宇宙神道 正神崇敬会の書籍の内容紹介 「神仰のパワー」 笹本宗園著 第二章 その1

「神仰のパワー」
目次     
第一章     
第二章 その2     
第二章 その3     
第二章 その4     
第三章     
第四章

神仰のパワー」 笹本宗道著 第二章 その1 (本文に一部加筆修正が含まれています)

第二章 御教え その1
活力=パワーが重要

一、体の面

よい考え、正しき事柄、善意善念に基づく行為であっても、パワーがないと負けてしまいます。
本日は、人間にとって大切な活力について考えてみたいと思います。
まず、人間の体のことからお話に入りましょう。家には、それを支える柱がありますね。人間の柱は骨格ですが、その骨を支え、内臓を保持し、運動動作(体を動かす)できるのは筋肉のおかげです。ですから、一定レベルの筋力は大切です。
また、体温(熱)を生み出す働きがありますが、活力の低下している人は大抵筋力も低下しているか、弱い人が多い。うつ向き加減の人が多く、どうしても弱々しい姿に映ります。
老化は自然の摂理であり、年をとると誰でも足腰が弱くなりますが、これを遅らせることは可能です。
そのためには、ほどよい鍛錬が必要です。スポーツ選手を除いて、人間の体は本来そう多く走るようには作られていません。
足腰の鍛錬は簡単なことで、走るよりもむしろよく歩くことの方が自然であります。
スポーツ選手や血気溢れる若者は、走ることと筋力トレーニングを基礎にして、レベルに合った技術練習をすればよい。いい汗を流すことは尊いですね。
しかし、これは一般人向きではありません。普通の人は、散歩かせいぜい軽いジョギングで充分。
日常の歩く習慣と合わせて、一日一回全身を伸ばすストレッチング(柔軟体操)をするとよいでしょう。疲労を翌日に残さない程度の、適度な筋肉への刺激が大切です。
超回復と言って、体を動かして筋肉に刺激を与えると、筋繊維がだんだん太く強くなります。
また、骨にも刺激がいきますから、その密度が増して丈夫になります。体を動かす原動力である筋肉をエンジンとすると、燃料が必要ですね。それがブドウ糖(グルコース)です。
呼吸により血液中にとり込まれた酸素で、このブドウ糖を燃やして筋肉を動かすのですから、食べ物はとても大事(参考=体内の酸素の三分の一は脳で消費されます。脳細胞のエネルギー源もブドウ糖です。三大栄養素とは蛋白質=人体にとって一番重要な構成要素、脂質・糖質=主にエネルギー源、これにビタミン=調節役の働き、と微量の鉱物質、及び六~七割を占める水分によって、人体は構成されています)。
食生活が砂糖や脂肪分摂取過多の西欧風に片寄っていると、長い年月の間には血管の中にコレステロールがいっぱいたまって、お粥(かゆ)のように血管の内壁にこびりついて粥状硬化(じゅくじょうこうか)、つまり動脈硬化を促進してしまいます。
これでは筋のみならず、末端の細胞に酸素と栄養が届きにくくなり、逆に老廃物が体の各所に停滞してしまいます。
「人は血管から老いる」という医学の有名な言葉があるように、動脈硬化は年齢と共に次第にすすみます。
血管壁がコレステリン(コレステロール)の沈着によって、その内腔(ないくう)が狭くなります。
狭くなった血管の中を同じように血液を流さなくてはなりませんから、血圧は上昇し、当然心臓にも負担がかかります。
また、血管自体にも栄養が運ばれにくくなり、古いゴムホースのように弾力を失って弱くなってしまいます。
魚介類や菜食中心の和食は、日本人の体に一番合っています。栄養のバランス(調和)がとれており、健康への配慮から、ここ数年来アメリカでも日本食が大変ブームですね。
このようなわけで、食生活や運動不足、或いはストレスが元で、成人病の下地を作らないように、中年期からは気をつけなければなりません。
人間のパワーを肉体レベルでみて、ある一定レベル以上の筋力や、その活動を支える食生活が大切であることは分かりましたが、今度は精神面から見て参りましょう。

ニ、精神面

人間には目標が必要ですよね。向上心をもって、一日一日の努力を継続してゆくことによって、遥か彼方に聳(そび)えていた山も、一歩一歩近づいてきます。
しかし、この内的パワーたる熱意の継続はなかなか難しい。
いつも晴れた日ばかりではありません。雨の日や風の強い日があり、夏の酷暑もあれば雪の日もあります。
また、いつもベストコンディションとは限らないからです。
「ああ、厭になっちゃうな。いくら歩いても、一向に山は近づいて来ない。いっそのこと投げ出してしまおうかな。目標を変えて近くの丘に登って良しとしようか。それともここまで来れたことで、いいことにしてしまおうか。
いやまてよ、一番いいと思って進んできたルートが実は遠回りだったのかも知れない。とにかく少し休んで、一晩寝てからよく考えてみよう。もっと他にも道があるかもしれないし……」
充分休むと冴えて、見晴らしがきくようになります。元気も出てきます。
「どうやら歩んできた道程は誤ってはいないようだ。たとえ回り道をしたって先へ進んでいるんだ。
考えてみれば、一直線に山に行こうとしたら谷を跳び越えなければならいし、崖をよじ登るということだし、激流も泳いで渡らなくてはならない。そんなことをしていたら、とてもここまで辿(たど)りつけたかどうかも分からない。
そうだ、あわてずにゆっくり急ぐことにしよう。野に咲く花や木々の緑といった大自然の営みにも目を向けて、楽しみながら歩くことにしよう。何も足の速い人を無理して追いかけなくたっていいじゃないか。
車に乗って行く人や、隣を歩いている人を必要以上に意識しなくたっていいじゃないか。
休んでいる間に、後から来た人に追い越されたって、今度は彼が休んでいる間に先に進むのだし、まあ焦らずに心に余裕をもって、楽しみながら進むことにしよう。
途中で投げ出さなければ、いつかは辿りつくんだから大丈夫。よし、いい意味で開き直ってしまえ」と、まあ、こういう考え方も大事ではないかと思います。
目的地に近づく道のりは、決して平坦な舗装道路ばかりではありません。上りもあれば下りもある。回り道や迷い道、立木や岩を避(よ)けながら進むこともあるでしょう。
同じ時代に時間と空間のある一定部分を共有し合い、必要性と縁の深さに応じて触れ合うことができる私たち人間の一人ひとりが、実は誰一人として同じ道を歩むことはないのです。
そして、目標とする山は御嶽山だという人もいれば、富士山をめざしている人もいる。中にはアルプスに登るのが目標の人がおられるし、現時点の課題は天城山の方もございましょう。人間にはその時々に於いて、与えられた使命があるのです。
「なぜ山に登るのですか」の問いに、「そこに山があるからです」「自分の足で登りたかったのです」「好きだからです」等の答えが、きっと返って来ます。
好きで頑張ることはとても大切です。それは傍目からすると、趣味嗜好の世界のように見えますが、実は違います。
それぞれの人が判断して成し得る努力は全体の十分の一、残りの十分の九は神の御心によって使命を与えられ、歩まされているのが真実の姿なのです。
人生には目標が必要です。自分が好きで、その頂きを窮めたい山とは、いったいどれなのか。確固たる目標設定が決ったならば、その人の人生は必ずや開けてまいります。
諸々の事情から、途中でコースを変更するにしても、意志の強いタイプの人であれば、必ず力強く歩まれるはずです。
人間、好きでないと、熱意と努力の継続は難しい。好きであるということは、各人がそれなりにその分野の素質があるのです。また、使命感や責任感といった要素も目標達成に不可欠です。
いざ山に登るには、充分な装備、経験と体力がなくてはなりません。
実力に合った山から一つづつ登って自信をつけて、より高い山をめざしましょう。
眺めているばかりではなく、実際に登ってみれば、次の目標がはっきりと見えてきます。この時には、一つの頂きを征服したんだという満足感だけではなく、新たな目標に向ってのファイトが出てくるはずです。
前向きな心がけを忘れずに、たとえゆっくりであろうとも正々堂々と着実に毎日の実践をする人は、輝いています。正神界に生きる人です。
注意点は、張り切り過ぎて無理を重ね、疲れてしまうと周りがよく見えなくなってしまい、迷い道に入りやすいことです。また、ダウンしてしまっては、それこそ魔神邪神の思うつぼです。
ゆっくり急いでミスを少なくし、その時々の反省によって精神の向上を計り、日々好日にしましょう。
いつも認められる日ばかりではありません。たとえその日は人には分かってもらえなくとも、自分なりに完全燃焼できた日はよき日です。御中主様がよく御存知です。時には、思いがけず世間や上司、友人から称賛されることだってあるはずです。
空念仏や瞑想ではなくて、努力して完全燃焼したときに心の内から湧き出てくる喜びの方が遙かに純粋で生々としていて、生きている人間にとって大切です。それは縁有る方のプラスになり、成長発展を伴う幸福感だからです。
正神につながる善念がもとの前向きな行動であればあるほど、より内から活力がほとばしり出て来ます。
くよくよ悩むのは一時のこと。いつまでも迷っていないで、良いことはとにかく実践して下さい。それが一番活力を生み出す原動力になりますから。
あなたの人生の明るい未来は、今日一日の実践の積み重ねにかかっています。正しい心がけと勇気を持って行うその行動に対し、神様は必ず御守護下さいます。
正しく神々につながればつながるほど、神気(御光)を沢山戴けるようになり、圧倒的なパワーが出てきます。
そのためには、神様に心から感謝する日々であることです。そして神を信じきる強い信念が必要なのです。

神と生命

超無空の無大御神(ムノオオミカミ)の御意志で成生展化、お生まれなさられた創造の神は、まず満天に美しい星々をたたえる大宇宙をお創りあそばされました。
次にこの地球をお創りになられ、地上に十柱の神界を使いとして下されました。地上の火と大気と岩と水に、それぞれ親神の独立した意思と力をお与えなさり、ついで生命が誕生したのです。
神はこの命に対して深遠なる愛と試練をお与えになられたのでありました。
また、時間を与えたのです。高次元の神界にあられては、人間の認識する時間なるものは存在いたしません。自在なる変化のみにおわします。
時間を与えられた霊的生命は、次に生存の原則と魂の輪廻転生(りんねてんしょう)という二大法則のもとで成立し、進歩向上する定めをいただいたのでした。
生存の原則には生物体としての進化の法則と、自然淘汰の法則が組み込まれております。
人間の魂は平均すると五千回程生まれ変っている訳ですが、人間として生まれる以前の原始生命体から獣までの生まれ変りの回数を合計いたしますと、数十兆回生まれ変っているのです。
これは、驚くべきことに人体を構成する細胞の数にほぼ匹敵します。
現在の私たちの姿は、私たち自身の過去世と、先祖の善行と罪穢れの積み重ねの結果として存在しているのです。
創造神よりいただいた御魂の完成のためには、数十億年の歳月と数十兆回という途方もない回数を生まれ変り死に変りして、最終的にはキリストや仏陀、孔子、空海のような穢れなき清らかな御霊となって帰神するその時まで幾度となく、くり返しくり返し輪廻させ続けられるのであります。
再生は、神の命によってやり直しさせられるということです。
現世に生まれて来るのは、振り出しに戻って過去世のやり残しの果たしをするためであります。
穢れなき輝ける御魂となり、自己の使命を果たすべくこの地上を照らし、神の御意志を実現して初めて御霊(みたま)の完成がなされ、高次元の神界へ上ることができるのです。
神道には「中今(なかいま)」という教えがあります。日々をその日その日を大切にして、清らかで明るく正直に素直に生きぬき、生きているうちに魂を高い次元に開花させ、地上の繁栄に貢献すべく他を生かし、己れを生かして喜びと輝きの世界に生きぬいて、帰神(神の御元へ帰ること)が許されるのです。
今生(こんじょう)を最終の回として再び生まれてくることのなきように、正神の御教えに従って奥の奥の穢れまで祓い去り、己れを磨き高めて、天命を全うしましょう。

神の道

根元神である無大御神の御意が発動なさられたお姿が、大天地明大御神(オオアメチアケノオオミカミ)におわします。
そして大天地明大御神が具体的に発動なさられたお姿が、有(う)の神の長(おさ)たる天之御中主大御神におわします。
旧来の日本神道に於いては天之御中主大御神、或いはもう一つ前面のお姿である国常立大御神を根元創造の神として認識し、その崇敬からスタートしております。本会で1985年に解明を果たすまでは、奥の根元神の存在は知り得なかったのであります。
総てが無から始まるという信仰は、南洋諸島の民族宗教の中や朱子学の中には見られておりました。
しかしそれらは、直接お働き下さる統治の神々の守護が弱かったり、哲学的認識や存在論の領域から脱皮できないでいたりで、充分ではありませんでした。
世界の宗教界で初めて、笹本宗園前会長に高次元神界からの啓示が下り、道開きをなさられ、無の神界の扉がいささかではございますが開かれたのであります。地球上で新しき御世が始まっているのです。
無大御神は悠久の歳月をかけてお働きなさられ、創意・創造・統治の御世から、神理完成の御世へ向けての御守護を、奥でなさられておいでです。
従来の神論認識から見ますと現在は神道第三期、統治の御世でございました。
すでに無大御神が発動なさられ、前面の国常立大御神を遣わされて、統治神の天照大御神と共にこの世の再建を図り始めておられます。
いかに魔神界・邪神界が暗躍したとしても、正神界につながる人々を妨害することはできなくなってきているのです。
私たちが正しく強く正神界につながるためには、これまで以上に御魂磨きに励まなければなりません。
日月神示(ヒツクシンジ)にも示されているがごとく、魂の洗濯をしてその浄化向上を計り、私たち一人ひとりが、真に世のために働かなければなりません。
さて、統治神の長(おさ)たる天照大御神は、宇宙の最高指揮官の神としてお働きなさられておいででございます。
太陽系宇宙の太陽神として小宇宙の中に於ける太陽神としてお働きのお姿を認識し、その神名を天照大神とお唱えするのはよろしいのですが、大きな視野に立脚して全宇宙を統治なさられる神として、正しくそのお姿を認識させていただくときには、大天照大御神とお唱えするのが正しいのです。
世紀末を迎え、魔神(サタン)の悪行は目に余るものがございます。
魔神退治のためにここ正神崇敬会では、国常立大御神が天照大御神、月読大御神、佐田彦大御神と御一体となられてお働き下さるのは周知のとおりです。
いと恐れ多き事実に直面し、神界の取次者として己れを慎しみ、与えられた使命に全力を尽くす毎日でございます。
ところで、従来の神道に於ける優れたところと言えば、展開してお生まれになった多くの神々の存在をよく認知し、世界中のどの宗教よりもよく把握している点にありました。

以下省略

神道・仏教・キリスト教の概要

一般に信仰、宗教は通る道や表現方法、形態の違いこそあれ、目標とする到達点は一つであると言われます。
そのとおりではありますが、教団、教派宗派、個人的霊能者の次元の高低はある訳ですから、玉石混合しない注意が必要です。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教・神道・ヒンドゥー教・道教……と世界には様々な宗教があります。
学問的には、自然宗教・創唱宗教・部族宗教・世界宗教・一神教・多神教・汎神教、といった具合に分類されます。
国内には18万5千余りの宗教法人が存在し、その宗教人口は総人口を越え、2億人にものぼります。
どうしてこのようにたくさんの宗教がこの世に存在するのか、疑問に思われる方も多いでしょう。
しかし、それは自然なことなのです。いろいろな人がいるから、一人でも多くの人を救わんがために、それらのすべての道を神がよしとして、お与えなさられたものだからです。
それぞれの宗教は、個性の違いこそあれみなそれなりに尊いのです。一人ひとりが通る道は違ってよいのです。それぞれの立場で、皆が神聖な高い世界をめざしているのですから。
ただ、数ある宗教の中には邪教もありますし、穢れや濁りの強い団体もありますから、よく見きわめて正しい信仰をなさるように注意してほしいのです。
社会は昔と比べようもなくたいへん便利になりましたが、一方では複雑専門細分化して止(とど)まることを知りません。
宗教と科学は車の両輪であるとよく言われますが、宗教家はその使命をよく自覚して、時代に合った生きた救いをしなければなりません。
私は神与の祓いによる救霊活動と、縁ある方々の霊性の向上をはかることが、己れに与えられた使命であると自覚し実践している一宗教家でございます。この頁をお読みいただき、皆さんの学びに些(いささ)かでもプラスになれたならば幸いです。

〈神道の概要〉

神道は日本の民族宗教です。農耕民族である私たち日本人の従来の神道には明確な理論教義がありません。
712年(和銅5年)に編纂された古事記と、720年(養老4年)に完成した日本書紀を中心に古語拾遺、宣命、令義解、律、延喜式、新撰姓氏録、風土記、万葉集といった古典を神典としていますが、その活動は主に儀礼が中心です。それが自然だったからです。
大自然の恵まれた環境のもとで育まれた私たち日本人の本来の精神構造は、清潔で、陽気で、純朴です。
大自然でお働き下さる御神霊との一体感が強く、素直に自然のうちに神に手を合わせ、頭(こうべ)をたれることが出来たのです。
神様は無条件に高い存在ですから、恐れおののきながら心から敬ったのです。
神様に参拝するには襟を正して礼を尽くし、きちんとご挨拶しなければなりません。したがって、儀礼が重視されてまいりました。神代の時代から、神を敬い、実践してきた伝統の血は、今も脈々と私たちの中に流れているのです。
明治時代の前後には、教えを強化した教派神道が誕生致しました。神道十三派の中で、禁厭(きんえん)派に分類される黒住教、金光教、天理教を始め、その流れにある大本教、世界救世教、生長の家、白光真宏会、真光などみな、奥に国常立大御神の守護をいただく団体であります。
新宿区下落合にある財団法人日本心霊科学協会の創立に貢献された浅野和三郎先生は、出口王仁三郎先生と歩まれた、大本教出身の方でありました。心霊科学協会は、アカデミックな権威ある公平な立場で心(神)霊世界の学びに適した場であると言えるでしょう。
また、日本サイ科学会は、超常現象や神霊現象等を更に自由に意見交換して学べる団体です。神秘な世界とはなんぞやと関心のある方、興味をお持ちの初心者は、それぞれの心に応じて門戸をたたかれるとよいと思います。

〈仏教の概要〉

貪(むさぼ)り、怒(いか)り、痴(おろか)さにとらわれている人々の救済のため、2500年以上の昔にお生まれになられた釈尊を開祖とする仏教が、日本に伝来したのは538年のことです。
欽明天皇の御世に、百済の明王から仏像や経文が贈られてきたのですが、当時の社会に無条件に受け入れられた訳ではありませんでした。
仏像礼拝に反対する者たちが、仏像と経文を難波の堀江に流し、伽藍(がらん)は焼き捨てられた記録が欽明記に見られます。
欽明天皇の第二皇子であった三十代敏達天皇が仏教を迫害したのに対抗して、蘇我馬子は対立する物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を殺害。法興寺の建立と仏教の興隆をされたのでした。
やがて、寛容な日本人の生活の中に仏教がとけ込んで行きました。仏教も神の教えの大切な一部を担っています。神仏習合した部分とともに、日本仏教は独自に展開していったのでありました。
六年間の難業苦業の末、お釈迦様が菩提樹の下で開かれた悟りと教えとは、次のとおりです。

一、 諸行無常――万物は流転する
     花は散り、人は老いるという事実が示すように、この世に常なるものはなし。
ニ、 諸法無我――因果律
すべての物事は原因があって結果があり、結果があれば必ず原因がある。
三、 涅槃寂静
種々な欲にとらわれた執着心を取り去れば、そこには静かな境地が訪れるとの教え。

これらはみな真理の尊い教えです。また、仏陀は正しく生きるための八正道という教えを残されています。

八正道――心の尺度

一、正見……正しく物事を見ること
ニ、正思……正しく思うこと
三、正語……正しく語ること
四、正業……正しく仕事をすること
五、正命……正しく生活すること
六、正進……正しく道に精進すること
七、正念……正しく念ずること
八、正定……正しく反省、瞑想すること

開祖釈迦を筆頭に日本の空海、最澄、法然、道元……みな立派な先哲、救世であります。
仏教の優れた点は、穏やかに人間根元の教えを体系化したところにあります。親と先祖を敬い大切にする教えと伝統は、過去・現在・未来永劫にわたって人間に必要欠くべからざる尊い道であります。

<キリスト教の概要>

世界の三大宗教の中で、信仰者数の頂を窮めるのはキリスト教です。日本には百万人弱の信者がおられます。
二千年前に誕生したイエス・キリストは、神の命を受けて地上に奇跡を起こされ、尊い教えをたくさん残されました。
砂漠で生きるイスラエルの民に、神は律法と予言と加護と試練を与えたのでした。キリスト教の神と神道の国常立大御神とは同一神であり、呼び名とそのお働きが少し違うだけです。
ここにキリスト教の崇高な教えのいくつかを紹介してみたいと思います。
「天にまします我らが父よ。み国がおとずれますように。み旨が天に行われるとおり、地にも」行われますように。きょうの糧をきょうもお与え下さい。私達の負い目をお許し下さい。同じように私たちも、私たち自身に負い目のあるを許します。私たちが誘惑に陥らないように導き、私たちを悪からお救い下さい」(マタイ伝6・9-13)
また、キリストは神に祈る基本は心を込めて行うことが大切であると、次のように教えられました。
「汝が神に祈りを捧げしとき、異邦人のごとく、くどくど言ってはならない。彼らは言葉数さえ多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。汝の父なる神は、汝が願う前に、必要とするものはご存知なのだから」
イエスの福音活動は30歳ころから始まり、2~3年の間に多くの教えを残されました。山上の垂訓に代表される教えを二つほど記してみます
「こころ貧しけき者は、幸いなるかな」
「狭き門より入れ」
これらの教えは、目に見える物質や金銭、諸々の誘惑にとらわれていては、真の幸せと安らぎはないということを端的に述べているのです。
生きる上での誘惑は多いが、物質的な執着心が強いと幸せはない。見える世界よりも見えない世界の方が遥かに大きく、本当の幸福がそこにあるのです。足るを知り、感謝の心で暮しなさい。己れの持てる力を精一杯努力して正々堂々と発揮しなさい。そうすれば総ての人がみな幸せになれるのです。山上の垂訓を通して、国常立大御神はこのようにおっしゃられているのです。
さて、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、苛酷な自然環境に生きる遊牧民の信仰でありますから、契約をたいへんに重視します。
国際化した現代社会に於いては、口約束だけではなく、きちんとした契約が今後ますます大切になってきます。
契約は、国常立大御神様の厳しい教えであります。神は愛ばかりではなく、反面の厳しさも人間にお与えなされたのです。人間が生きる上でどうあらなければならないのかという根元の教えは、二千年を経た今日の日本にも、確実に生きているのであります。

中略

どの宗教の教えもみな神界の許しがあってなされている訳ですから、他教のよい点は学び、自教の欠点は改めてゆくことが、宗教界を初め精神世界の発展につながります。また人類幸福実現という目的を果たすためには、宗教家同志の協力が望まれます。
科学文明は今後も急速に発展しますが、時代が変わろうとも人間の本質に変わりはありません。時代に乗り遅れないよう社会の変化に対応して、生きた人間の救済をしてゆくことが重要であります。宗教家は、よりよい精神世界と社会秩序の構築へ向けて歩まねばなりません。そのためには、正神界の守護と人間のまごころが必要不可欠であります。

霊能と霊性について

霊能力については、信仰者のみならず一般の方々も関心を寄せる処があるでしょう。世の中が安定組織化し、冒険とか変化に欠ける毎日の生活の中で、人は神秘な世界に憧れるものです。
これは、人間が本来持っている精神的欲求であると同時に、社会現象として静かなブームになっています。
そうした中で、五感では捕えることの出来ない世界が現実に存在することを、体験を通して理解認識している人たちが相当数おられるのです。
例えば、霊現象に悩まされたり、たび重なる不幸やアクシデントを契機にして、霊力・浄化力のある宗教家や霊能者を訪れ、妨害している存在を知り、原因となっている悪霊や因縁を排除してもらうことによって、助けられたという体験をあげることが出来ます。
また、さんざん病院巡りをし、ありとあらゆる治療をしたけれども治らず、お祓いや浄霊を受け、その結果として病気が治ってしまった人たちの例もあります。
正神崇敬会にお集いの皆さんだけでなく、知り合いの中にもこういう体験をしている人が案外いるものです。
一般社会通念からしますと、多くの人が支持するところは百聞は一見に如かず、シィーイング・イズ・ビリービングですから、このような話を誰にでも出来る訳ではありません。まず、伝える人が躊躇してしまいます。妙な話に受けとられたり、誤解されては困るからです。自分の場合は救われたけれど、誰にでも簡単に理解してもらえる世界ではないからです。また受けとる側にしてみますと、世の中には常識から外れた変な宗教や、インチキ霊能者に騙された話を耳にすることがありますから、少なからず疑念や警戒心を持つことはむしろ自然なことです。
自分自身も強引な宗教団体の勧誘にいやな思いをしたことがあるし、関心はあるけれども、触らぬ神にたたりなしが賢明と多くの方々はお考えになるはずです
神様の世界や目に見えない霊の世界のことを話す場合、伝える人たちの説得力が問われるところです。
神様に助けていただき、心から感謝して向上心のある方は、日常生活から正しく考え、言葉づかいと態度に責任を持たなければなりません。人格の陶冶(とうや)と霊性の向上を計って、日々努力していかなくてはなりません。まず自己の置かれた仕事に最善の努力を惜しまないこと。そしてよく学び、素直な思いやりある心で人と接することです。
正直者であることです。正直者は決して損はしません。向上心をもって前向きに努力し続ける人に対して、人間は尊敬や信頼の念を寄せるものです。尊敬できる人や誠実な人からの話は、たいていの人はよく聞いてくれるはずです。なぜなら、信用できるからです。
しかし、短期間で他人から信用、信頼される人にはなれません。たとえば会社に就職すると、たいてい試用期間が3ケ月ありますね。3ケ月あれば一通りのその人の人間性や能力、やる気はわかります。3年間継続努力すれば職務上の能力は開発され、会社に実績を作り、同時に社会のお役に立って参りますから、おのずと信頼が出来るのです。
このように人から必要とされ信頼されるには、人格づくりが大切であることがお分かり頂けると思います。御魂磨き(みたまみがき)、即ち霊性の向上に励み、自己完成に近づいてゆくことこそ、私たち一人ひとりにとって一番大切なことなのです。
霊能は、追いかけて身につくものではありません。それなりの霊感がある人はかなりおられますが、自立して極めて難解な神仕えをできる人は、万に一人もいないのが現実であります。霊能は、必要があって神様から与えられるのです。人格を磨く以前に霊能が出たとしても、それを追い求めたならば、たいへんに危険なことであり、それこそ低級霊の虜(とりこ)になってしまいます。常道を逸しない注意が肝要であります。神様はこうおっしゃられます。
「霊能開発をしたいのであるならば、それよりもまず先に必要不可欠な霊性の開発に励み、正しい霊道を開くのですよ」と。

神理の実現へ向けて

十月十日は、国常立大御神様が大いにその御神力を発動なさられる日です。そして、御分霊として前面でお働き下さる佐田彦大御神様をはじめ、稲荷神界の神々に対し、日頃の御守護を心から感謝奉るのに最善の日であるのです。
さて、物事が成ること、充分に事足りるには、天の時と地の利、人の働きと和が必要であります。人の弛まぬ精進努力は、物を造り出す、新しい世界を創造するための不可欠な構成要素でありますが、そこに神の御意志が発動し、反映してゆかないことには成立しません。したがって、よりよく向上するには、一人ひとりが正しく神通してゆくことが一番大切です。そのお手伝い、御案内役として私の行がある訳ですが、皆さんの向上のお役に立てれば本意とする処でございます。
人の一生は学びの連続ですが、ともすると知育の偏重甚だしい昨今であります。我が子可愛さ余って無理やり学習塾へ走らせたり、必要以上に過激な受験戦争に巻き込んでしまったり。十月十日は体育の日として、日本国の休日となっております。知育と体育には、どこの親もそれなりに力を入れるものですが、一般に徳育が霞んでしまって久しいと言われます。人間社会の発展と繁栄のためには、この三つの教育は不可欠なファクターであり、その上に霊育がなされたならば、広く社会全般と人類の幸福実現に寄与し、おのずとそれは個人の幸せにつながります。知育、徳育、体育に霊育も入れ、身も心もより完成に近づくよう改めて心がけなくてはなりません。
さて、少し違った角度からお話を進めてみたいと思います。数というもの、数字は合理的な神意の表態であり、それによって総てではありませんが、存在を表現することが可能です。言葉の方がより適切な場合もあります。しかし、これにも同様、限界はあります。
さて、数は0と1とでその働きを満たすことができます。面白いのは、正確無比な数の世界でさえ、割り切れないことがよくありますし、虚数(ウソの働き、ウソの答え)や解無し(答えがないこと)、複数解(正しい答えが一つだけではなく複数存在する)があることです。神様は仲々味なことをなさいます。
数の働きとはいったい何なのかと申しますと、それは根元神の無大御神様と大天地明大御神様の御意志の表われの一つであります。つまり、無大御神様と大天地明大御神様に創造を任された、国常立大御神様のお働きそのものなのです。0と1、無の神と有の神の御意志は、時間と空間を超越して発動なさられます。
天地創造の神におわします国常立大御神様の一歩前面では、佐田彦大御神様を長として稲荷神界の神々様が発展と繁栄の御守護を下さいます。後記神々のお姿とお働きの項で解説致しますが、創造の世界の初期、すでに魔神界が誕生し、魔神は我々の魂の中に入り込んでいます。
正邪が対立、競争、協調、融和、融合し、粘りに粘って、試練を通して、やがては高次元の世界で開花するという神仕組の中で私たちは生かされ、修行させられております。
繁栄の影には、必ず魔と邪が働きます。よりよく向上し繁栄するためには、徹底した魔神・邪神・業因縁の浄化が不可欠であり、同時に、個人レベルにおける一層の御魂磨きが望まれます。今後、十年間で人類社会は大きく変化します。御神意を芯から理解して、日々の勤めに励み、私たち一人ひとりがその使命の実現へ向け、全力を傾けて努力してゆかなければなりません。

神理の祈り(一)

平成元年五月五日、「皆が幸せでありますようにと祈りなさい」との啓示が、十神界より下りました。
神界よりお示しいただいた尊い祈りを、皆さんにお伝えしはじめて五ヶ月が経過しました。
十月十日には、「皆が幸せでありますようにと、心から祈り、実践する者を我(われ)は救済する。このことを汝(なんじ)多くの者に取次げ」と、国常立神界よりの御神示を賜わりました。
これは大変なことが起こったものだと、畏れおののきながらも深く感動し、人身救済を果たしてゆかなくてはならないという私に与えられた使命を、改めて強く認識させられたのであります。多くの方々にこの最善至高の祈りを知っていただくため、紙上にてお伝えさせていただきます。どうかよくご理解の上、日々実践して下さい。
「皆が幸せでありますように」と、心から祈るのは、大変に難しいことです。なぜなら、多くの人は自分のことで精一杯だからです。また、他人より先に、自分と身内が救われればいいんだから、あとの人のことはどうだっていいじゃないか、という目先追いの人が世間には大勢います。そして、人間社会で生きていく上で、利害が対立することがしばしば出て来るからです。或いは、文化、国家、民族、言語、慣習、趣味嗜好、考え方の違いなど、様々な要因があるからです。
本来、神は万人に平等に御光(みひかり)を投げかけておいでなのですが、どうして世の中に不幸や不公平が起こるのでしょうか。例えば、人は生まれながらにみな違っていて、親を選んで生れてくることは出来ません。同程度の能力を有する何人かの人が、同様に努力しても、同じ様な結果が出るとは限りません。
心正しく生きるよう努め、特に人に迷惑をかけたりはしていないのに、なぜ、突然の不幸が襲いかかったりするのでしょう。
裕福な家に生まれ、さしたる苦労もなく幸せな人生を歩む人がいるかと思えば、人の何倍も努力しているのに仲々報われない人もいる。なぜなのでしょうか。
先祖の徳と罪とが子孫に相続される訳ですが、多くの人たちは財産に対しては羨望の目を向けるものです。しかし先祖が積んだ不徳に対する認識は不充分です。先祖が犯してきた罪が、因縁となって子孫に災いするなどとは、一般に知る術もありませんし、前世で犯した罪が、因縁(カルマ)となって障害になっているなどとは、夢にも思わないことでしょう。
しかしながら、これらは厳然と存在する事実であります。五感で認知できない憑依霊の障りや、今世犯した罪穢れ、或いは自我といったものが、御光を遮弊してしまっていることも、芯から自覚するには体験が必要です。因縁は掘り下げていくとたいへんに深いものであり、生きてゆくことも、人間それ自体も罪深いものです。
自力では仲々解消できない因縁浄化には、高級神霊のお力をいただかなければなりません。それと共に各人が出来る最善至高の行として、神理の祈りがあるのです。
「皆が幸せでありますように」と心を込めて祈り、考え、語り、行動実践してゆくこと。祈る人の心の広さ、深さ、温かさの悟りと実践の段階に応じて、より多くの神の御守護をいただけるようになるのです。
日々、一心に祈り実践する。その継続努力によって、御魂の浄化向上が計られます。人類万物が調和融和する地上天国建設へ向け、正神と共に歩もうではありませんか。

神理の祈り(二)

(※注釈 神名を拝唱する上でのご説明です。一部の教派の神道を除いて、神道一般ではアマテラスオオミカミのみを大御神とお唱え申し上げておりますが、正神崇敬会では三貴神他、古神道の神格の高い神々に対しては、大御神とお唱えする習いとなっております。
また、祝詞を神詞と・高天原をタカマガハラ、タカマノハラではなくタカアマハラと・祓へを祓いと表現するしきたりともなっておりますので、前もってご説明させていただきます)

「天照大御神(アマテラスオオミカミ) 月読大御神(ツクユミノオオミカミ) 建速素盞鳴大御神(タケハヤスサノウノオオミカミ) 佐田彦大御神(サダヒコノオオミカミ) 国常立大御神(クニノトコタチノオオミカミ) 天之御中主大御神(アメノミナカヌシノオオミカミ) 大天地明大御神(オオアメチアケノオオミカミ) 無大御神(ムノオオミカミ) かんながらたまちはえませ
正神界の神々かんながらたまちはえませ
私が過去世現世(かこせげんせ)に於いて犯せし罪
並びに先祖が犯せし罪 申し訳ございません
許し給え祓い給え清め給え

(朝拝)

日々の御守護を賜わり誠に有難うございます
御守護神様御守護霊様誠に有難うございます
私は今日一日を大切に励みます
どうか見守っていて下さい
皆が幸せでありますように

(夕拝)

本日も御守護を賜わり誠に有難うございました
御守護神様御守護霊様誠に有難うございました
皆が幸せでありますように」と、毎朝夕心を込めて真剣にお唱えして下さい。

まず初めに、神様にお詫び申し上げることが大切です。なぜなら、人間は生きてゆく上で、多くの罪を犯しているのですから。
「私は常識的な正しい生活をしているのに、どうして神様にお詫びしなければならないのでしょう」と、思う方もおられることでしょう。
反対に良く考えてみると、生きるのは大変に厳しいことであり、自らすすんで他人に害悪を加えたくないけれども、否応なく良心に反する行為をせざるを得ない多くの現実があることに、気づかされるはずです。
良心と愛の行為に生きようと思っても、不完全な人間社会では、ある面で妥協せざるを得ません。したがって厳密には、何一つ悪事を働かない人間は、誰一人存在しないのです。人間、知って犯した罪よりも、知らずして犯した罪の方が遙かに大きいものです。だからこそ、無条件に神にお詫び申し上げることが第一に必要なのです。
次に、神様への感謝が大切です。私たちの肉体は両親を通して与えられ、魂は神様にいただいたのです。そして、神の命(めい)によって生かされているからです。
信仰心のない人たちは、神仏に生かされているのではなくて、自分は生きているのだと思っています。しかし、それは間違った考えです。それを分かりやすく説明しましょう。
例えば、自分の意志で生まれてきた人は、誰一人おりません。息をするのに、生命をつなぐためと思って呼吸している人もいません。食物を消化吸収して生命を維持することも、しようと思ってできるものではありません。
私たちは、それぞれに果たさなければならない役があり、使命があるからこそ、この地上に命(いのち)をいただいているのです。大愛をもって生かして下さる神への感謝は、幸福への近道であります
その上で、神理の祈りを実践して下さい。寛大な心で他の幸せ、その人なりの向上を祈ること。その愛と勇気の実践に対し、神様は必ず御守護下さるのです。
「皆が幸せでありますように」と、心を込めてお唱えする神理の祈りが、現状で困難に直面している人にとっては仲々難しいことです。また、狭い心の人や因縁深い濁りの強い人にとっては、たいへん難しいはずです。そして、寛容な心の方々でも、毎日心を込めてお祈りすることは難しい。
しかし難しいからといって行動しないのでは、進歩はありません。神理の祈りは神の御心そのものであり、愛の光であります。その高次元の御意志に、私たちの想念を近づけてゆくこの幸せの祈りは、正に最善至高の行であるのです。
自らを疎(おろそ)かにせず、人格霊性の向上(御魂磨き)に励む日々であらねばなりません。目の荒い次元で邪神魔神共々修行させられている人たちは、気の毒でこそあれ、憎んだり恨んだり裁いたりせず、その人なりの向上を見守り、正神の道を歩めるよう祈ってあげることです。
「心の器を広く深く、そして厳しいけれども温かくして、無限の向上の道を歩みなさい」と神様はおっしゃられます。

※正神界の神々から賜る強力な祈願お祓い浄霊パワーと運命の誘導力強化の御守護御導きを賜り、ご相談者とお願いされた方々が問題解決と心願成就を果たされた実例は、すべてノンフィクションの実話でございます。神通霊能者の笹本宗道は正神界の神々とご相談者・願い出者・崇敬者・信者の皆様との媒体としてお仕えさせていただいております。好結果をもたらす祈願お祓い浄霊力と運命改善の御守護御導きは正神界の神々のおかげによるものでございます。

お問合せ ご相談者ご依頼の皆様の個別のご事情には審神者の会長笹本宗道が真摯に対応させていただきます。