宇宙神道 正神崇敬会の書籍の内容紹介 「霊能開発の旅路」 笹本宗園著 第一部 その3

「霊能開発の旅路」
目次    
第一部 その1   
第一部 その2   
第一部 その4   
第一部 その5   
第二章 

「霊能開発の旅路」笹本宗園著 第一部 その3

第一部 霊能開発の旅路 (その3)
Ⅱ少年期、青年期の思い出(1)

これまでの叙述で私は、幼少の頃の思い出を神仏とのかかわりの中で記して参りました。幼少の頃の事柄も、回顧すればまだまだ申し上げたいことがありますが、この辺で少年期、青年期の想い出に切り換えて旅路をたどってみたいと思います。

海中の病癒祈願

私の少年―青年期の頃に、村内に「若衆」という組織があったことは再三申し述べましたが、男子は十五歳になると、皆この組織に加入しました。この組織は産土神社の氏子組織でもありましたが、同時に男子青壮年者組織体として、村内の諸般の行事について幅広い活動を行なっていました。
この若衆組織の若手グループを「小若衆」と呼んでいましたが、この小若衆の役目の一つに「海中の病癒祈願」の任務がありました。小若衆は年齢十五歳から二十歳までの者ですが、部落内に病人がでて生命の安否が気遣われる場合には、病人の家族の者の依頼によって、小若衆が海中で病癒祈願を行なう習わしがありました。
病癒祈願方法は、若衆の集合場所である”御堂(みどう)”に常時保存されている、長さ三メートル、幅五〇センチほどの大きな木太刀を海辺に運び、海中に浮かばせて、部落の戸数に相当する三十六回の唱えごとを一心に連唱するというやり方です。実施されるのは日暮頃です。責任者が太刀にさわっているだけで、他の者は原則として太刀から手を離して合掌していました。三十六回の唱えごとの数を間違えないように、係を命ぜられた者は細長いアスナロの葉を三十六枚用意しておいて、唱えごと一回ごとに一枚ずつ海中に落とすというやり方をとっていました。
唱えごとは―、
サンギョウ サンギョウ ロッコンショウジョウ
オオヤマセキソンダイゴンゲン
ダイテング ショウテング キミョウチョウライ
と唱えるのです。
若衆に入りましてもこの意味の解説はなく、ただ先輩から口伝えに教えられただけでした。
漢字に直しますと―、
参行 参行 六根清浄
大山石尊大権現
大天狗 小天狗 帰命潮来
ということになるだろうと思います。誤りがあれば、ご存じのお方よりご批正賜わりたいと存じます。
この病癒祈願は全員全裸で行なうことになっていました。海中に膝上位まで入って行なうのです。波の荒い時は体までぬれることがあります。秋冬の寒い時期は大変辛い行でした。
病者がでて生命の安否が気遣われる様な時期としては冬の季節が比較的多いこともあって、冬場は小若衆にとっては辛い季節でした。冬の海辺は西風がつよく、乾いた浜砂を巻きあげて裸の肌に容赦なく叩きつけます。寒さと痛みに肌の感覚が失せるほどでした。海中は水温が高く、中にいる間はかえって楽ですが、陸に上がった直後が大変辛いものでした。
病癒祈願中、木太刀が沖へ潮に引かれてゆくか、或いは陸の方へ押し上げられてくるかによって、病者の生命の安否をみる占が行なわれていました。沖へ引かれる傾向がつよいと危険、陸へ押し上げられる傾向がつよいと安心、という風にみる由です。この辺の情況判断は陸に控えている年長者達によってなされていたのです。この病癒祈願はこの占のことも含めて”セングリ”と呼んでいました。
三十六回の唱えごとが終わりますと、小若衆は海中から陸へかけより、急いで衣服をつけて産土神、八幡神社まで早駆けいたします。大変なのは太刀係で、三メートル程のたっぷりと海水を含んだ重い太刀をかついで走るのでありますから、息切れするほど大変なことでした。こうして八幡神社到着、セングリのお礼を申しあげて完了するのです。
病癒祈願の行事について、若い頃は辛さが先になって、行事の真義がよく理解できない部分がありました。後日改めてこのことについて神界にお伺い申し上げましたところ、この病癒祈願は竜神界の住吉神界と、山神界の大山ズミ神界に対してなされたものであったとのお示しを頂きました。
潮力により木太刀の引きと押しによって生命の安否を問い、占示を頂くことは可能、との由でありました。真剣に唱えごとを連唱し、鎮魂帰神の状況の下で太刀を通してご神示をうけ得ることは神理であります。”セングリ”の終わりに八幡神社においてお礼申し上げるのは、産土神はじめご参加の神々にお礼申し上げるためとの由でありました。
私は今でも時折、歌うが如くに、「サンギョウ サンギョウ ロッコンショウジョウ」と無意識に唱えていることがあります。こんなとき、私の意識の奥の奥で竜神界と山神界の神々眷族霊が、共に唱和しながら私を浄化下さっておられるのではないかと思うのであります。

剣道場の武神

私は中学(旧制)に入学してから初めて、剣道というものを習いました。所によっては小学校時代から剣道を教えていた学校もあった由ですが、私にとっては全く初めての体験でした。
 最初の頃、胴を着けますと身体が鋳型に入れられた様になって硬直し、面を着けますと非常に息苦しくなり、小手を着けますと手が利かなくなり、先輩達が自由に動作しているのを眺めては、見るのと実際とでは大変違うものだと感じていました。
 中学一年生になったばかりの一学期は、全く戸惑いの連続でした。腕力は強い方ではなく、どちらかといえば気弱な方でしたから、手荒な武道には当初から面喰っていた次第でした。当時は武道の教科の中に柔道と剣道があり、いずれかを必ず修めねばならないことになっていましたので、体力に照らして無難な剣道を選んだというだけのことです。従って全く消極的な選択であって、意欲的に剣道を選んだわけではありませんでした。
 このようなわけですから、当然のこととして最初はみじめなほどか弱い剣士でした。背丈は学級で三番目でしたから、見た目には雄々しい姿であったかも知れませんが、実際は最も下手なグループの一人でした。背丈順に試合をさせられる時は、小学校時代からチャンピオンであったというM君と組み合わせになるので、いつも大変なコンプレックスを抱いていました。自由に相手を選定できる時はやさしい仲間を選んでソフトに対戦していました。
 しかし、一学期が終わり夏休みが過ぎて二学期に入りますと、私の身辺に異変が起こりました。剣道の時間になると、内面から突きあげるように猛然たる力が湧き、何かに憑かれたかのように心身が活発に動くのです。その敏捷さは、我ながら驚くような変貌ぶりでした。またたく間に強いグループに仲間入りしました。
 二学期も半ばになると、学年(六学級)で一位、二位を占めていたK君、M君と対戦しても、三本中二本を取るほどに急成長しました。そして遂には学級で対戦に応じてくれる者もなくなりました。致し方なく思っていましたところ、毎回剣道教師K先生の相手をつとめることになってしまったのです。K先生は体躯は小兵でしたが、剣道六段の腕前で、当時は郡下第一の剣士でした。水戸出身のさむらいの気風を備えた方で、強烈な気迫に満ちた人でした。その後は毎時間、猫に奔弄されるネズミのように厳しく仕込まれたのです。
 一年生の三学期、寒稽古のあとの納会試合が挙行されました。紅白の組分けと番付表が発表されましたが、私は赤組の主将となっていました。納会試合は順位の下の者から上に向かって勝抜き方式で進められました。 対戦成績は中盤までは互角でしたが、中盤すぎると紅組が急速に負け込んできました。紅組の私の番がきた時は、白組は十三名も余勢があったのです。いかに自信めいたものがあったにせよ、十三名との連続対戦は大変だと思いましたが、あとがないことゆえ必死の思いで立ち向かってゆきました。
 勝負は一つ一つ決まってゆきました。余分な動きはさけて相手の状況をうかがい、隙をみては一発勝負をかけました。この方式が驚くほど正確に相手をとらえ、またたく間に十三人を制覇してしまったのです。相手の副将、主将も含めて勝利した、我ながら唖然とするような成果でした。
 二年生の時の寒稽古明けの納会試合はこれまた紅組の主将でしたが、この時は紅組の副主将であったM君が相手方を数名連続で倒し、白組の主将までも制覇してしまったために白組の相手がなく、紅組同士での勝負になりました。副将のM君は、連続対戦ですから、大変に不利でした。よく戦ってくれましたが、私の一方的な勝ちとなりました。
 以上述べましたことは、私の腕自慢をしようとして申し述べたものではありません。中学生の一時期の剣道の腕前を云々した処で、少しも偉大であることの証明にはならないからです。
 私の関心事は、大変に弱い剣士であった私が、何故に突然強い剣士に変貌したかということです。この理由がよくのみ込めなかったからです。長い間の疑問について後日神界にお伺い申し上げました処、私自身の若干の精進や努力もさりながら、大きくは竜神界の大国主神界九十九万歳の臣神(私の守護神様のお一方)が、加護とご指導をなされたためであることが判りました。剣道場の中央高校の神棚には破邪顕正の大神、建速素盞鳴大神(たけはやすさのおのおおかみ)が祀られており、この大神の広前で私の守護神様は最大限に私を奮励せしめて下されたとの由でありました。全く予期せぬこと、預り知らぬことが起こっていたのでありました。
 翻って思いますに、現在の私の神界、霊界、幽界を対象として、審神者(さにわ)として神霊家としての立場で日々難しい挑戦を続けておりますが、現在の情況と心境は当時の状態と極めて近似したものと感じられるのです。霊能開発の気脈は若き日の剣道修業の道筋にも深く埋設されていた様に思います。守護神様は私が知らぬうちにお導きされておられたのでありました。人生の事は神界と必ず連なっているものであります。

キリスト教との出会い

昭和20年8月、太平洋戦争敗戦後の社会的思想的変動は大変激しく、それまでの認識論や価値体系を根底からゆさぶり転倒せしめるような勢いがありました。その中の大きな思潮は、一つは唯物論思想であり、二つにはキリスト教思想があげられます。私の青年期の頭脳に対して、この二つのイデオロギーは強烈な刺戟を与えるものでした。
 唯物論思想については、郷里の大先輩で中共帰りの亡命闘士の方がいち早く旗上げされて、昭和22年頃には、私の田舎町にも、急進的な思想が広く普及されていました。唯物論者でなければ知識的、科学的でない、という大変偏向したイズムが地域青年達の中を風靡していた様です。私も一時期このグループの研究会に出席していました。
 某日、唯物論グループの研究会に出席して殺伐たる思いで帰宅する途中、私は何かに導かれるような感じで、下田町にあるキリスト教会(日基系)に足を運びました。その時はキリスト教について特別な知識があったわけでもなく、人間関係があったわけでもありません。自然に足が向いたとしかいいようがない状態でした。
 下田教会には当時、原田育夫牧師夫妻が赴任されていました。突然お訪ねしたのですが、大変親切に歓迎して頂きました。それから約三年間、私が大学へゆくために上京するまで、色々ご指導頂きました。
 私の青年期、特に大学から大学院在学中は、キリスト教思想の流れで学習を重ねました。バイブルに秘められた真理の探索、そのために色々な先生方のお話を聴くことが楽しみでした。
 今でも最も印象的なこととして記憶している、賀川豊彦先生の霊的知性のひらめきを感じさせる説教と、真摯な信仰態度は若き日の私に強烈な衝撃を与えてくれたものでした。キリスト教の中における偉大な人格であったと思います。
  無教会主義を樹てた内村鑑三先生の流れをくむ矢内原忠雄先生の明快な聖書講義と強固な信仰、高潔なお人柄も若き日の私を魅了してやまないものでした。
 原田先生のご紹介で参上した田園調布教会の岡田五作先生の熱烈な使命観にみちた信仰も、私の魂をゆさぶり続けたものでした。私の住所移転もあって短期間のお伺いに終ったことが残念でした。
 異色の牧師として名を知られる赤岩栄先生の思想と論理にも大変興味を抱き、意外に素朴な先生のお人柄にも触れて、真剣に求める救霊者の苦悩を知らされた想いでした。
 カトリシズム思想のオーソリティ、田中耕太郎先生の思想には、共鳴と反発の想いをもちながら接触していました。田中吉備彦教授(田中耕太郎氏実弟)には、プロテスタントの立場で大きな共鳴を頂き、ご指導を得ていました。早々の他界を残念に思っています。
 さて、現在から青年時代のキリスト教信仰、キリスト教主義への共鳴という一時期をふり返ってみて、それが私の人生にどういう意味をもつものであったかを思案いたしまして、この経過を総括する意味でさきに竜神界にお伺い申しあげたことがありました。その答えは、唯物論者の集まりからキリスト教に導いたものは、正に私の守護の竜神様であり、これもご神慮によるものであることが判りました。
 お示しの内容を概説しますと、キリスト教の神界は竜神界の中の住吉神界が主体であり、この神界のことを学習せしめるために一つの筋道としてキリスト教へ導かれたとの由でありました。住吉神界は神道では住吉神社、宗像の神、祓戸の神とあらわれ給い、仏教では観音様、弁天様として顕現なされます。皆、同じ神様のおはたらきであるわけで、対立抗争する根拠は微塵もないといわねばなりません。
 世俗の中の宗教宗派はお互いに異を立て、論を起こして、排他、独善の論陣を張り、セクト主義、優越主義を鼓吹していますが、これを喜ぶ者は穢れた者達ばかりです。神界では、正神の使徒達が伝えた教えはすべてよき教えであるとし、それぞれに肯定なされておられます。神、儒、仏、基、悉くが正神の教えであることは事実です。それらの奥におわします大神神界、皇臣神(すめのおみがみ)神界のご真意を正しく理解することが大切であると思うのであります。
 このような正神の世界と現実の世俗の中にある宗教の姿を学ばしめるため、守護神様は比較的に浄化されている宗団としてキリスト教団の中へ私を投入されたのでありました。この間の学習は私の人生にとって、また、現在の救霊活動の前提として大変有意義なものでありました。
 神界よりもれ承りますと、イエス・キリストの守護神は住吉神界の五百万歳の竜神様との由であります。女神様であられることに深い意味を感ずる次第であります。

若き頃の歓喜・法悦体験

私は十八歳の頃、日本基督教団下田教会で原田牧師により”洗礼”を受けました。後年になってキリスト教から遠ざかってしまったことから、親友であり牧師になったS君から時々冷やかされ、「あの時の洗礼の水はどこへえ流したのか」とヤユされることもあります。しかし、私にとって洗礼の意味は霊的次元で今日も活々と生き続けており、洗礼の水は大国主神界の浄めの水、住吉神界の浄めの流れとなって、いささかの訂正も変更もなく渦巻き流れ続けています。
 受洗当時から三年間位の私は、唯物論思想の精神砂漠から抜けでたような感じで、あたかも渇ける者が清水にありついたようにキリスト教理とその信仰に熱中しました。この頃の楽しみといえば一週間に二回、キリスト教会の夜の集会に参加することでした。昼間は家の仕事の手伝いがありましたから、特別な場合を除いて昼間の教会出席は出来ませんでした。
 家から教会までは四キロ余りの道程で、青年の足でも一時間かかりました。往路はバスを利用しましたが、帰途は徒歩で帰るのが常でした。自転車を利用したこともありましたが、帰途一人で歩くことが楽しみになり、自転車の使用は原則としてとりやめました。途中は人家がまばらの場所が多く、夜間の帰途は大変淋しい道程でした。
 このような帰路の闇路の淋しさも当時の私はあまり気にかかりませんでした。というよりも、この帰路の独りきりの時間が、大変価値あるひとときだったのです。それは教会での祈りよりも、教会における感謝よりも遥かに深く、遥かにこまやかに「神と直接できる時間」でした。
 私は教会をでると聖書を小脇にかかえて、小声で讃美歌を歌いながら、神への祈りの想念で軽い黙想をしながら帰ります。町はずれの坂を上りはじめ、一つ目のトンネルを出たあたりから、”聖霊が降るように”私の全身が明朗透徹の気持ちになり、さわやかさがみなぎり、頭部がひときわ澄みわたって高級神霊のご降臨が感じられるのです。
 「主よみもとに近づかん
  登る道は十字架に
  ありともなど悲しむべき……」
 私の意識は霊界を超えて神界に天駆ける感じを覚え、夢幻の恍惚境に進入してゆくが如くでした。全身がまばゆい光に包まれたようになり、神への讃美と感謝のことばが奔流のように流れでて、魂は歓喜の頂上に飛翔するのでした。
 そして、霊的充足感とも思える限りない精神的な満足感が意識をみたして、頭は大変澄みきり、一点の邪念も止め得ないようなさわやかな感情の世界に導かれるのでした。それは歓喜の法悦境そのものでした。このような状態は家にたどりつくまで続きました。
 このような神秘的体験を教会帰りの都度味わっていました。その内容は記述の上では簡単ですが、その実相は体験せねば判らぬようなものでした。
 後年になってこのことについて神界にお尋ね申しあげましたところ、このような霊的体験をお導き下されたお方は、私の竜神界の守護神様、大国主神界の皇(すめ)の臣神(おみがみ)様(百二十八万歳の神)であらせられた由でありました。(弘法大師の守護神様も百二十八万歳の竜神界皇の臣神と承っております)また、讃美歌を通して高い心境にお導き下されたお方は、守護神様であられる住吉神界の臣神様(九十九万歳)であられた由でした。
 現在、竜神界に関する守護神であられます大国主神界の皇の臣神様は、私の取次申しあげる穢れた神霊、未浄化な人霊などの浄化向上に強大なお力をお与え下されておられますが、由来をお尋ね申しあげましたところ、既に私の青年期の頃よりご指導を賜わって居給うた由でした。
 神道の神と拝し奉る竜神界の神々が、この世の宗教世界の認識とは大変違い、キリスト教の幕屋の中にも全く同様に働いて居給うということを如実に知ったのです。高級神霊界に於ては万教帰一が至極当然のこととなっているようであります。

キリスト教伝道体験

私が青年期を迎えた頃は、私の田舎では唯物論サイドの青年達が大変多く、町中でしばしば街頭演説を行なっておりました。もちろん、それは政治的な行動を中心としたものでしたから、純粋に宗教的な救いの立場とは全く異次元のものでしたが、イデオロギーの問題になりますと、唯物論者の辻説法は、宗教、信仰への批判をかなり含んでいるものがありました。
 このような当時の情況の中で、宗教意識にめざめかけた私は居ても立っても居られない気持ちに駆られて、キリスト教会の主要メンバーと相談して街頭伝道を計画しました。伝道班は原田牧師を先頭に、高校教師であったT先生、私、その他自由参加のメンバーで組織されました。この一団が街の中央部にある銀行の入口を借りて福音を宣べたのです。この街頭伝道は日暮れてから行ないました。
 小さな田舎町では少し変わったことをすればたちまち評判になります。私の噂は急速に伝播されてしまいました。母が聞いてきた噂は、「アカ組だったと思っていたらヤソ組だったんだそうな。あすこの兄(あに)さんは変わってる」という批判でした。当時の田舎の人々からみれば、思想の狭間に苦悩する青年の姿も、酔狂な言動に走る変わり者にしかみえなかったのでしょう。
 私が旧制中学を卒業した当時は、学制の改革が大幅に実施された頃でした。いわゆる、新制高校が発足した頃で、大学進学には新制高校卒業の資格が必要となったのでした。旧制中学卒業の私は定時制高校へ一年余り通学しました。
 この間、私はこの高校の中で聖書研究会を組織して、自分で聖書の講義を引き受け、週一回ずつの研究会活動を始めたのです。今から考えれば汗顔の至りですが、執念は実って、昼間部の方からも三十名を超えるメンバーの参加があり、学校内で最も活発な研究会になりました。
 当時のメンバーの中から牧師一名、伝道者一名が生まれたのです。主導者であった私がキリスト教から離脱してしまったのですから、牧師となったS君から既述のように、”洗礼の水はどうした?”と言われても致し方のないことです。
 このような街頭の伝道や学内における聖書研究会を通じての活動をとおして、教会のメンバーは急速に増大してゆきました。さびれかけていた教会には元気な息吹がよみがえり、若者達が続々と集まってきました。こうして下田の地に戦後キリスト教活動の一つの絵が描かれたのです。
 私ごとで恐縮ですが、愚妻もこの頃の聖書研究会のメンバーの一人であり、教会活動の仲間の一人だったのです。街頭伝道の際にはチョウチンをブラさげる役目を果たしていました。

軽薄な霊能を戒める田中師

私は昭和29年の春から30年の3月まで、およそ一年間、縁あって三重県出身の代議士、田中久雄先生の秘書としてお仕えしたことがあります。この先生は政治家の中では大変地味でマジメタイプの先生でした。所属委員会も文教委が長く、性格とお人柄にもよく似合っていたと思います。
 この先生は私に政治のことはほとんど教えてくれませんでしたが、易学に関する研究の門戸を開いて下さったのです。また、霊の研究についても大きな指針を与えて下さった恩人です。
 政治活動の激務の寸暇(すんか)をみては、多少息ぬきの時間がありますと、先生はメモに運命学の問題を書いて私に示し、解明法を教えて下さったものでした。また、神仏に関する話題がたえたことがありませんでした。
 先生は京都の一燈園の西田天香師と昵懇(じっこん)の間柄で、帰郷の際には奥様とご一緒に修養にでかけられることがしばしばでした。この修養とは、ご存知の方もあると思いますが、頭に手拭いの鉢巻をしめて、ハッピを着け、コマ下駄をはいて、バケツと雑布をもって民家を一軒一軒まわって、トイレの掃除をさせて頂くという「行」です。このような陰徳を積む行をなされていたことは、政治家というよりも宗教家というイメージの方でした。
 霊能とか、霊能者に関する知識や認識も大変広く、しかもかなり深いものがあったと思います。邪神、邪霊による霊能、霊能者というものに対する見方、考え方など、折に触れて私に注意して下さったものでした。
 当時の私は霊的なものに対しては認識力も充分ではなく、批判力も強くありませんでしたから、ちょっと不思議な現象に接すると甘くとびつきやすい軽薄さがありました。先生の所には衆院文教委の肩書に対するものか先生の個人的利己によるものか判りませんでしたが、宗教、神霊、心霊、易占などの分野の方々から様々な資料が送られて来ました。先生はこれらの資料を一覧されていましたが、驚くような高い判断を示されていました。
 先生の後援会の一青年に霊能がでたという噂がありましたので、私は機会をみてその人と会ってみました。霊能の状況、霊能開発の経過など色々と質問してみました。この人は山上の岩に独りで座って黙想を続けていたところ、突如として霊感を得、霊視力、霊聴力が開発されたというのです。何ものかがのり移った感じだということでした。
 私がこの話を先生にお話しますと、日ごろの温厚な先生が突如として厳しい表情になり、「そんなことに今手をつけてはいけない、もっと広く世間をみて、もっと長い時間をかけて色々なものを見なくてはいけない。狐狸の類にはその位のことは朝めし前のこと、感心するほどのものではない。霊能者を探訪したければ何ヶ所でも回って研究してきなさい」と指導され、戒めて下さったのです。昭和29年頃のことでした。
 ある時先生が私に対して、「君はどういう風に人生をえがこうとしているのかね」と尋ねられました。私が戸惑っていますと、「君は政治の世界には向かない。易者になるとよい」と申されました。私は政治を志してご厄介になったのではありませんでしたから、政治に向かないと言われても別に抵抗はありませんでしたが、ただ、当時の私にも「易者になるとよい」というご意見には、直ぐには対応しかねました。
 私の心理の動静をいち早く察知された先生は、「いや、易者といっても俗にいう街頭ばかりにいる易者さんのことではなく、そう、私ども議員がほとんど一人のこらずと言ってもよい位、選挙の季節になるとお伺いにゆくような、そういう易者のことを言っているんですよ」と註釈して下さいました。
 この先生のお話は誠のご意見でした。「狐狸にだまされぬためには、易原理を基本からよく学習するように」とさとされた先生は、程なくして、当時日本一と称せられていた易学の権威者、熊崎健翁師の所へ私を案内して下さり、特別指導を申し込んで下さったのです。

神社参拝で拾った十円玉

私がお仕えした田中先生の日常のお楽しみは何かといえば神社、仏閣参拝だったと思います。日常多忙の身でしたが、二、三時間でもたまに暇がありますと「そうだ、○○神社へお参りにゆこう」と申されることがしばしばありました。
 選挙間近になると、いずこの先生方も神だのみに傾くようですが、田中先生の場合には日常の信心でいくつかの神社に参拝していました。選挙の時だけというご都合主義のにわか信心ではありませんでした。
 昭和30年冬の選挙に先立ち、昭和29年の暮のことと記憶していますが、田中先生の発意で深川の富岡八幡宮へ参拝した時のこと、夕暮の中で参拝をすませて神域から道路にでて、車に載りこもうとした瞬間、私は足下に一個の十円玉が落ちているのに気がつきました。私は反射的に”アッ、十円玉”と叫びました。そして素早く拾って先生におみせしました。
 先に車中に座っておられた田中先生は、急に破顔一笑されて、「これは有難い、トーセン(昔の拾銭をもじったもの)のおしるしだな」と言って深々と一礼されました。そして、今までの選挙の際にも神社参拝の折に、当選の場合には十円玉のおしるしが必ずといってよい位にあったことを物語られました。今回は通算五回目のトーセンの嬉しい先ぶれでした。
 私はこの時の出来事が妙に印象的で、いささか気にかかる点もありましたので、改めて神界にこの顛末をお伺いしてみました。十円玉のおしるしは大変有難い事ですが、やや安直すぎるのではないかと思われるおしるしが、果たして正神界のお示しであろうかと疑問だったからです。
 お話の筋書を終始一貫めでたしめでたしで締めくくる心算であれば余計な詮索ですが、ご神慮を能う限り正しく認識することが神(心)霊を学ぶ者の姿勢であると考えて、もう一段探索を行ないました。
 十円玉によって示されたトーセンの啓示は正神界のものであったか否か?これに対する応答は正神界の告知ではなかったということでした。正神界の神はこのような形のお示しにはなじまないようです。
 では一体、十円玉にまつわるトーセンのおしるしは何だったのでしょう。単なる偶然の出来事に過ぎなかったのでしょうか。あるいは、正神界のものに非ざる誰かがこのようなことを仕組んだというのでしょうか。この辺の事情についての正神界のお答えは、若干穢れた者達(眷族霊)の演出であったとの由でありました。
 神様の周辺にたむろしていたところの多少穢れた眷族達が一行の祈願の筋をかぎわけ、サービス精神にもえて早々とトーセンのしるしをみせたとのことでありました。穢れの強いものは害ばかりでありますが、多少の穢れの場合には人間を助けようとする気持ちが残っているもので、いささかの霊感も働きますから簡単な予知能力を発揮することがあるのです。
 この経過については田中先生と私の守護神様は始終をごらんなされておられた由でありましたが、田中先生の選挙にかける心意気をご存知であり、縁起をかつぐ心は行動に弾みをつけることもあり、また格別の悪行でもないためにこの眷族たちの企画・演出を大目にみて下されたとの由であります。
 正神界の神は邪に対しては大変厳しい面をもっているものであります。寸分の妥協も許さない純粋さを保持しているものであります。私も日頃この正邪の区別、識別には人一倍やかましい姿勢をとっているのでありますが、正神界では邪の穢れがわずかのもの(軽いもの、中程度のうちの軽いもの)については、寛大に処置下さる場合もあるという一例であります。
 先生は先年他界されました。導いて頂いた弟子が十円玉のしるしに関する解説をご生前に申し上げる機会を失しましたが、この辺のことについては当の先生がいち早くご存知であったかも知れません。守護神様がお話下されたかもしれません。いささか穢れた邪神は、正神の引立て役を演ずることもあるものです。

易学との出会い

前回に述べましたように、私が田中久雄先生のお世話によって、当時における易学界の第一人者として称されていた熊崎健翁師のところへ特別指導のお願いをして頂いたのは、昭和29年の9月頃だったと思います。
 特別指導の形式は、時折お伺いして個人的に指導をうけるということでしたが、熊崎健翁先生は大変多忙でしたから直接指導はなさらず、熊崎健翁先生の意を体した幹部の先生方から指導をうけるということでした。熊崎先生は初対面の時、田中先生の申し出を受けられると、すぐさま私の姓名を聴取され、すかさず姓名判断をされました。私はその間、どのように判定されるであろうかと内心不安でしたが、熊崎先生はうなずいておられ、田中先生からの願いの筋を快諾して頂きました。
 この時点から私と易学との正式の出会いが始まりました。そして今日までの長い年月が流れました。熊崎先生は初対面の時、自分の著書を積み重ねると背丈を超えるほどあるので、これらの書物を順次読んで消化吸収するようにと教えられました。また、数霊のことは大変重要であるから充分マスターするようにと申されました。
 今後の具体的な指導は熊崎健翁先生の後継者である熊崎彬恒師と、門下の第一人者といわれる川上広記先生によって教えて頂くようにとのことでした。川上広記先生は目黒の柿ノ木坂にお住まいでした。私は毎週土曜日になると午後この先生のところへ勉強にでかけました。
 熊崎健翁先生の所は易学、姓名学のメッカでしたが、技術面だけの相談指導に留まらずに、宗教法人「信名の道」として精神的、霊的な面の指導も行なっておりました。唱えごと、「ア、ウン、ケン、コン、チュ、シンジン、カンノウ」は大変素晴らしいものです。漢字にしますと「阿呍乾坤・神人感応」となります。
 易は宇宙大自然の原理ですが、実占の世界ではたらく神々は「ミコガミ」達で、その殆どは霊界止りの霊体ですから、当てる技術は大変見事なものですが、精神面の指導という点では不充分であると思います。この辺の事情に気づかれて、高級神霊からの指導を受ける体制をとられていた熊崎先生の達見は大変素晴らしいものでした。
 さて、話を易学習に戻して申しますと、当初の三回位は本部の熊崎彬恒師から教えて頂きましたが、その後は川上広記先生の許へ通って指導を受けることになりました。川上先生は大変温厚な人格者で、非常に気さくな方であり、親切に指導して頂きました。
 講義式ではなく、平易な対話の中で、寛ぎながら自然に判りやすく教授して頂きました。技術的指導の面よりも易の考え方を徹底して理解するという方針でした。易の持つ世界観、自然観、人生観をよく理解すれば、技術の道は容易に体得できるという趣旨によるものでした。私は川上先生の易理論と占示の読みとり方を、そのお人柄とのセットで生き生きと感得させて頂きました。
 川上先生は実占家として実力者であり、当時世間を騒がせていたカービン銃ギャング事件について、適占を行なったことで有名でした。お客様には当時実業界を風靡していた一流の方々がひきも切らず訪れておられました。ドレメの杉野さんや美容の山野さんのお顔もお見掛けしておりました。
 私の易の学習は断続的でしたが、およそ半年位続いたと思います。田中先生の選挙期間中は現地に参りましたので中断しましたが、その後昭和三十年の春頃まで続いたと思います。この間、易学、気学についての手ほどきを受けました。印相学については私が新機軸をだして大変評価して頂いたものでした。
 川上先生の易者仲間は非常に多く、毎月一回集会を行なっておりました。老大家や中堅の先生方が集まりましたが、初心者の私を色々と面倒みて下さったものでした。四柱推命で有名な加藤乗鳳先生は大の発明家で、百種に及ぶ特許を持っている由でしたが、易学や四柱推命の考え方を現実の物にあてはめてゆくと発明になる、と申しておられました。原理そのものが霊的に高い秩序であるから、それを現実に模写すると良い製品、便利な品物に化体するのでしょう。宇宙の自然のメカニズムの中には、人智を超えた不思議な仕組が存在しているものです。加藤乗鳳先生は高い能力によってこの辺の仕組みを読みとっておられたのでしょう。
 その後、易の学習は私なりに積み重ねて参りましたが、初学の頃の想い出は今もなお生きいきと記憶の中に残っています。後日の神示によれば、これらのプロセスは悉く私のご守護神、易神のお導きによるものであったとの由であります。

食事法の体験学習

郷里の旧制中学時代の二年先輩に小川さんという方がおりました。陸士にゆかれましたが、終戦になったことから家に戻り、家業を継いでおられました。
 この方は自然主義を信奉されておられ、徹底した自然児のような生き方をされておりました。薄着を通されて、冬でも靴下やタビはおろか、常に下着は薄もの一枚でした。
 私はこのような実践は到底真似が出来ませんでしたが、考え方に一部共通するところがあって、この先輩から多くのものを学ばせて頂いたと思っています。この人は当時、桜沢如一氏の食養法を研究し、実行されていました。あの玄米食の食養法を忠実に実行しておられたのです。
 生来身体が弱かった私は、健康回復によいとの勧めによって食養法を教えてもらいました。その原理については一通り理解できたように思いましたが、玄米食の実行は家族生活の中では事実上無理でしたから、この重要な部分を省いて、他の部分についてはできるだけ忠実に実行しました。
 食養法の原則の中には、少食主義、菜食主義、粗食主義、咀嚼主義とよばれる規範がありました。私は食生活については日常この規範を守るように心掛けて参りました。このお陰で食事に関する不平不満は一切なくなり、一汁一菜でも有難く感謝して頂く習慣が身についてきました。
 この食事法が習慣化するに伴い、私の病弱な身体は肉体面から徐々に丈夫になりました。やや専門的な概念ですが、「陰性体質」から「陽性体質」に変化してきたのです。現象面からみますと手の握力が次第に強くなり、肺活量も大きくなって来ました。以前は朝の起床が困難でしたが、食養法を行なってからは朝のめざめがよくなって来ました。目がさめると寝床の中に止まっていないで、すっと起きられるようになって来たのです。
 また、記憶力や判断力といった精神的なはたらきの面でも、若干の変化がでて参りました。小川先輩はさらに進んだレベルのものであると言って、透視力の実験などをしておられ、大変よく当てておられましたが、当時の私にはこの辺のことは余り興味がありませんでした。私は食養法というものによって、心身の上に確かに良い結果がでるものだという体験学習をしたことで大変満足でした。
 肉体は食物の化け物であると言われます。食物の中の組成、栄養成分を消化吸収することによって肉体が養われ、生理的活動が営まれるわけですから、人間の生存に食物は第一義的なものです。肉体は食物の栄養素によって大きな制約を受けていますが、それは食物のとり方、咀嚼の具合によっても大きな影響をうけるものです。日月神示に”ひと口を四十七回噛んで食べると病知らずになる”との趣旨が述べられておりますが、誠に素晴らしい教えであると思います。
 ある霊能者の方から、”空噛みを続けていると霊能が開発される”ということを伺ったことがありますが、噛(か)むということは「神(かむ)」に通ずるのでしょうか。空噛みせずとも食事をよく噛んで食べることにより、健康と霊能開発という二つのことが同時に実現できる道があると思います。
 イエス・キリストは聖書において、”何を喰い何を飲まんと思い煩うことなかれ”と申しておられますが、これを額面通りにみますと、食養法の原理からみて無智、無選別のようにも受けとれます。しかしこの言葉は、より高い霊の次元を求めるときは、三次元界の食の世界はおのずから整ってくるものであるという、四次元、五次元的認識を述べたものだと考えます。
 食養法については色々と学んでみましたが、結論的には桜沢如一氏の考え方を主として、私なりに修正して体験学習してきました。肉体改造の面ではかなりの効果があったと思います。精神的な面でもいささかの効果があったのではないかと思います。
 このような青年期の体験も、後日の神界からのお示しによれば、私の肉体に健康改善のために住吉神界のご守護神様がお導き下されたものでありました。自分が知らないでいても守護神様は色々とご配慮下さっているものです。

人命救助の日

東京の赤羽に住んでいた頃のことでした。長男が生まれて一月位経った頃の事、朝食をとっていた時に、窓から一匹のバッタが飛び込んで来ました。そして食卓の脇におりて、少しずつはい始めました。家内がバッタの方に手を伸ばす気配を感じた私は、「つかまえるな!それをつかまえるな!それをつかまえると人が死ぬ!」と叫びました。
 全く衝動的にでた言葉で、その時のことをあとで考えてみても、自分でも理解し難いことです。全く瞬時の発言でした。突然の発声に家内はびっくりして、手を引きました。私は両手の掌でバッタをすくう様な恰好でつつみ、窓の外へ放してやりました。
 朝食をすませて暫く休んでおりましたところ、全く意外な二人の知人が訪ねてきました。一通りの挨拶を終えて来意を伺いますと、知人の身内の青年が若い女性と恋仲になりましたが、交際の途中で男性の方が心変わりしたために娘さんの方が大変思いつめてしまい、苦悩のあまり何回も死を企てているので説得してもらいたいということでした。
 非常に大変な問題ですが、色々と考えた末に私のところへ持ってくるしかなかったと言われ、二人の大人に懇願されるとお断わりするわけにもゆかず、とうとうお引き受けすることになりました。こうして私は、今ほど口からでたばかりの、「人の死」にまつわる問題に直面したのです。
 私は渡された住所メモを頼りにこの娘さんの家を訪ねました。家は容易にみつかりました。ご家族の方へまずお詫びを申しあげ、当の娘さんに面会させて頂きました。色白の美人顔でしたが、血の気の引いた顔に深い苦悩の相が浮きでていました。当初の間は私を著しく警戒していました。首に細ひもを掛けたままの姿で、疑いのまなざしで私の話を聞いていました。私は大変慎重に言葉を選んで語り続けました。
 一時間、二時間と話している内に、娘さんは私の話しに反応するようになりました。少しずつうなずく恰好を始めました。間もなく首の細ひもを自分ではずして、部屋の隅へ投げてしまい、次には自分の方から話をはじめました。この段からは私の方が専ら聴き手にまわることになりました。娘さんは次第に心を立て直し、自分から積極的に起き上がろうとする意志を持たれたのです。曲折した想いはだんだん小さくなってゆき、逆に未来への思いが次第に大きくふくらんで来たのでした。
 娘さんは能弁でした。延々五時間にわたって話しあい、すっかり打ちとけて、隔意のない意見を述べられる程になりました。私はこの人の心の傷が殆ど癒えた様子を確認してこの家を辞したのです。この家の人々も深い安堵感を得て、謝意を述べられました。大きな重荷をおろした感じでした。
 同日の帰途、山手線から京浜東北線にのりかえて赤羽駅に着きました。時刻は午後九時を少しまわっていました。駅の階段を下りて駅前に出ました。人通りもまばらで小雨が降っていて肌寒い感じでした。
 コートの襟を立ててうつ向き加減に歩いていた私の前に、突然一人の婦人が立ちはだかりました。よく見ますと背中に一歳位の子供をおんぶしており、左手には三歳位の子供の手をひいており、右側の少し離れた所には五歳位とも思える子供が立っていました。一目で四人連れの親子とわかりました。こんな時間にどうしたのだろうかと不審に思い、一瞬不吉な予感が走りました。
 「あのー、戸田橋はどちらですか?」とこの人が私に問いかけました。私はハッとして、反射的に答えました。
 「死ぬんじゃありませんよ!」と。
 するとこの人は「わっ!」と声をあげて泣き、顔を伏せてしまいました。
 「どうしてそんなことを考えたのですか?」と私は問いかけました。私の問いに答えて、この婦人は簡単に次のように経緯を語りました。
 「私は下町の者です。夫が働かず、酒を飲んで家族を省みないのです。生活してゆくことができません。どうすることもできません。どうか見逃して下さい」
 私は語気をつよめて、
 「死んではいけません!死んでは花実は咲きませんよ!生きようと思えば、死んだ心算で生きようと決心すれば、必ず道は開けます!」
 私はこの婦人に懸命に呼びかけました。
 私は目をあげて周囲を見回しました。十数メートル先の薄明かりの場所が駅前交番であることに気づきました。私は心中に「そうだ」とつぶやき、この婦人と子供達を励ましながら駅前交番に連れてゆきました。そして簡単に経緯を説明して、この親子のことは善処下さるようお願いして帰りました。
 帰途、道を歩きながら、今日は一体どういうめぐり合わせの日だろうかと考え込んでしまいました。精神的な虫の知らせならぬ、バッタの知らせによって始まった一日が、かくも重ねて「死を決意した人」にめぐり会おうとは。現実の人生は小説よりも「奇」であると痛感したのです。
 私はおよそ三十年も前の出来事をあたかも昨日の出来事の如くに感じ、これらの人達の身の上を案じていました。この原稿を書いたことを機会に守護神様にお尋ねしてみましたところ、あの娘さんもこのご婦人と三人の子供達も、皆元気で現界で暮しているとのお示しを頂き、大変安心した次第です。
 また、私はこの不思議な日を特別な運命の日だと考えていたのですが、ご守護神様のお示しによれば、これらの出来事は神界の仕組として私に対する教訓を下されたもので、運命のなせるわざではなかったとの由でありました。
 私に対する教訓とは、真剣に救霊の使命を自覚するならば、毎日が人命救助の日になるという具体的な「さとし」であったとの由でした。この教訓は、大国主神界の皇臣(すめのおみ)様のご指導の一端と承わっております。ご神慮は誠に深遠なもので、三十年後の今になって、あの日の意味がようやく判ったのでありました。

神道の真理を垣間見る

私は易学学習の機縁によって熊崎健翁師の多くの著書に接することになり、その思想と密接に触れることになりました。その一つは「数霊(かずたま)思想」というべきもので、その二は「音霊思想」というべきものです。この思想という言い方は私の認識上の用語ですから、ご承知おき願いたいと思います。
 当時の私は、「数」というものは数学的な計量上の観念以上のものではないと思っていました。恐らくは現在でもほとんどの人々がそう思っていることにちがいありません。私は熊崎師の所説に接してそれを学習していくうちに、天地自然のはたらきの中に「数の神秘」があり、「数霊のはたらき」があるということを教えられたのです。
 熊崎健翁師が創始した熊崎式姓名学の基礎となっており、その主導的役割を成したことは斯界の常識であると思います。熊崎師は、姓名学を開示するに当たっては数霊思想を根幹とし、一から十までの数を芯(しん)とし、一から八十までの数霊の発動を具体的に解明して姓名学の機構と機能を巧みに完成されたのでした。姓名の構造上の解明としては、五格剖象法を完成されて、天地自然の姿を姓名学の中に模写されたのでした。姓名の良否は数のもつ構造と波動によって左右されるということでした。姓名の文字の画数の組み合わせにより、その運命を解明してゆくという手法です。
 この数霊思想は私のものの考え方に対して、徐々にではありましたが、大きな作用を及ぼして参ったと思います。それはより端的にいえば、姓名学云々ではなしに「数霊」そのものに対する信仰めいたものが芽生えて来たということです。
 熊崎師は『・神聖典(ちゅしんせいてん)』の中で、日本神道の数霊の理念について言及されておりましたが、この部分の記憶が後日の私の霊術解明、神術体得に決定的な意味を持つことになったのです。日本神道の数霊思想の開顕―、
 「との、みゆく、ちゆきや、の、いむなやみ、るしみを、く」(傍点=数霊)
の紹介は私に強いインスピレーションを与えました。私はそれ以後このことばを口癖のようにつぶやき、数霊の研究に入ってゆきました。この数霊思想に触れてその根底を探ることによって日本神道の真理を垣間見ることになったのです。数霊は神霊界の理念であることを知り、かつ「理解」したのでした。この道筋も竜神界皇臣(すめのおみ)様のご指導にかかるものでありました。
 二つ目の「音霊思想」について、熊崎師はアイウエオ五十音に言及されて、ア行、カ行、サ行などの行別に音の性格や機能があることを述べておられましたが、このような音意の存在にも大変興味をひかれ、新しい認識の世界へ足をふみ込んでゆきました。
 「ア」音に開く意味があり、以下の五十音で様々な意味の展開がなされて、秩序ある能(はた)らきがなされ、「ン」でしめくくられて終わるという構造と能(はた)らきに、宇宙の神秘に触れた感覚を得たのです。この時教えられた音霊思想は、日本神道の言霊思想を理解する手がかりとなりました。
 その後の私は数霊と音霊を具体的に理解するために、暫くの間、姓名学の判断による体験学習を重ねました。そして、姓名学の実際の上で数霊と音霊がかなり作用していることを知りました。
 また、数霊のこと、音霊のことについて大変関心を持つようになり、大石凝真素美師や宇佐美景堂師の所説にも大きく学ばせて頂いた次第です。
 現在の私は、数霊思想、音霊思想については、運命学、姓名学の次元ではなしに、神霊的次元で信じ、理解しつつあるように思います。さらに端的に申しますならば、数霊、音霊の主義の中で生きていると思っています。
 神霊主義の実践論の上では数霊、音霊のひびきは神界と直結したものになり、鎮魂してひたすらに数と音(五十音)をお唱えするときは、やがて高い次元の神霊と交流することができると思います。
 熊崎師の教示された数霊思想、音霊思想というものは、私にとって極めて大事な神道鉱脈への開眼をもたらしてくれたのです。

教派神道の学習・天理教修養科

熊崎健翁師の流れの中で易学を学び、その道程で日本神道の深さをある程度成長した眼で認識しはじめた私は、日本神道の内容をより広く、更に深く知りたいと思いました。そのような折、お世話になっていた知人から天理教の話を聞き、修養科という学習コースに誘われたのです。
 当時の私は天理教に対しては好悪二つの感情を持っていて、すぐには応じかねたのでしたが、熱心な勧めもあり、教派神道の代表的存在である天理教を正しく理解したいという願望も芽生えてきましたので、思案の末に修養科へゆく決心をしました。
 私はそれから三ヶ月の間、天理教の某大教会の所属詰所に宿泊して、多くの修養科生と共に学習、実習の生活をおくりました。教養コースは「お席を運ぶ」ことでした。これは天理教理についての講義を受けることです。単位を一席、二席、三席……というように取得してゆくのです。非常に体系的に組まれていて、学習し易く、また世上のような試験がないので、安心して聴講できました。先生方の大部分は大変親切で、寛大でした。
 私が天理教修養科で学習した最大のものは、その神観でした。教祖中山ミキ様に憑(かか)られて出現なされた「天理王命(てんりおうのみこと)」様なる神と、十柱の神々の存在と能らきの解説は大変興味あるものでした。それは宇宙創造期の神々の物語であり、私は太古のロマンを夢見ながら、聴いていました。泥海古記のお話は、多くの修養科生はチンプンカンプンであると申していましたが、私には宇宙創生の頃の水火泥土が混沌と入りまじり、もんがたなきところから、大変な努力をなされて竜神大神様方が宇宙を創造なされてゆくプロセスは、誠に大変なことであったと思いました。
 天理教に顕われた神は、”天の将軍”と名のられ、また、”元の神”とも申されており、”天理王命”とも称されております。この神の実体については、教師の中にもおわかりでない方もあったようですが、日本神道を理解なされておられる方々は、この神が「国常立大神」であることは理解できると思います。
 十柱の神々は一部のご神名に違いがありますが、この神々が神代七代の御事であり、天理の神々は宇宙創造の時の神々がおでましになられたもので、大変な出来事であったわけです。このような大神達が中山ミキ様を通して、三次元界のメッセージをおだし下されたことは、一宗教団体のためというよりも、人間全体に対してなされたものというべきであると思います。(当時の神人、金光大人様・中山ミキ様・出口なお様にかかりておでましになられたのは、国常立大神であります。創造の主神が統治の御代に顕現された意味は大変なものであると思います。私は後日このことを神界にお伺い申しあげてご神慮を知りました。金光教・大本教は悉く国常立大神の顕現の教団であり、一連の神意発現と理解すべきであると思っております)
 私が天理教で学習した次の収穫は「おさづけ」でした。これは祈願と手ぶりによって祓い浄めを取り次ぐことであります。天理王命に祈願し、手で病者を触れることなく、病者の上をなでる形で祓い浄めるのであります。この「おさづけ」を取り次ぐ資格付与は修養科を修了する時点でお許し頂ける仕組みになっていました。所定の学習を卒えて教理を一通り修得したあとで、神聖な神力をお取り次ぎする栄ある資格が与えられるのです。
 この「おさづけ」の効力は、信仰の深さ、強さによって格差があるものと認識されていました。霊格の高い方のおさづけは大変な浄化力があり、そうでない人のものは効力が小さいとされています。私も”道の路銀として”おさづけのお許しを頂きましたが、この効力は神与のものとして今日でも大きな効力を発揮しています。
 私は現在は天理教教団の所属メンバーではありませんが、天理王命として御顕われ給いました「国常立大神」にまつろう者の一人として、汲めどもつきることない神力を果てしなく頂いているのであります。
 天理教における学習は、私の一連の神道開眼の旅路における大きなステップだったと思います。この時期の疑問と納得の反芻(はんすう)を通して、神道神観がようやく確立されていったのでした。さらに、おさづけを通して、祓い浄めの神道霊術(私の用語)の認識を確立した時期でもありました。これらのご指導は悉くご守護神様のご神慮によるものでありました。

弭間俊教(はずましゅんきょう)師との邂逅

それは昭和31年のことだったと思います。私は武蔵小金井の町を足の向くままに散策していました。当時の町のたたずまいは大変閑静でした。大通りから横丁に入っていきますと、玄関に〆縄を張っている家がありました。お正月でもないのにと思いながら近づいてみますと、玄関脇に「霊道洗心教」墨書きされた木札がかかっていました。
 私は暫くその家の前で立ち止まっていましたが、何となくこの家を訪ねてみたい気持ちになりました。そこで、玄関先に立って、”ごめん下さい”と声をかけますと、内から”どうぞお入り下さい”と男の声が返って来ました。玄関の引戸を開けますと、奥の正面に神棚が設けられて、その前に横向きの姿勢で白面白髪の威厳のある老人が座っておられました。そして顔を私の方に向けて、一瞬私の眼を凝視された感じでありましたが、次いで、”お上がりなさい”とやさしい声がかかりました。
 私がまだ挨拶もしないうちに、このご老人は私を歓迎くださっている風情でした。私はおそるおそる、しかし何か親しみあるものの如き心境で座敷に上らせて頂きました。簡略に住所、氏名を申し述べて、通りがかりのところ何となくお訪ねしたい気持ちになったのでお訪ねしたことを率直に申し上げますと、このご老人は微笑しながら、「私は弭間俊教(はずましゅんきょう)です」と名乗られました。そして、急に寛いだ様子になり、「いや、びっくりしましたよ。お前様の顔が玄関に入ってきたときは師匠が来られたんじゃないかと思いました。ちょっと待ちなさい」と申されて、座っておられた机の引出しを開けたり、脇の書籍箱をみておられましたが、やがて一葉の手札型の写真を取り出されて、「これだ、これだ」と私の前に置かれました。そして、写真と私の顔を見比べながら、「そっくりだな、ウリ二つだ」と連発されておりました。これが弭間師とおめにかかった最初です。

お問合せ ご相談者ご依頼の皆様の個別のご事情には審神者の会長笹本宗道が真摯に対応させていただきます。