心な信仰心を持った方であったのでしょう。年に一度か二年に一度位、成田山へお詣りに行っていた様で、その都度お守り札を求めて来てくれました。
 お守りは平常は腰のズボンのベルトに、つりひもを通して左側に下げていました。つりひもがすり切れてお守りを落としたこともありましたが、日頃お守りの有無を左手でさわって確かめる習慣がついていましたので都度都度必ずみつけることができました。
 夏になると成田山のお守りを布袋からとりだして、「成田山」と焼印を押した木札の上部の穴に丈夫なひもを通して、右肩からタスキ掛けにして左脇下につり下げていました。こうしておくと海や川へ入る時もお守りを着けていられるからです。夜寝る時と入浴の時以外はずっと着けていました。
 成田山のお守りのよって、私は三回ほど身替わりになって助けて頂いたと信じています。
 第一回目は郷里の大浜で海水浴中に大波にまかれた時です。小学校二年生の夏と記憶していますが、何人かの友達と海中を泳いでいた時、突如として大波が襲来してまき込まれ、海水を沢山飲んで息も切れ切れになりました。無我夢中で泳ぎ、ようやく浜に帰ることができました。この時、気づきますと成田山のお守り札が二つに割れていました。
 第二回目は郷里の帆立野とよばれる磯海で潜水している時のことでした。大波が打ち寄せて身体が磯の岩上に押しあげられ、海水の返りの落ちこみによって私の身体が岩肌をずり落とされたのです。これは小学校三年生の夏のことと記憶しています。その後、波がおだやかになりましたので急いで陸にはい上がりました。この時も成田山の木札は割れ落ちていました。
 第三回目の時は道路で転倒した際でした。私は子供の頃、落ち着いている様であわて者の面がありましたので、人一倍転ぶ癖がありました。小学校五年生の頃と思いますが、学校から昼食をとりに家へ帰る時、急いだために道路で転倒しました。大変強く身体を打ち、暫く起き上がれませんでした。頭を打ち、手足をすりむいて大変なショックでした。この時も、成田山のお守り札は腰で二つに割れていました。後遺症もなく大過なくすみました。
 後日これらのことについて神界にお伺いをたててみましたが、それぞれの時に成田山のお守り札の中におわしました二千歳台の二体の火竜様が身替わりになって下された、とのことでありました。つまり、お不動様として顕現なされておわします賀茂大明神様の眷族火竜様が、私の危険に際して身をすててご守護下されたのでありました。誠に有難いことであります。
 ご守護のために身替わりとなられた火竜様は傷ついて重い穢れを背負わされましたが、この様な際の穢れは人間が作為的、無作為的に穢した場合と若干異り、上級神の能動的な助けによって浄化されたとの由でありました。過去三回にわたって私を助けて下された六体の火竜様や、その後も別のお守り札の中におられてお守り下された眷族火竜様達は、今も尚私と共にある由であります。人生は神様に助けられ通しの旅路であることを痛感いたします。

父の仏神祀りのこと

私が小学校三年か四年の頃だったと思いますが、父がどこからか木製で屋根に銅板が敷いてある古い小祠を持って参り、床の間に安置して朝夕拝んでいました。私は床の間に頭を向けて就寝していましたから、朝夕否応なしにこの小祠を見ることになるわけで、どういう神様が入っていらっしゃるのかと少しばかり関心を抱いていました。
しかし、父は幼い私に、自分が信仰しはじめた神様のことをいちいち説明する必要もなかったことでしょうし、私としても父に尋ねることもできませんでした。ただ毎夕の父のお祈りをそれとなく眺めていたものです。当時、大変強大に見えて子供の私には近より難かった存在の父が、一応にお願いのお祈りを続けている姿を見て、大変小さくなった感じを受けたものでした。
 後日わかったことですが、当時の父は職業上、社会生活上で非常に辛い状態におかれていたため、万策つきて神仏におすがりしていたとのことでした。厳しい現実生活の中で必死に神仏のご加護をお願いしていたのです。幼かった私には知る由もないことでした。
 父の祠参拝はかなりの期間続いておりました。傍目に見ても真剣さが伺われました。その甲斐あって、その後の父の運命は比較的順調に進みました。職業面も社会生活面も向上の一途をたどりました。
 後年このことについて調べてみますと、父が当時苦悩していたのを見た友人が、K村にある寺の仏神様をおうけして拝することを勧められたとのことでした。霊験あらたかである由で、父はこの話を聞いて率直に実行したのでした。結果は大変良く、期待通りの道が開けて参りましたので、一段落ついた時点で充分にお礼申しあげて、この仏神様の祠を元のお寺へお返ししたとのことです。正確には九ヶ月間のお祀りであった由です。
 このような短期間でお祀りをして、自分の願いごとが成就したのでお礼申し上げたとはいえ、またたく間にお返し申しあげたことについて、私はいささか虫のよい話ではないかと思いました。そこで後日恐る恐る神界にお伺い申しあげたのであります。
 お示しによりますと、この仏神様の祠には、何と大国主神界の臣神竜神三柱(四十九万歳)がお鎮まり下されて、父の願いの成就に全面的守護を下されたとのことでした。しかし成就のあとは臣神達のご意向に反して返還されることになり、父の身勝手さからくる不敬のための穢れをうけて倒れてしまった由です。そして父に憑依したまま実際は元の寺には帰らずに居られたのでした。
 そのまま放置されておりましたならば、わが家の子孫の上に大きな霊障をもたらす処でありましたが、計らずも私がご神縁を頂いたこともあって、父が穢したこの竜神様方を浄化頂くことができたのでありました。この竜神様方もご分霊としてわが家に現在もお留まり下され、変わらぬご守護を賜わっております。

お問い合わせ ご相談者ご依頼の皆様の個別のご事情には神通霊能者の会長笹本宗道が真摯に対応させていただきます。