宇宙神道 正神崇敬会の書籍の内容紹介 「神仰のパワー」 笹本宗園著 第二章 その3

「神仰のパワー」 目次    第一章   第二章 その1   第二章 その2   第二章 その4   第三章 第四章

神仰のパワー」 笹本宗道著 第二章 その3 (本文に一部加筆修正が含まれています)

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第二章 御教え その3
神理の御教え(一) 魔に打ち勝つ

一軒の家で亡くなった人が出た場合、ふつう四十九日の喪が明けるまで神棚を閉ざしてしまい、ご献饌もお参りもしませんが、正神界の神々様からご覧になられてこれは充分な信仰とは申せません。
如何なる時であろうとも、朝夕のお勤めはきちんとお仕えしなければならないのです。なぜならば、正神界の神々様はいつも私たちのことを見守り、御守護御導き下さっているのに、人間が勝手に怠っていいということはないからです。
亡くなった方に対して追悼の気持ちを持って行う喪ということには一理あるものの、死穢れと死霊の災いを恐れて、忌中だからと神のお祓いを避けて神棚を閉ざしてしまうのは明らかに誤りです。
つまりこれは天の岩戸が開く前の、神界からの浄化力が弱かった時代の教えと伝統なのです。国常立大御神様は「きれいずくにあたわず」と申されます。
一般的な神社神道の範囲は残念ながら形式と演出が主体であり、納得できる体系的教えも具体的な説法も祓いの力もソフトであるために、こういうことになってしまうんです。
生き生きと力強くお働き下さる高次元の神々に仕える私たちは、これではいけません。きちんと日々の勤めに誠を尽くしてゆかなければならないのです。
戒名が無いと人は成仏出来ないでしょうかとの質問が、ある方からございました。実は、これはお寺さんの人間サイドの経営上の問題が大きいということなのです。
時代を遡ってみると分かりますが、文正二年(1467年)に始まる応仁の乱から寛文五年(1665年)にわたる約二百年間に、最終的に江戸幕府が統制をして、一般庶民をこの世の戸籍として扱うことができる檀家制度に帰属させたことに端を発しています。
民間の菩薩寺の多くは、檀徒の先祖供養を通じて収益を上げるという、経営意欲の都合に重点を置いたのです。
ですから、高額のお金を払って戒名をいただくことと、御魂が成仏できるかどうかということは、全く別です。
ポイントは、お金をたくさん払って戒名をつけてもらうというのではなくて、御魂が成仏出来るかどうかなのです。したがって戒名を、無理してつけてもらう必要はありません。
さて、キリスト教の人は一般に天皇制に対して好意を持っていないと言われますが、なぜそうなのかというお話に移りたいと思います。
それは明治以降第二次世界大戦までの間、軍部がその権力に利用するために、国家神道と天皇制を結びつけたからです。
その結果、皇国聖戦の名目の元、多くの戦争犠牲者を出してしまいました。侵略国に対しても大きな損害を与え、人種によって人間を差別する過ちを犯してきたのです。また、信仰、言動、表現の自由を奪われてしまったからなのです。
国事に皇室の宗教的行事が取り入れられることは、憲法と世の中の平和追求ムードと逆行して、軍国主義、帝国主義につながりはしないかとの危機感を事情通にはいだかせてしまう訳で、私たちが気をつけなくてはならないこととして、一理あります。
本来の私たち日本人の宗教観とは、寛容な心に裏付けされたものであり、決して排他的偏狭ではないのです。
したがって、神の正しい教えに則(のっと)って心作りに励まれたならば、人と人とが互いに認め合い、国と国とも理解し合い認め合って、より一層よい状態での信頼関係を結んでゆくことが可能になるのです。
国境や人種の違いこそあれ、私たち人類の大元はただ一つ、神であり、相互利益と互いの幸福を追求してゆくことこそ重要課題です。
己れを正して世のため人のために生きることは、拡大してみますと、人類の発展に寄与して崇高な働きに参加することになるのです。
近未来にやがて国際分業化の時代がやってきます。そして、あと三百年後には国際連邦が樹立されると、神界より私は承っております。
魔神界と人類の業想念の浄化が速やかに行われたならば、これより早い時期に地上天国が誕生する訳です。その可能性はあります。それは私たちの自覚と正しい生き方にかかっております。
善行を実践し、陰徳陽徳共に積むことです。そうすれば正神は応援して下さいます。私は神の子なんだという自覚を持って、与えられた使命に全力を傾けることです。
魔神憑りや邪神憑りのうす暗い教祖或いは霊能者と呼ばれている人たちの多くは、人類の未来は暗いと口をそろえて言いますが、決してそのようなことはありません。
魔神どもがどんなに立ち回ってこの世を乱そうとも、人類は正しい霊性に必ず目ざめ、この地上は理想世界に近づいてゆくのです。
かつて正神崇敬会笹本宗園初代会長は苦行の末、大古より実存していた七大魔神界の実相を明確に解明しております。
それは天魔、地魔、宙魔、人魔、空魔、火魔、貴魔(こうま)の七大魔神が治める魔界であり、その最大の力は正神界の九十九パーセントに匹敵するという恐ろしく強い、凶悪なパワーを持っています。
ですから、正神界の御守護をいただいて、ある程度高い所まで昇られた人たちであっても、油断して心境を落してしまったために、これらの魔神にあっさりとやられてしまうという例はたくさんあります。
形骸化してしまった教団の中には、何らかの形で魔神が入り込んでいると思って間違いありません。
確かに一時期は人助けに活躍したのに、私利私欲に身を落としてしまった教祖等は、確実に魔神にやられてしまっていると思って下さい。
すでに丸四年を経過しましたが、以前私は宗園前会長と協力して、二次的魔神界の完明を果しております。
邪神の総帥級が最大限に穢れますと、二次的な魔神へと変異する事実を有史以来初めて明らかにしたのです。
例えば、竜神系魔神、稲荷系魔神、二次的人魔等をその例にあげることが出来ます。魔神界の実態は更に複雑化していますが、私はその全貌の解明を終結しており、逐次それを紹介してゆくつもりです。
前会長が私に全権を託して神業に出られてから以降、数万例に及ぶ浄化の体験を通して私が発見したいくつもの事実がございます。それと共に、国常立神界から直接お教えいただいた尊い神理もあるのです。
それらはすでに日々の修祓の中で実際に活用している訳ですが、その中の一例として奥魔神についてふれてみたいと思います。
奥魔神は霊体の最奥に潜んでおり、正神界からの分け御魂に逆対応して、私たちの想念を曇らせ、自分だけよければいいという邪悪な道へと私たちを誘導しているのです。心の中の悪とは、実は奥魔神による働きなのです。
われよしの陰悪な精神作用を、本人の御魂磨きだけに任せていても仲々進歩がみられないというのも、実はこれによる妨害が大きいからなのです。
魂の輪廻(りんね)を超えて悠久の歳月を深く浸潤憑依している魔神だけに、その浄化伏滅は七大魔神の浄化さえも超えた至難の業でありますが、私はこの浄化に対し、全力を投入してお仕えしております。
私たちは内なる魔に打ち勝ち、外から働きかける魔を退けて、敢然と善行を実践してゆかなくてはなりません。
正神界の神々様は私たちが自己の神性にめざめ、向上し、幸せになることを切に願われて見守り下さっておいでなのです。

神理の御教え(二) 運命と人

人生の総決算はそのファイナルの時、明らかになります。今世が苦労のみでいいことがほとんどなかった不運な人がいるかと思えば、可もなく不可もなしという方がおられます。
中には納得できるよき人生であり、わが人生に悔いなしと胸を張って言える方もおいでになられます。
人の一生とは正に様々でありますが、心の持ちよう一つで私たちの幸不幸の比率は多分に変化します。ですからこれを定義づけて、一概に決めることは出来ません。
はた目から見たら苦労の連続で大変だと思われていた人が、感謝の心でいきいきと生活され、案外充実したよき人生であったということもございましょう。
またある人の人生は、現世的な地位や財産に恵まれて、多くの人々から羨しがられていたにもかかわらず、さもしい心で一生を終えてしまったという例もあります。
また一部の数少ない立派な人たちは、功なり名を残し、名実共に称賛に値する人生を送られた上で、あの世へと旅立たれています。
私たちが今日親しんでいる多くの名曲を残したモーツアルトのような天才であっても、現世的には充分に幸福な人生だったと言えない方がおられます。
反対に名を残さなくとも、今世の行を立派に果たされ、比較的幸せな人生を全うされた人々もおられます。
さて、今世を生かされている私たちは浄化消滅しなくてはならない前世因縁と家系因縁、そして原罪という大きな三つの重荷を背負っているのです。
私たち一人ひとりが乗っている小舟は、それぞれの目的地へ向って人生の大河の中を進んでおります。
私たちは舟の舵をどの方向へ向けるかという自由と、自力でオールを漕ぐ自由を神様から与えられています。
しかし、大きな流れの中にあって思う方角へ現実に舟を動かすのは容易な作業ではなく、実際にコントロールがきくのは、その一部にすぎません。
見方を少し変えて同じことを申し上げますが、つまり人生のうちで思いどおりになるのは、全体の中の一部であるということなのです。
計画どおりに物事を進行させ、成就することが如何に困難であるかは、体験と史実を通じて皆さんもよくお分かりになられているはずです。
自力の航行とは別に、人知を越えた運という流れと働きがあることも確かな事実です。生活とは毎日が殆ど同じくり返しであり、時には退屈を感じることもある訳で、そうした中にあって私たちは何かいいことがありはしないかと夢に描くものです。
そこそこの実力と目的意識は持っているはずだが、何とかしてプラスアルファーの力が得られないものだろうかとお考えの方もおられましょう。
世の中にはチャンスを摑んで運気の流れの波に乗り、力強く進んでゆく人たちが現実にいるのですから、自分もそのようにありたいと羨望(せんぼう)の目(まな)差しを向けつつ、願望することがあるはずです。
したがって、開運、チャンスを如何にして摑むか式の本や、おまじないグッズ、宝くじ等が飛ぶように売れたりする訳です。
好ましからざる例ですが、何かいいことがありはしないかの範疇(はんちゅう)にギャンブルも入ります。付き合い等でやむをえない場合であっても、楽しむゲームの範囲を逸脱してはなりません。
これと比較した場合、社会性と併せて研究して行う点で株式は高級と申せますが、根本の心が腐っていると前者と同様になると神様はおっしゃられます。
たちの悪い仕手集団のように、適正な株価を自己の利益追求のみによって買い占め、常識的限度を越えて操作することは、通貨を偽造して私欲を満たすニセ金作りの行為にも等しく、社会に貢献するという実態を伴わない悪事であります。
安易にお金もうけをしようとすると、必ず邪神や魔神の憑依を受けてしまいます。ですから悪事を働いて一時はいいように見えても、必ず転落して地獄の道を歩まされてしまう訳で、本人も家族も子孫も悪因縁の黒い糸にからまれて、報われることが大変困難になります。神理に則した生活に軌道修正して、因縁浄化を計らない限り、決して報われることはありません。
楽をして目先のお金を追いかけるのは、たいへんに危険なことなのです。ともすると安易な方向に流されやすい若者は、よく注意すると共に自戒して下さい。
運命についてのお話にもどりますが、これに関する身近な窓口となるのが占いの世界です。昨今の占いブームにて、プロの占い師の総数は全国で五十万人にのぼるとも言われております。
最近は奇抜さを売り物にした中身のない占い師を目にすることも少なくありませんが、オーソドックスな易や占星術は統計的要素があり、きちんとした先生の判断には、それなりの信憑性を認めることが出来ます。
占い、神占、神託の指導と守護を主管している神界は神仙界であります。神仙界の領域は四次元から五次元神界の下端に渡っております。
占いの的中率は平均六割程度ですが、占者の霊格と守護神の位が高く、かつプロとしての経験豊富な方の場合には、的中率八割以上ということも稀にあります。
これとは逆に、教本のみでセンスの悪い人の場合は五割、つまり当るも八卦、当らぬも八卦ということになります。
話は変わりますが、生命について確率的に考えてみたいと思います。私たちが地球上に存在しているのは、両親のいるおかげです。
その両親が結婚した時代の日本の人口は、現在より少なかったものの一億人前後はいた訳で、その中の結婚適齢期の男女数が仮に一千万人いたとしたならば、両親が結婚した確率はその半分の五百万分の一になります。
これを世界にあてはめ、同時期の世界人口を仮に三十五億人として計算してみましょう。適齢期の男女数がその十分の一で三億五千万人になりますから、両親が結婚した確率は一億七千五百万分の一となります。
そして父親の精子約三億匹の中の一匹と、母親の約三百個ある卵子の中の一つが目出たく受精して母胎に宿り、しばらくして私たちはこの世に誕生できたのです。
これを計算してみますと、国内的視野で見た私たちの存在確立は五百万掛ける三億掛ける三百を分母にした値、即ち四十五掛ける十の十六乗分の一になります。世界的視野に拡大した場合には、千五百七十五掛ける十の十六乗分の一となります。
兆という単位を越えた数値が示すがごとく、私たちがこうして生きていられる確率は通常の人間の思考を越えてしまいます。
この概算には流産や新生児死亡率やその他の不定的要素は入れてありません。したがって、私たちが地球上に実在しているという確率は更に小さなものになります。更に太陽を中心として生物の住める地球のような星の存在確率は一兆分の一以下です。合計して計算しますと、私たちの存在価値は、千五百七十五掛ける十のニ十八乗分の一以下になります。こうなりますと、私たち一人ひとりがもはや生かされている奇跡以外の何ものでもないことが、お分かりいただけるはずです。
私たちは神の命(めい)によってこの世に生を受け、それぞれが遂行してゆかなければならない使命があるのです。
一人ひとりが果たすべき役割こそ違いますが、共通して言えることは如何にして自己完成に近づくかということと共に、どれだけ世の中のためになれるかということの二点に集約されます。
神様は万人の人生に対して平等に、三回のチャンスをお与えになられています。チャンスを摑み、上昇運気の波に乗ることが出来れば、人生の舞台とそのスケールはより大きく展開してゆくことになります。
チャンスがいつ訪れるかということは、人によって様々な違いが見られます。何処(いずこ)からともなく音もなくやって来るこのチャンスを的確にキャッチするためには、それなりの心構えと日頃の努力、そして適格な判断力を要します。正確な判断力と鋭敏なインスピレーションは、正しい信仰によって磨くことが可能です。
楽をしていい思いをしようなどという我欲の曇った心では、この幸運の女神の姿は到底見えません。
せっかく女神様が手を差しのべて微笑みかけて下さっているのに、惜しいことに私たちは気づかずに素通りしてしまうことがほとんどです。
邪念を持っていると邪魔霊が必ず妨害しますから、尚のこと女神様から遠ざかざるを得なくなることも、一般の方は御存知ありません。
邪魔霊とは人間の業想念が作り出した二次的魔神です。いったんその憑依を受けてしまいますと、祓い浄めを受けないとやっかいなことになります。
なぜならば自然浄化には相当の年月を要し、その間の努力は空回りと徒労が多くなってしまうからなのです。幸運の女神と握手するのと疫病神にとり憑かれるのとでは、それこそ雲泥の差です。
私たちの心境が向上したならば、守護神様はより霊格の高い方がおつき下さいますから、よりよいルートを進める可能性が増大します。もちろん正神界の稲荷神界の神々も力強くお導き下さいます。
以上、いいと悪いとでは大違い、よりよき人生を送るためには、正しい信仰が必要であることがお分かりいただけたかと存じます。

神理の御教え(三) 神道と日本人

天武天皇の他界後、元明天皇の命令で我が国初の歴史書である古事記が、七一二年に完成しました。
これは帝紀・旧辞を天武天皇に誦習(しょうしゅう)させられていた語り部(かたりべ)の稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述を、太安万侶(おおのやすまろ)が中心人物となって記録し、大成したものです。
やや遅れて、舎人親王らが七二〇年に日本書記を完成させました。記紀(注・記紀は古事記と日本書紀の省略形)は、神代の時代からの神話と史実を記録した神典であり同時に歴史書です。
天武天皇と元明天皇は漢書・後漢書などの中国正史にならって、国家の起源を確立するために記紀の存立を願望しましたが、統治の王として国家の起源を制定し、神武天皇に始まる皇室祖先を天照大御神に直属させることによって成立する、絶対的権威の必要性に宇宙創造の神々の意志による働きかけが間違いなくございました。
当時の社会は武力に勝る者が支配する、強い者勝ちの野蛮な世でした。戦乱を治め、地方豪族を統制して平和な世にするためには、偉大なる神々のうしろ楯をいただく強大な権力が不可欠だったのです。
圧倒的な権力は、天皇自身の地位を安定させるためにも必要でありました。日本に限らず、王家の権威を高めるためにその祖先を神に帰属させるという行為を、実は世界中の王や権力者たちが古来から行ってきたのです。そこには人間の権力欲や野心に始まる、どろどろした欲望も大きく働いていました。
乱れた世を段階的に統制して、よりよい世界へ向って進化させるために、国常立大御神様はこの時代には、このことを許されたのでした。否(いな)、やむをえずお許しになられたと知る方が、より適切です。
当時の社会は歴史に残る表舞台こそ、それなりに華やかでありましたが、魔神界が凶悪窮(きわ)まりないパワーを発し、その極悪な謀略によって動かされている怨霊うず巻く世界でもあったのです。
文明の扉が開いてから、人は人と協力し合い、幾多の困難を乗り越えて物質的には恵まれるようになり、今日の日本の繁栄にまで到達しました。
現代科学の目覚ましい発達は、僅か百年前ですら想像も及ばない程、私たちの生活を便利で快適なものにしてくれました。
しかし、太古より魔神界が恐れと飽くことを知らない人間の我欲を狙って、働き続けています。それは世紀末と言われる時代でも同じです。
クウェートに侵略したフセインは、極限的権力欲と我欲の囚であると同時に、五万体の魔神軍団に支配された悪の化身であります。人間として見たフセインは、最大級の強欲冷徹無比な人物です。
霊的に見た場合、魔神どもに操られる操り人形であり、中東のみならず人類の平和と発展を危機に陥れる破壊工作をさせられていることが分かります。
悪魔に心を売った権力者たちは、その時代の舞台設定と登場人物の違いこそあれ、同じような悪行を少なからずくり返してきました。
権力の維持とその拡大のために、多くの人々を巻き込み、血で血を洗い、総てを奪い去ってしまう戦争。意に反する者たちへ容赦なく行われる恐ろしい粛清という名目の大量殺人。権力者たちの権威と快楽追究のための重税。或いは強制労働などがその例です。
戦争による権力者たちの交代劇と、幾多の苦難の人生を歩まされることを余儀なくされてきた民衆の姿とを、歴史は明確に物語っております。
六世紀(五三八年)に仏教が日本に伝来しましたが、それ以前からも渡来人たちと共に少しづつ伝わってきたことは事実です。

中略

学問的には神道は日本の民族宗教に類別されます。しかし、古くは大陸と南洋諸島の信仰概念も含んで成立しています。
たとえば、大国主神話をその例に上げることが出来ます。皆さんがよくご存知の、あのいなばの白うさぎのお話です。この伝説は寓話としてその変異形は数多くみられ、広く東南アジアに分布しています。素盞鳴神話にしてもまた然りです。
今から数億年前の中世代の地球上に、日本列島は存在しません。僅かな陸地を除いて、そのほとんどが海の底でした。
地殻変動によって現在に近い形になったのは、約一千万年前のことです。そして五十万年前から二万年前までの四十八万年間に、地球上には何回かの氷河期が訪れました。
氷河期には大量の海水が氷りつくため、そのぶん海水が少なくなって、日本列島は大陸と陸続きになったのです。
当時の人類は原始的狩猟生活をしていました。獲物もマンモスやナウマン象を追って、日本人の祖先は大陸からやって来たのです。
氷河期が終わると日本は大陸から分断しました。その時にとり残された人々が、私たちのベイシックな祖先です。
十万年に及ぶ縄文時代とそれに続く弥生時代以降、大陸からの渡来人の定着は断続的ではありますが実在しました。また、南洋の島々から黒潮に乗って訪れた民もいたのです。
戦前の学校教育では、天皇は現人神(あらひとがみ)であり、日本は単一民族の国家だと教育しましたが、これは誤りでした。天皇の御役は大神主にあらせられます。
私たちの祖先は、広くアジアの民です。定着した人々が長い年月を経て日本の気候風土の中で混血化し、やがて日本人としての特徴が形成されていったのです。言語・風俗・習慣も独自の形態のものが育ってゆきました。
人種としてアジアの人々と私たちは同一祖先を持つ親戚・同胞です。
ちなみに約九百代から千代遡(さかのぼ)りますと、私たちの先祖とアジアの人々の先祖は軌(き)を一(いつ)にする訳です。

中略

日本人として正しく人間の心を育む神道の伝統は保持し、子孫へ伝えてゆかなければなりません。それは、今を生きる私たちに与えられた使命の一つです。
これとは逆に、時代に則した生きた教えも必要です。
私たちは天地自然の万物と総ての生命に霊性がそなわり、総ての尊い生命の調和を教えて下さる、国常立大御神の御心を受け止めて神道精神である自己創造的発展的生命活動を発動して、宇宙の進化に寄与するという人間に与えられた尊い役目を果してゆかなければならないのです。

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